コンサート感想|EX NOVO vol.17 アレッサンドロ・スカルラッティ/オラトリオ《カイン または 最初の殺人》(ヴェネツィア, 1707)

2023.6.9

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公式サイトより)

弟に嫉妬した兄は、なぜ凶行に及んだ?

 古楽アンサンブルEx Novo公演vol.17、アレッサンドロ・スカルラッティ作曲のオラトリオ《カインまたは最初の殺人》を観た。オラトリオは宗教的題材を用いるから日本の聴衆には馴染みが薄いと思われがちだが、本作はむしろそうした先入観を持つ音楽ファンにこそ向いている。誰もが観て楽しめる作品だと筆者は感じた。嫉妬による兄弟の不和、家族の崩壊と分裂、親子の離散。本作は、あらゆる家庭内愛憎劇の原点と言ってもよい。《カイン》は、そのようなドラマ構成と劇的効果の高い音楽で構成される。公演では2時間半の上演の長さを微塵も感じさせない完成度の高い歌唱と演奏に拍手は鳴り止まず、カーテンコールが繰り返されるほどであった。

 オラトリオでは衣装や小道具は使われず、原則として演技もない。演劇的要素が意図的に排除されることで、音楽そのものと内容の叙事性(物語性)の表現に向かって、極めて高い集中度を持つ。オラトリオの持つ洗練と抽象化が、鑑賞における魅力だと筆者は考えている。とはいえオラトリオの題材は聖書の内容である。一般常識か教養の範囲でよく知られている内容であるから、観客の理解や感想が極端に異となるような事態にはならない。抽象化されているのは表現と演出についての話である。だからこそ逆説的に、その表現と演出をどう感じ取るかしだいで、その聖書物語の〝解釈の自由〟が観客には与えられると筆者は考える。

 本公演のパンフレットには、オラトリオ研究者の三ヶ尻 正氏が寄稿している。三ヶ尻氏の解説によると、ヘンデル以前に主流であった「イタリア式オラトリオ」は、芝居仕立ての劇音楽であった(同公演パンフレットp.3)。なるほど、合点がいく。配役(登場人物)と物語があるのだから、まったく演技的要素がないのは、かえって不自然だ。歌唱や演奏に感情が乗れば、出演者の舞台上での振る舞いは変わり、多少なりとも演技的な熱を帯びるのは自然といえる。ましてや本作は人の心の奥底の明暗が描かれる、人類最初の殺人事件の物語なのだから。

 アベルとカインの物語は創世記の第4章にあり、26節ほどの短いものだ。〝事件〟のあらましは前半16節で完結し、後半の17から26節はその後の系統の解説である。聖書における人類最初の殺人事件を扱う1707年作曲のこのオラトリオが2023年の日本で演奏され、筆者はその現場に立ち会えた幸運と巡りあわせに感謝する。筆者は出演者の集中力の高さに引き込まれ、凝縮された濃密な時間を体感した。

 三ヶ尻氏の解説によると、オラトリオには「作曲にはオペラの作曲家がこぞって参加する。台本もオペラ作家が書いた」とある(同p.5)。人間心理や演劇効果を知り抜いた芸術家たちが腕を振るった作品として、オラトリオはもっと上演機会を得てもよいものと思う。弟に嫉妬した兄が復讐と称して凶行に及ぶまでの経緯として、本作では人の心の闇や愛憎、葛藤が極めて丁寧かつ緻密に描写されている。もちろんオラトリオは新聞の三面記事(社会面)ではなく、基盤にあるのは信仰だ。だが聖書が時代を超越した書物であるのと同様に、劇音楽として翻案された本作には人間ドラマの普遍性が描かれている。殺人事件は、なぜ、どのように起きたのか――と。

カインはどこへ行った?

