UA「泥棒」を聴く

2015.11


UA「泥棒」ジャケットアート

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暗い、夜の、小劇場

〝暗い夜の小劇場〟――これがわたしが感じているUAのアルバム「泥棒」への印象である。

90年代後半から2000年代の初頭にかけて、椎名林檎、Cocco、鬼束ちひろなど、わたしの好みの女性シンガーが多数登場したなかで、異彩を放っていると特に強くわたしが感じたシンガーが、UAだった。

ジャジーでときにワイルドな節回し、抽象的で澱んだ歌詞とメロディ、きらめくような夜の街ではなく軋む建物の並ぶ遠いどこかの寂れた国の声。UAのアルバムを全部聞いたわけではないから、「総論」として語ることはできないが、わたしがUAについて感じたことは、まあそんなところだ。

ここでは、UAという歌手についてではなく、「泥棒」といアルバムについて話したい。

さかのぼる事、2003年。当時、私が勤めていた雑誌書籍の編集会社では毎日ラジオがかかっていた。チャンネルは大抵JFMで、失いがちな曜日感覚や外の天気の様子を把握できる貴重な要素だった。ラジオは社長の好みだったらしい。

しかしながら私の横の席の先輩社員は実はラジオがそれほど好きではないようで、社長が取引先に直行する朝などは、ラジオのスイッチを入れるものが誰もおらず、午前は静かなまま過ぎるのが通例だった。それに、仕事を終えた社長が会社を出ると、先輩社員はもっぱらCDを流していた。

先輩社員のCDのセレクトは大抵がアンビエント系のエレクトロニカやテクノで、わたしはその先輩にテクノの名盤や民族音楽の必聴版の多くを紹介してもらった。その先輩のラインナップのなかに、UAの「泥棒」があったのである。

声や楽器の音をそのままマイクで通し、余計な電気的加工を排除している(と思われる)生っぽい音。CD化する上で生じる音の変質(生との差)が極力生じないように気を配っている音作り。楽器が耳元にあって、音がキスしてくるかのようなデリケートで純情な、〝音そのもの〟の聴かせ方。歌だけでなく、演奏の 〝空気そのもの〟 を丸ごと収録したかのようなこのCDに、わたしはたちまち魅了された。

空間の響きそのものを封じ込めるという意味ではクラシックのCDも同様に音の生(リアル)感には凝る。しかしオーケストラや合唱の録音では、コンサートホールの響きそのものも、楽器と同じくサウンドを構成する要素の一つとして録音される。いわば客席において得られる 〝理想的な聴こえ方〟 を追求している。

一方、「泥棒」では、極めてその距離が近い。耳あるいは聴く位置が楽器に近過ぎれば、音楽的な音色だけでなく微かなノイズも耳障りなレベルで届いてしまう。だが、UAの音作りは、その微かなノイズも心地よいアクセントとして、あるいはデコレーションとして調和を形成しているのだ。

わたしは〝音そのもの〟が収録されていると書いたが、その〝音〟には「軋み」や「擦過音」など、それ自体が本来は鑑賞対象でない音も含まれている。

それゆえに、このCDを聴くとき、わたしはあたかも小さな小さな古びた地下劇場にいるかのような錯覚をする。街の片隅にある、夜の小劇場の音楽。それがわたしのこのアルバムへの印象なのだ。

収録楽曲

※本文中の《》は歌詞の引用

記憶喪失

深夜、劇場の扉が開く。わたしはそこへ足を踏み入れる。灯りは幽か、適当に自分の席に座る。その席がはじめから自分の、自分のためだけの予約席のだったようなそぶりで。

ベーシストが楽器を構える。楽曲の最初5秒間はほぼ無音だ。ベースが8小節間のイントロを2回奏でる。シンガーが舞台の陰から姿を現わす。舞台灯りも暗い。

歌い出しの歌詞も陰気だ。《空が割れて古い隕石が頭の上に 落ちてひとつ記憶を失くせるなら あのウタを忘れたい》。1曲目から「ウタを忘れたい」と歌手が歌う。空、雲、そして宇宙船。誘拐される自分のイマジネーション。

地下の小劇場で、宇宙人に誘拐される夢想が広がる。記憶を失くした後なのか、これから記憶を失くすのか、自分が何を見たのか、見たかったのか、記憶と意識の混濁の中で、ハミングで歌は終わる。イントロと同じベースラインが闇から浮かび上がってくる。記憶はどこへ行ったのだろう?

