紀行|ドバイ、2005年

2019.11.6

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text and photograph by ozakikazuyuki

聖なる断食月

 2005年の10月、私は仕事でドバイへ飛んだ。

 当時のドバイは石油の輸出に依存した経済から、観光業への転換や企業誘致など、ビジネスの多角化を積極的に進めている時期だった。私がドバイへ行くことになった理由も、観光局(ドバイ政府 観光・商務局)からの依頼で、私が在籍していた雑誌社に特集記事を作ってもらうための「取材ツアー企画」だったのである。

 訪問した時期は、その年の「ラマダーン(断食月。神聖な時期である)」が明ける数日前だった。断食といっても、絶食期間は「その日の日の出から日没まで」である。そのため、日が暮れると、街は一斉に賑わいだす。神に感謝し、食事がはじまり、それは宴会となって遅くまで続き、娯楽で盛り上がる。そして寝静まり、再び夜明けとともに水一滴飲まない一日が始まる。

 ハイアットホテルの庭には、大型テントがいくつも並んでいた。日没とともにお客の一族が集合して楽しく食事をするのだという。取材班の乗ったバスでミネラルウォーターを飲んだら、ガイドからカーテンをして、隠しながら飲んでくれと指示された。私は外国人の異教徒だから飲んで問題はないが、人目をはばかるほうがよい。

 ガイドは日本人妻のいる、日本語が達者なスリランカ人。非ムスリムだが、郷に入っては郷に従うスタイルだ。一方、バスドライバーの国籍はパキスタン。ムスリムなので、彼は当然断食中である。


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塔のある町


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 私が取材訪問した時点では、ブルジュ・ハリファは建設工事中だった。ブルジュ・ドバイが当時の名称で、落成のおりに突然、ブルジュ・ハリファの正式決定が告知された。こうした土壇場の変更や当然のプラン変更はアラブ人のビジネスでは日常茶飯事。気にしてはいけないらしい。できる範囲でやる。神の思し召しがあれば、うまくいくだろう。人間が考える計画など、たかがしれているのだ。

 市街にはインド人やスリランカ人の労働者が多く出入りしており、生粋のアラブ人はショッピングモールやレジャー施設の中心部でしか見かけない。彼らはたいてい、冷房の効いた場所にいる。ドバイの人口の約3割はインド人、次いでパキスタン人だと聞いた。アラブ人は人口に2割もいないのだ。

 観光客呼び込みが観光局のミッションなので、私たち取材班もいくつかのアクティビティを経験した。たとえば砂漠のドライブ。まぎれもないオフロード。四輪駆動車で砂丘を登りくだりするジェットコースター的な遊びだ。アタマを空っぽにして、走るのだという。

 ドバイカップで有名な競馬場。日の出が朝霧を朱く染める中、馬の走り込みをしている。暑くなりそうだと感じたが、すぐに冷房の効いたVIP席へ通された。ちょうどメルボルンカップのTV中継が放送されており、競馬場おなじみの羽付き帽子のマダムなどがおしゃべりしていた。ここでは馬券が宙を舞うことはない。サラブレッドの故郷はアラブだ。ここにはその系譜を示す博物館と厩舎を見学した。

 スーク(市場)は今でも現地の方々の場なのかもしれないが、きっと浅草の仲見世通りのように観光客こそが商売相手のようにも思える。観光客はなにも日本人や欧米人とは限らない。アラブ圏からも、多くの観光客が来ているのだろう。

 2005年のドバイはどこもピカピカの新築ばかりだった。歴史博物館さえも新築で、あちらこちらがハリボテだった。ショッピングモールはどこもユーザー体験を設計して作られた、演出された遊び場で、舞浜のイクスピアリに近いと言えばわかりやすいだろうか。

 ドットコムバブル崩壊の惨禍は過ぎ、サブプライムローンの破綻に端を発するリーマン・ショックまでは、まだ3年の年月がある。投資も絶好調。ヤシの木の形やら、世界地図の形を模した人工島が話題を、視線を、人を、カネを集めていた時期でもある。

 バブルの恩恵をほぼ受けず、就職氷河期を経験した私は、ドバイの脱石油の国策を称賛しつつも、その足元はどうだろうとやや冷ややかに見ていた。何しろ砂と海の接する場所にある町だ。ウインカーを付けずに高速車線変更をしていく高級ドイツ車を横目に見ながら、これが砂上の楼閣、あるいは蜃気楼でなければいいと思った。