 本公演を見て、カインへの先入観のがらりと変わるパラダイムシフトが筆者の中で起きた。

 カインは人殺しの罪人である。その罪によって追放刑を受けた。暴力的で自己中心的、自分の供物は神に認められなかった恨みを弟へ向けた。誰しもがこの事件は傲慢な兄の衝動的な殺人であり、短絡的で許し難いものであると感じてきたであろう。だが本公演でのカインはそのような紋切り型の人物像ではなく、より深みと哀しさに包まれた人物として歌われている。

 それは音楽や歌詞だけではなく、本公演でカイン役を歌った村松稔之氏のすばらしい歌唱と演技があってこそだった。村松氏のカインは繊細な青年、あまりにも繊細な人物として演じられた。たしかにカインは神に背き、弟を騙して誘い出し、殺人を犯した男である。人としての道を踏み外している。だが村松氏の演技は、その凶行へ至るまでの「越えてはいけない一線」をカインがどのように越えてしまったのか、その部分に焦点が当てられていると筆者は感じた。実に神経質で繊細、気難しい男としてのカインを、丁寧に演じていたと感じられたのである。兄としての矜持、長男として心の底に植え付けられてきた自尊心がどのように崩れ去ったかが歌われていたように思う。つまり村松氏のカインは「根っからの悪人なのでは決してなく、悪に堕ちてしまう弱い人間、あやまち(過ち・誤ち)を犯す迷った男、人生に失敗した若者」なのである。

 カインは森の中、小川のほとりへとアベルを誘い出す。アベルは不穏な雰囲気を感じながらも、兄の案内によるこの奇妙なピクニックを楽しもうとする。「葉むらと小川のはざまで憩いたい」(36.アリオーソ、鈴木昭裕氏による訳歌詞はパンフレットより引用。以下同)というのだから暢気というほかない。カインの殺意はここで剥き出しとなり、「眠れ、それがおまえの願いなら、永遠の眠りにつくがいい」「そら、もう一突き!」(37.レチタティーヴォ)と弟を騙し討ちのようにして刺殺する。悪業を神に問い質されたとき、カインはどうであったろう。村松氏の演じるカインは、自分の罪深さに震え、汚れた手におののく、神経質な痩せた男であると筆者は感じた。神の声に歯向かって「わたしが弟の番人だとでも?」(39.レチタティーヴォ)と言い返したのも、開き直りではなく、自己保身のための精一杯の強がりであったように感じられた。血の穢れによって狂気に陥ったマクベス夫人のように、大地に染みたアベルの血によって、カインの精神は絶望と罪悪感によって侵食されていく。彼の暗い怒りの炎は、彼自身をも内側から焼き殺した。

 両親への別れを口走り、カインは去る。聖書では、その後カインはエデンの東、ノドの地に住んだと書かれている。これは地名とも解釈できるが、具体的な地名というよりは放浪者たちのさまよう漠々とした荒地、地図の途切れる世界の果てを指しているのではないかと筆者は想像している。そうした原野では人間など取るに足りない小さな存在だ。暴力と脅威が支配する無秩序の土地であろう。カインは漂泊の生活に身を落とす。だが「カインを殺すものは七倍の復讐を受ける」(創世記4:15)という「しるし」(同)に守られながら生き続ける。生そのものが責め苦となる罰を受ける。この追放刑が、カインの受けた判決であった。

「恐怖がわたしを大胆にし、その大胆さと卑劣さゆえにわたしは罰せられて当然なのです」(42.アリア)、「生きつつ死ぬか、死につつ生きるか、無慈悲な運命に違いはない。絶望の淵にいる者は、自分が生きているとはわからないからだ」(45.レチタティーヴォ)。

誘惑者で詐欺師の悪魔は、コンサルタントのように振る舞う

 オラトリオ《カイン》では、カインを唆して事件の引き金を用意し、事後に神の罰を受けたカインに再び擦り寄ってくる存在として「悪魔の声(Voce di Lucifero)」が重要な役割を果たす。

 最初の登場場面では、堂々たる行進曲のような楽曲(25.シンフォニア)が流れ、あたかも権力者のようにして現れる。役名は「悪魔の声」である。作劇の上では「声」の役がカインと目を合わせることはない。ただただ耳、いわば〝カインの心の耳〟に語りかける。