閃光(アルバムヴァージョン)

アカペラで《吠える空を見た 目を閉じたまま突き抜ける景色を》と歌は始まる。アカペラ(〝教会風に〟)とは言っても、教会堂の中で歌われるような残響も余韻もない。すぐそば強く、しなやかに歌われる。

この歌では世界の成り立ちとその終わりがミクロとマクロの混ざった世界観が繰り広げられる。《何度も塵になった世界は・・・陰をも産んで 名もない色をまとう 小石をそっと 女の子が拾って 窓辺に置くよ》。世界が地球なのか、小石が地球なのか。ウドゥドラムの不気味なうねりが、不安を掻き立ててくる。

《ねえ 今何時なの ここは何処なの 貴方は誰なの 帰る家はあるの》。わたしは1曲目で記憶を失くした。わたしを「月が見ていた 夜が見ていた」。だれを? わたしのことかもしれないし、窓辺の小石のことかもしれない。わかっていることはただ一つ《尋ねるよ 何を失くしているのかと 誰をずっと探してるの》ということだけ。

夜の闇の中で、月光なのか、そうでないのか。正体のわからない一条のラインが見える。それは光かもしれないし、一本の白線かもしれない。《これ以上 何を見ればいいの》。そうだ、わたしは光とラインを信じてればいいだけなのだ。わたしはただ《月を見ていた 夜を見ていた》ということだけなのだ。

《私の奥に射し込む光は 貴方の瞳の奥に在る 一筋のラインを超えてくる》を、それがたとえ、瞬く間でに消えてしまうかもしれない閃光だとしても、わたしはそれを信じて探し続ければいい。

舞台はそうして、ふたたび暗転する。それにしても《吠える空》って、どんな空なんだろう? 飛行機のエンジン音が轟く情景なのだろうか。

泥棒

ベースが8小節のイントロを奏でる。「記憶喪失」とは異なる、1歩1歩、歩くようなテンポで、1拍ずつ。ざわめきのようなパッカーションとホーン楽器のつぶやきがする。

わたしは薄暗いなかで発見する。《舞台の中央に捨てられた裸の心臓》を。しっ! しかしうかつに手を出してはいけない。《ジャバラな》歌手が《めくられて》いくと、舞台の奥では《おばけ 怪獣 悪魔》が蠢いている。こちらへ来るのか、来ないのか。その後ろの陰に、その姿をちらりと見せたのは《泥棒》だ。そして化け物どもの後ろで《不埒なあなたが舌を出す》。

舞台にのっそりと姿を現わす泥棒の不気味な姿。《誰か どうか お構いなく 彼を あいつを 消して 檻に入れて》とシンガーが歌う。そうだ、動物の檻だ。わたしは格子を泥棒の前に下ろす。《とかげ らくだ きりん》そして《泥棒》だ。この夜の小劇場には、お似合いの檻ではないだろうか。そして、動物らと並んで展示されているのが《泥棒》という謎かけとミステリアス。

瞬間

絵本の朗読のような前半と、ジャジーな後半に分かれる叙情的な一曲。

水面の〝泡〟に恋していた1枚の 〝葉〟 。落葉を迎えて水面に落ちたその 〝葉〟 の切ない思いと物語が淡々と肩られる。《ああ僕は今日までこんな綺麗な空を見たことがあっただろうか 毎日毎日池ばかり見て この広い世界を見ることをすっかり忘れていたなんて》と彼は自分の視野が恋によって狭まっていたことに気づく。しかし背後からその「瞬間」は不意にやってきた。《右の耳に不思議な優しい音が近づいたとき 彼は気がついた あの娘だ》と。

《空に行きたがっていたよ》と、水中で葉っぱはナマズから聞かされる。葉っぱとナマズは《空の色》についての話をする。空を映す水、水色の空、互いに映し合い、情念が行き交う空と水。葉っぱの泡への想いの物語はこうして完結するが、《この話に似たようなことが あなたにも多分起こるでしょうね》とUAは歌う。彼女のアドバイスは《そんなときは我慢しないで 飛び込んで》というシンプルなものだ。そして《あなたがずっと欲しがっていたこと 蓮の花が思い出してくれる》、《あなたが本当に欲しがっているなら 蓮の花を描いてよ 色を交ぜてよ》という。