 たしかにドバイは砂まみれの場所だが、水っ気の多い土地でもある。北には「湾」、市街の中には「川」があり、川の上流はフラミンゴの舞う野生動物保護区となっている。砂漠にも自然保護区がある。砂漠を単なる荒廃地とおもうのは早合点だ。砂漠には砂漠の生物多様性があり、自然がある。石油以外の資源、カネになる売れるもの、観光とサービスがこの国のビジネスだと教わった。

 そもそもドバイの基幹産業は真珠採りであった。ドバイの真珠産業を崩壊させたのは、19世紀末から20世紀初頭で発展した日本の養殖真珠技術である。ドバイの天然真珠は競争力を大きく失い、産業全体が衰退する――石油の登場があるまでは。奇しくも私はビゼーのオペラ『真珠採り』を前年に鑑賞していた。この作品の舞台はスリランカである。実際にスリランカにも真珠産業はあり、ドバイ同様に、日本の真珠養殖技術確立による影響を大きく受けたようだ。

 アラブ首長国連邦の最大の国アブダビが石油を莫大な富に変えた。ドバイも石油は出たが、埋蔵量はアブダビより少ないと見積もられていたらしい。石油依存に見切りをつけたドバイの首長は大した経営者だと思う。国家もひとつの経営事業体なのだから、社長の決断力が未来を開拓する点では同じだ。

 青と白の半月型が特徴の世界最高級ホテルの1つとされるブルジュ・アラブ(アラブの塔)の中の取材はなかった。写真が欲しければ、広報素材が提供されるが、そんなものはつまらない。撮りおろし以外は誌面には載せないと決めた。


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灼けた砂のにおい


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 観光局が用意したツアーバスに乗り、レストランに運ばれ、ときには「一般市民の生活と文化を紹介する」という名目で、家庭にもお邪魔する。まぎれもない一般家庭なのか、それとも雇われた俳優が「ふり」をしているのかは、私には見抜けない。

 高層ビルを見上げてばかりなのは癪だ、というわけではないが、ヘリをチャーターしてドバイを空から見下ろすことにした。取材費として会社から現金を支給されてはいたが、日中、ほとんど出費する機会がなかった。思い切って観光ヘリを他の雑誌社の取材班と合同で借りて、空撮を敢行したのはそういう理由だ。

 ヘリは4人乗りなので、私と同行している写真家。もう1社も同様に編集者と写真家。こちらの写真家は航空機愛好家であり、英語も臆せず話せるタイプなので、パイロットに右へ、左へ、上げろ、下げろと好きに指示しながら飛ばす。パイロットもこちらは玄人とみて、気前よく対応してくれたように思う。私は窓ガラス越しに、コンパクトデジカメで記録用に少し撮った。地上へ帰還して飲んだビールがうまかった。

 地上には、砂と水と男女があった。男は物を売っているか、何もしていないか。女は物を買っているか、しゃべっているか。砂は風が吹けば飛び、風がやめば落ちる。取材する私は、それらの間をすり抜けていくだけの存在だったように思う。誰も外国人取材者に関心など持っていないし、観光客ともちょっと違うから、変にものを売りつけようともしない。

 ヒジャブ(女性がまとっている布)が黒一色だと思ったら大間違いだ。市場ですれ違いざまの一瞬、視界の端に捉えて記憶に焼き付ける。直視してはいけない。距離を保ってから、あらためてポケットから写真を取り出すようにして、記憶を取り出す。つぶさに観察してみると、細かな模様が刺繍されていて、非常に凝っているのがわかる。とはいえ若い人は、その下に普通にTシャツやジーンズを着ているらしい。

 この頃、私はノーファインダーで撮る練習に凝っていた。レンズの位置と角度で、どんな絵が撮れるかは想像できるから、通常の視点ではないアングルで撮ることの面白さと、予想と結果の若干のズレを楽しんでた。スナップは、だいたいそうして撮っていたのである。

 ドバイ取材は4泊くらいだったように思う。往復はエミレーツ。まだ羽田と成田に便はなく、関空に1日1便で就航していた時期だ。帰国して日常に戻ったが、1つなかなか戻らなかったものがある。1週間か10日間ほど、入浴しての洗髪で、髪と頭皮をどれだけ洗っても、灼けた砂のにおいが抜けなかったのである。


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