 悪魔の声は、現代でいえば心理カウンセラーか人生コンサルタント、あるいはビジネスパーソン向け自己啓発講座の講師のように振る舞う。その正体は堕天使ルシファー(伊:ルチーフェロ)であり、実態は詐欺師だ。悪魔の声はカインを褒めつつ、長男であるカインの権利を強調し、カインを犯行へと突き動かす。「侮辱を受けたなら、侮辱し返せ。アベルを殺すのだ」(26.レチタティーヴォ)とカインの中に出現した憎悪に着火する。しかも、死んだアベルはおろか、神さえもカインには手出しできないとさえ言ってのける。死人に口無しだと、その声はいう。それが「たとえばやつが死んだとしても、星がおまえに何ができる?」(同)というキザったらしい決め台詞だ。そのうえで、生存者による勝者総取りの原則を説いてくる。「太陽のように唯一の存在となった、おまえだけのもの。おまえが愛情を独り占めできるのだ」(27.アリア)と。

 悪魔の声に唆されたカインを止める手段は、もうない。カインにとっての「引き返し不可能地点(Point of no return)」は、アベルを誘い出す道中よりも、もっと手前のこの瞬間にあったのだ。

 さらに犯行後には、最初の殺人さえも一番手の名誉であるかのように悪魔の声は讃えてくる。人類で最初に地獄へ落ちる者として、カインにその地獄落ちさえも名誉であるかのように接してくるのだ。しかも、その名誉は神に挑戦したことへの賞賛へとつながる(48.アリア)。「神がおまえの命に掟を定めるのなら、おまえは己の死の主となるがいい」(同)。しかしカインは、この声の主がルシファーの誘惑であることを知っている。だがすでに罪を犯してしまった後だ。覆水盆に返らず。

 自死の選択を一種の「権利」とするならば、それは逆説的に自らの生き死にを自ら選択できるという究極の自己決定権だ。悪魔ルシファーは、かつて神に叛逆を企て、敗北し、地獄で囚われている。その究極の悪の権化は、カインの両親を騙し、次にはカインを騙した。

「絢爛たる奴隷生活の平穏無事な軛(くびき)よりも、苦難にみちた自由をこそ選ぼうではないか!」(ミルトン『失楽園』)でルシファーが語る自由は、まさに自己決定権である。守られた箱庭から飛び出したカインは、放浪者という名の、誰にも守ってもらえず、自らの身は自分で守るしかない身分を選択する。だがカインは、何人(なんぴと)からも危害を受けない「しるし」を神から授かり、「生き続けることがおまえの苦しみ」(44.アリア)という執行猶予なしの罰を受ける。カインは罪人だが、それでも償いのために死ぬことは許されず、死からは徹底的に守られる。「死など、罰としては短かすぎる。悔恨こそがおまえの地獄」(44.アリア)と神の声は、裁判官の判決のように宣言する。

 悪魔の誘いとしての自死さえも拒否し、苦痛に満ちた残りの人生を生きることを選んだカインは、消えることのない罪を引き受ける。だが、自らを陥れた詐欺師の誘惑を振り切り、内的な悩みさえも結果的に解消させてしまっていたかのように筆者は感じる。

 ではカインは無神者となったのであろうか? 筆者はそうは思わない。罰である苦痛に満ちた流浪の人生が、信仰を棄てるものではなく、信仰を取り戻すための旅であるならば、カインの殺人者としての烙印は消えないとしても、カインの命の燃え尽きるときに神は、もはや神にすがるしかないカインを救うであろう。

 神は何をしたかったのか? アベルは救われず、カインは追放された。しかしアベルは天国へ招かれ、カインは償いのための放逐になったと考えることも可能だ。ここでもし「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』)のような視点に立ち、神にすべてを救済しようという意志があるのであれば、殺人者カインは残りの人生のすべてを費やして赦されたのであろう。このような見方を持ってもよさそうに感じる。神の声を歌った新田壮人氏の歌唱は、裁く存在としての神であると同時に、赦す存在としての神の抱擁も感じる素晴らしい歌唱であった。

アベルこそが神への供物だったのか?