《悲しい理由は もう2度と戻らない瞬間に 全てがあって 全て終わったから》と歌う。葉っぱと泡の出会いはわずかな瞬間の邂逅、それは葉っぱと泡にたとえられているけれども、それは人生の中の短い出会いと別れのようでありながら、いつしかそうなりたいとずっと願っていたことでもあった。だから《あなたが一番 愛すべきことはそう もう戻らない 今この瞬間》への全力、全神経、全生命を賭けてその瞬間を愛さなくちゃいけないんだ。その瞬間 〝に〟 愛さなくちゃいけないんだ。《この話に似たようなことが あなたにも多分起こるでしょうね》とUAは予言する。占い師のように。

世界

ウッドベースから始まった前半はここからドラム主体のナンバーに切り替わる。流れるようような音楽は、わたしの知っている初期のUAの世界観にちかいものがある。「瞬間」の水辺から、風の吹く自然の舞台のような場所へシンガーへ移り、そこで歌っているように見える。

この曲の語る「世界」がどのような世界なのかは不明瞭だが、《私を見てる 遠いところで この空より高い場所を見た》、《雲ひとつない 空の下》と、視界の開けたどこかの山頂にいるようだ。この歌では視覚がその役割を大きく果たしている。だけど、音と景色の境目も曖昧なまま、《見つけたのに 目を閉じた》と締めくくられる。

ブエノスアイレス

このアルバムの中で、唯一、具体的な地名が登場し、描写も具体的である。作詞はもちろんUAが担当しているので別人がやったわけではないようだ。

でもブエノスアイレスに行くわけではない。《ブエノスアイレスを思った日の夜》の歌なのだ。「世界」からがこのCDの後半とするとしても、「ブエノスアイレス」でふたたびは小劇場の中へステージは戻っている。小さな〝夜想曲(ノクターン)〟なのだろう。

ここでも 〝水〟 が象徴的に登場する。《あの大きな滝へ 名前はわからないけど 地球が転がるくらいに めちゃくちゃに水が落ちてる》と滝で《カエルに借りた傘》を使う幻想的なイメージで旅(トリップ)は続く。「瞬間」で葉っぱは泡のために沈んであげるくらいしかできなかったが、ブエノスアイレスでは《時計の針みたいに手をつないで タンゴのステップを踏もう 水しぶきの中 ぐるぐる回る》と踊る様子が描写される。でも《闇夜にはメルヘン》なのだ。ここは本当のブエノスアイレスではない。《闇夜にはメルヘン 忘れないでね》と。

歌の冒頭で登場する《隣の庭の大きな梨》は、後半でも再び現れる。それは《嘘つきピノキオの鼻がどんどん伸びて ト音記号みたいにくるんと曲がっていくよ 隣の梨の枝にぶらさがってるんだよ》と。実が落ち、ピノキオの鼻がかかっている梨の木。くるんとしているのは、《ハンドバッグはホルンの形》とも共通している。

《パパもママも何処 僕の高さで目を見て》《ねえ もっとちゃんと見て 僕の高さで見てよ》とブエノスアイレスへの夢想は、だれかの嘘だったのか、それとも嘘はメルヘンの中だけの言葉だったのか。謎めいた含み笑いが、しずかに闇夜に消えていく。

ドア

この曲もドラムから始まる。このアルバムの中でも特に幻覚的なイマジネーションに溢れている楽曲だ。《ベイビー そのドア開けてよ この部屋はまぶしくて見るのが嫌になったの》と情景とともに呼びかけられる。でも《陽だまりが地面をはしゃいで喜ばせてた いつまでも笑って らせんを描いて 空にたどり着くまで》と、「瞬間」「世界」でみた晴れ渡った空への憧憬がここでも繰り返される。

そしてなにより、今が昼なのだ。《右の膝に残ってた 昼間の跡がうまく隠れて夜を待ってる》と、このアルバムの中では、めずらしく夜を求め、夜を待ち、体の一部に残って疼く 〝昼〟 と少しの間つきあっている。

でも、夜は期待したようなものじゃなかった。《火曜日の朝にひどい夢で目が覚めたの 壁の無い部屋に暮らして みんな見てるの だけど私には目が無くて》。視覚を失った悪夢から救い出してくれるのは触覚だろうと《こんなにも人の肌が柔らかいってこと 覚えたけど》と言いながら、そして《抱いて 今をただ抱いて》と、ふたたび 〝今〟 という「瞬間」への深い没入がはじまる。ストリングスの響きがどの曲よりも印象的に奏でられる。切ない。

足りなかったものは何なのか。《値札には理性の文字が書かれてた》《未来の頭文字が おどけて読めなかっただけ》と語る。でも、プラスもマイナスもない。夜が悪夢になってしまった戸惑いと混乱が部屋の中の主人公を覆ってくる。だから《ベイビー ドアを開けてよ》と呼びかけるのだ。それも、曲の始めと、終わりで、2回も。