 殺人事件の被害者であるアベルについてはどうであろうか、本公演でアベルを歌った佐藤裕希恵氏の歌唱は特にすばらしかった。カインは繊細で気難しく、顔を伏せている。その一方で、自由奔放で天真爛漫なアベルは光に包まれ、軽やかに舞い上がる。神への供物と同じく、〝殺されて〟天へ昇ったアベルを歌唱した佐藤裕希恵の屈託ない笑顔での歌唱は、無罪者たるアベルの純真さを表現していたように思う。オラトリオでは原則として演技はないが、佐藤氏の歌唱時の表情は演技を超越して、役柄を自然に表現していたように思う。

 アベルは陽気であり、幼さと純真さそのものを歌う。悔恨する両親を慰めはするものの、アベル自身が無邪気すぎて、慰撫も浅い。ポジティブ思考を地でいくアベルは単純で思慮も浅いが、逆にいえば他に何もないのである。その何もなさこそが、純真さと表裏一体なのだ。

 「子羊は、焚きしめた香とミルラのなかで、まったき炎をあげて燃えるでしょう、神に捧げた私の心とともに」(9.アリア)という歌詞は、自身が天へ昇ることへの伏線であろう。ミルラは香として焚かれるほか、精油には抗菌や鎮静化の作用がある。ミルラを防腐剤として使用したことから、ミイラの語源ともされる。つまり、この歌詞には抗菌・殺菌を暗示として、浄化や清浄性をアベルに象徴させていることが窺える。

 カインはアベルのその発言(前述の歌=9.アリア)を聴き、「驕慢か、さもなければ狂気の証し。弟はわたしの後に生まれた者、天の恐ろしい復讐を鎮めるのはわが務めです」と言い放つ(10.レチタティーヴォ)。エデンから追放となった両親の咎に向かい合うのは、長男としての責務であるとカインは確信している。だがカインは、アベルとちがってネガティブ思考だ。カインの錯誤は、務めを果たすのは兄の自分だという過信、だから供物で自分が選ばれるはずだという論理的飛躍にあった。カインが、アベルほどでなくてももう少し楽天的であったならば、この悲劇は避けられたかもしれない。

 カインの本心(アベルは驕慢だとするカインの独白)を神は見抜いている。この点が、この物語の重要な点である。一方、父アダムには先を見通すことができない。「息子らよ、争いは止めよ」(12.レチタティーヴォ)と兄弟を諭すが、結果的に兄弟の供物を並べさせることが両者の競争を引き起こすことに気づいていない。アダムは、長男の強情さが傲慢につながり、事件を引き起こすとまでは考えていない。状況を甘く見ていたと言われても仕方がないであろう。

 アダムは「創造主が望むのは、贈る者の献身の心。苦しみ悶える魂こそが、神の怒りを鎮めるための、最も効果ある生贄なのだ」(13.アリア)と歌う。この歌は供物の直前の場面で歌われる。文脈的には文字通り、供物の内容ではなく心が重要であると兄弟の競争の無意味さを説いているように感じられる。父としての面目躍如である。だがこの物語の全容を知る観客は、次のような読み替えも行える。

・生贄=アベル(太陽のように普遍的)
・贈る者の献身の心=カインの心(傲慢→怒り→殺意→復讐成功の心地よさ→悔恨→放逐を甘受へ至る、月のように変化し続ける心)
・苦しみ悶える魂=追放されたカインの流浪の人生(星のように遠く、儚くまたたくことしかできない)

 つまり追放後のカインが受ける責苦による苦悶こそが、結局は神の怒りを鎮める〝最も効果ある〟ものだったのではなかろうかと筆者は想像する。ではこの殺人事件は、そうなるべくして仕組まれた事件だったのだろうか? アベルは兄に殺されるために生まれ育ち、カインは弟を殺すために生まれ育ったのならば、なんと残酷な悲劇的宿命であろうか。

 ところでアベルは人として最初に天国(Paradiso)に入った者となる。最初の人(アダムとイヴ)や、最初の子(カイン)よりも先に死に、先に天国に入ったこの順番は興味深い。カインのその後は定かではないが、地獄へ行ったと考えるのは短絡的であろう。事件後のカインは悪魔の誘いを振り切り、「神を失い、平和を失い、よるべくなくさすらう身となるわたしだが、弟をあやめたこの手で、自ら命を絶つつもりはない」と言い切る(49.レチタティーヴォ)。神の声は「悔恨こそがおまえの地獄」(44.アリア)ともいう。地上の現世に留まるという罰を受け続けたの後、魂の消滅するその瞬間まで、地上の現世に留まり続けたのであろう。だから創世記にも本オラトリオの台本にも、カインの死後のことは明記されていない。殺人犯が償いを経て天国へ入ったと書かれては、実際の社会の治安(統治)に悪影響が出るからであろうと想像するのは、安易だろうか。

うかつなる夫婦のさらなる過失としての事件

 《カイン》の開幕は導入部として器楽による序曲が奏される。演奏への指示は「Spiritoso」。一般的には「気力十分で生気に満ちた明るい演奏のための指示」である。だが本曲の導入は、単純にそうとは言いがたい。これから起こる惨劇への予感に満ち満ちており、宗教用語としての「霊性」との連関も感じられる。観客はこの悲劇的場面に立ち会う霊(スピリット)、あるいは精神だけの存在であるとの暗示に思える。

 ヴァイオリン独奏から演奏は始まり、全体合奏(トゥッティ)へつながる。ヴィヴァルディの合奏協奏曲などで見られるような魅力的なコントラストに筆者は衝撃を受けた。ヴィヴァルディの様式を、よりプリミティブにしたような印象だった。

 第1部の序盤では、アダムとイヴの会話と歌によって楽園追放(失楽園)の出来事が回想される。アダムは息子たちを憐れに思いつつ、自らの失態を悔やみ続けている。

 カイン兄弟の物語は、アダム夫婦の物語の続編である。「なんとむごい父親、なんとうかつな夫だったのだろう」(4.レチタティーヴォ)とアダムは歌う。エデンの園での事件は、幸福が日常化した中で生じた隙を突かれた詐欺事件であったといえる。アダムは「あのときのわたしは、神の怒りを前にして、おまえを守るすべを知らなかった」(5.アリア)と歌い、イヴは「蛇の詐術によって、思いあがった女の心がどれほど甘言に弱いものかがわかりました。(中略)すべての咎めはわたしにあります」(6.レチタティーヴォ)と回顧する。

 共通の失敗、共有された罪、二人の過ち。本オラトリオの第1部の冒頭でのこのやりとりは、涙を誘うものである。回復不可能な失態で楽園を追い出された夫婦は、自活を余儀なくされる。冷静に現代社会の感性で見れば、アダム夫婦のこのやりとりは傷の舐め合い、あるいは相互に自傷的という覚めた見方もできる。よよよと泣き崩れる悲劇性に同情できるが、もはや自立するほかにない者が、失ったものをいつまでも求めていても仕方がない。その点で次男アベルは、両親や兄と比べて極端に楽天的である。

 アベルもカインも生まれた時は無垢であり、罪も罰もなかった。「この当然の罰を堪え忍びましょう(中略)苦しみは、わたし一人が引き受けます。わたしにはもう、平和な暮らしはないのです」(7.アリア)とイヴは歌う。ここには息子たちを思う、母親の本心がある。だが「わが息子らの中にあるわたしの罪を憐れんでください」(15.アリア)ともある。エデン追放を受けたイヴにとって、この苦境での生活にある息子たちは、罪まで遺伝的に継承させてしまったもののように感じている。現代の経済的負債のように、罪禍も相続されてしまう発想である。また、イヴは「天の王によって農夫とされたあなたたちは、あぜを汗で濡らしてください」(同)とも歌う。これは、あぜ(=大地)をこの後に血と涙で濡らすことへの伏線とも読める。母の願いは叶わない。

 興味深いことに、イヴの15.アリアでは、息子たちの中にあるイヴの罪と、いつの日かの解放(歌詞原文「Per la nostra libertà」(15.アリア))が歌われる。この「自由」とは何だろう。単純に読めば罪が許されてエデンに還ることが思いつく。だが、そうでないならば? エデンに執着することなく、今生きているこの場所、この時を生きていくことだとする解釈は、現代的すぎるだろうか。イヴ自身がエデンを必要としなくなる時、言い換えるなら帰還を諦め切って、エデンを忘れたとき、純粋に信仰だけが残るのだろうか。