ただ、ただ、《愛してるって言葉がただ 喉に届くの待ってただけなの》と悪夢から覚めた後の独白、そして《だから ドアを開けてる この夜と明日は 仲良くできないから》と、懐かしくて愛おしい別の 〝夜〟 へ、想い耽る。

彼方

このアルバムの最後の楽曲である。ギターとドラムがイントロを奏でる。ウッドベースは、この曲では音楽をリードするよりも、徹底してシンガーに寄り添う。それも、呼吸をぴったりに合わせて、肌の潤いが移るくらいの近くで。そういえば、ひょっとして、このCDで三拍子なのは、この楽曲だけかもしれない。ベースは頭拍を中心に、後ろ2拍でその腕で歌を抱き寄せて、踊るためのステップを教えている。

《今 彼女の瞳には彼の笑顔》と男女がこの歌には登場する。《またあの花が咲いてる》のが笑顔の暗喩なのか、それとも「瞬間」で歌われた蓮のことなのかはわからない。花はこの歌ではここにしか出てこないからだ。それは彼女がもう花の単品では無く、もっと広いものを最後に見ているからだが、それは後で触れる。

《煙をくゆらせて 波描いてよ ねえ ダンスはいかが 得意なんでしょう》と誘うが、ここには相手の気配が薄い。《言葉にできなくて外を見てた》でドアの向こうがあり、《言葉にならなくて飛行機を見てる》はひょっとしたら「記憶喪失」で誘拐してくれた宇宙人だったのか。それとも夢から覚めて、本当にただの飛行機に戻ってしまったのか。

主人公のこの夢想の先、そのダンスの終わりにには罪がある。《全てを間違えた気がしたの神様 怒らせてみてもいいんじゃない 神様怒らせて逃げたりしたらどう》。背徳に昼も夜もなかったか、でもやっぱり夜だろう。わたしは、そういう無理なこじつけはしたくない。何しろ季節は春なのだ。春の夜なのである。「泥棒」でも《4/14 23:00》――しがつじゅうよっか、にじゅうさんじ――(泥棒)と歌われる。花の盛りのこの時節に《神様 怒らせてみてもいいんじゃない》と挑発的な笑みを浮かべる。

このアルバムの泥棒は、いったい何を盗っていったのか。《裸の心臓》(泥棒)なのではないだろうか。それも、春の夜に、大切なもの、心を盗んで行こうとした。《それは多分そうね きっと盗まれた》(泥棒)から、「彼方」では挑戦し、挑発し、誘惑したのだろうか。

でも、罪は彼女を逃さない。描かれた《波》は、きっと塩辛い水の塊となって襲う。だけど彼女はそれで動じずに《このままこの部屋が舟になれば》と泣いても、泣いた後に勇気付いたら、さまようことになって躊躇いはない。《この話に似たようなこと あなたにもきっと起こるでしょう だけどそんなときは怖がらないで飛び込んで》(瞬間)と怖気付かないことをすでに歌っている。《この冷たい水はあなたの中 のぞいて染みこんで》(瞬間)と。

でも夜の小劇場の夢想はそして終わる。舞台は終わり、彼女と彼だけの時間。でも《今 彼女の瞳には彼の笑顔 でも彼女が見てるのは 春の彼方》なのだ。わたしはこの歌の冒頭で、彼女も彼を見つめているのだとばかり思っていた。でも、そんなことは、どこにも書かれていない。ただ花へと話が進んでいただけだ。

《何を見ればいいの》と「閃光」で歌われた、その 〝何〟 を彼女は見つけたのだろうか。それは《春の彼方》のことだったのだろうか。彼女の見ている 〝春の彼方〟 は、泥棒が心を盗んだ翌朝なのか、記憶は失われたままの翌日なのか、似たような話が繰り返された時間なのか。

夜ごとに繰り返される小劇場の軋んだ舞台上のひと幕の物語。それがわたしにとってのUAのアルバム「泥棒」なのである。このCDの発表からおよそ1年後、ハスキーボイスの「うたのお姉さん・ううあ」がNHK教育テレビ(eテレ)に登場する。「泥棒」の一夜で出会った彼女が、翌朝には真っ赤な鳥のいでたちで現れた。そして、気だるく「おはようさん、ううあだよ」と、わたしに声をかけた。

〈おわり〉