 創世記にも本オラトリオのどちらにも記述のない筆者の想像だが、カインが生まれるときは著しい難産だったのではないか。イヴの苦痛やアダムの心配がそのまま肉体になったかのような、よわよわしい新生児のカイン。幼少期は病弱だった赤子から少年にかけてのカインを想像してみる。発熱しては献身的な介護をカイン少年は受け、両親も心配しながらカインの成長を見守ったのではなかろうか。その反面、健康優良児としてアベルが生まれたとすれば、兄弟は必ずしも平等ではない。しかし子供は幼少期に受けた介護のことなど記憶にはない。カインにとって、アベルの方が両親に可愛がられていると感じる節が多々あったのであろう。そしてそこに、詐欺師にして誘惑者ルシファーの声が入り込む〝心の裏戸口〟が生じた。

 アダムは過去に固執する一方で、イヴは目の前の息子たちとの精神的つながりをより重視してきたかのように思う。カインにとって、神がアベルの供物を選ぶより前に、両親がアベルを〝選んで〟いたように感じたとしたら、犯行は供物の一件より前から、ずっと燻っていたのである。アダムとイヴの失敗は結局繰り返されてしまった。本作はアダムとイヴを通じて、人の愚かさ(特に「学習と改善の不足」)が強調されているようにも思う。かくして「夫・妻」としての失敗に加え、「父・母」としての失敗が強調された事件となる。

 だがアダムもイヴも、カインを勘当しなかった。カインを「おまえは流浪の身となるがいい」(39.レチタティーヴォ)と命じたのは神の声であった。イヴは「二人を思い、わたしの顔は涙に濡れる。一人の流浪の身に涙し、殺された一人に涙する」(55.アリア)、アダムは「両の眼は二人の息子への涙にかき曇る。一人の罪なき死に涙し、子ゆえの愛に、一人の身を思いやり、涙する」(57.アリア)とそれぞれ語る。アダムは男の性(さが)として、「悲嘆にくれる父親の心とはこうしたものだ。だが、いまは勇気をとりもどし、まずは人として、また賢者として語ろう」(58.レチタティーヴォ)と一人合点で、勝手に状況をまとめていく。これは、アダムが本当に賢者であるとか、冷静であるとかといったことではなく、シンプルに、痛恨の事態に追い詰められた男性が取りがちな態度とパターンである。本オラトリオの台本作家は、実に深く人間観察をしている。

まとめ

 歌手、オーケストラ、すべての統一感と完成度の高い公演であった! 一人一人の氏名をあげてコメントしたいほどだ。三ヶ尻氏の解説による「当時の政治情勢の反映」としての寓意の読み解きも知的興奮を覚える刺激的な内容であった。だがさすがに長文となったので本日はここまで

〈おわり〉


◆ エクス・ノーヴォvol.17
2023年6月3日(土)13時30分開演(13時開場) 浦安音楽ホール コンサートホール
アレッサンドロ・スカルラッティ/オラトリオ《カイン または 最初の殺人》
Alessandro Scarlatti (1660-1725) / Cain, overo il primo omicidio
Oratorio a 6 voci con strumenti (1707, Venezia)
公式サイト

カイン:村松稔之
アベル:佐藤裕希恵
アダム:山中志月
イヴ:阿部早希子
神の声:新田壮人
悪魔の声:藪内俊弥

第1ヴァイオリン:池田梨枝子*、堀内由紀
第2ヴァイオリン:高橋亜季、遠藤結子 
ヴィオラ:松隈聡子 
チェロ:懸田貴嗣*
コントラバス:布施砂丘彦
テオルボ:佐藤亜紀子
チェンバロ:矢野薫
* = ソロ

指揮:福島康晴

前売:4,000円、当日4,500円
U-30歳(29歳以下):2,000円(要予約・ムジカキアラのみ取り扱い)
チケット予約&お問い合せ:ムジカキアラ 03-6431-8186(平日10時~18時)
info@musicachiara.com 
その他チケット取り扱い:
パマスマーケット https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/02ds9qsf4vx21.html 
イープラス http://eplus.jp

主催:一般社団法人エクス・ノーヴォ
後援:イタリア文化会館
マネジメント:ムジカキアラ
共同制作:三ヶ尻正