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試論|クラシックの音楽コンクールに権威はあるのか? 聴衆はどのくらい影響を受けるのか?

2022.6.1


©いらすとや

 たまたま目に入ったQuoraのこの質問が私にとって新鮮だったので、他の回答者の書き込みを一切見ずに、この質問に向き合って自分なりに考えてみました。

Q クラシック音楽では、なぜ音楽コンクールが権威を持っているのですか? クラシック音楽ファンは自分の耳で音楽を評価できないのですか?
https://jp.quora.com/kurashikku-ongaku-deha-naze-ongaku-konku-ru-ga-keni-wo-ji-tte-iru-no-desu-ka-kurashikku-ongaku-fan-ha-jibun-no-mimi-de-ongaku-wo-hyouka-deki-nai-no-desu-ka

 とても鋭い質問です。とても新鮮な気持ちになりました。なぜなら私はコンクールが権威を持っていると思ったこともなければ、そう感じたことさえなかったからです。よって、質問者と私の間で、すでに前提が共有されていない。私は「コンクール=権威がある?」という疑問に気づかせていただきました。とてもいい機会です。私もこの問いについて考えてみます。

 まずは質問の前半、「なぜ音楽コンクールが権威を持っているのですか?」について考えます。

 そもそも前提として、コンクールに権威はあるのでしょうか? 質問者は「なぜ持っているのか?」と問う時点で、コンクールには権威が「ある」と思っていらっしゃる。一方で私は「ない」と感じています。なぜ私が「ない」と感じるかは後述します。

 まず、コンクールでは、コンクールごとに異なる、そのコンクール独自の伝統的な審査基準に照らしてみて、その年の出場者たちの実力はどうか? という評価(審査)が行われます。そういった、コンクールごとの伝統に立脚した「独自性」は間違いなくあるでしょう。コンクールの審査員も、そのコンクールの伝統的審査基準に則って選出されますから(もちろん、業界内での〝力学〟の作用も働く)、審査員個々人の審査基準の差異や多様性も、コンクールの独自性の一部です。

 次に、クラシック音楽をユニバーサルなものだと考えるのは錯覚です。クラシック音楽がどれだけ世界に広がろうとも、所詮はヨーロッパ文化のひとつです。下品な表現を用いれば「輸出コンテンツ」です。さらにいえば、イタリア、ドイツ、フランス、イギリス、ロシアなどの大国だけでなく、それらの大国の間にある中小国それぞれの「ローカル文化」に立脚しています。パッチワークのような複雑性を持つ文化芸術の様式です。

 このようにクラシック音楽は独自かつ多様であり、その国・地域の伝統(音楽文化のあり方)をよく理解している審査員と、そのコンクールを長年にわたってウォッチしてきたその国(地域)の人々の目と耳の「審査」でコンクールは成り立っています。その審査に権威を認めるならば、コンクールは権威を持っているとも言えます。しかしこの「権威を認める」という思考は要注意です。権威を認めるという発想自体が、権威を求めていることの裏返しではないでしょうか。権威を権威たらしめるのは、差別化できるかどうかに掛かっているからです。権威を求めることは、断絶や分断を作ること。私はそうした分断を求めない。審査に独自性は求めても、それは単なる固有性(ユニークさ)であり、権威ではない。権威を求める姿勢とは、逆説的に、「そのコンクール開催地の地場(ローカル)のものに過ぎない」のだという平凡化と陳腐化の証明だと私は考えます。

 五線譜と書法が確立した近代以降のクラシック音楽は、主に楽譜によって伝達されます。このため、国や時代の異なる音楽であっても、楽譜だけを見ると同じような見た目を持っているかもしれません。しかし実際のところは、書かれていないことがたくさんあります。それは、その作曲家の生きた場所、生きた時代において「常識」とされたことは、わざわざ書かれなかったということ。言葉に訛りがあり、訛りが極度に発展して別の言語として分化していくように、音楽も訛りがあり、訛りの差が大きくなるともはや別の音楽となっていきます。

 しかし訛りに収まる範囲、つまり共通認識で対話が成立する範囲では、本来存在した「固有性(=常識の食い違い)」が記録されずに失われます。五線譜の書き方・読み方の基本的なところは共通だったので、あたかも五線譜で書かれる音楽はすべて同じ表現がされるかのように現代では錯覚されています。

 クラシック音楽はユニバーサルな芸術ではなく、地球全体で見ればヨーロッパ地域のローカル文化に過ぎず、さらにヨーロッパ全体を見れば各国・地域のローカル文化を総称するものに過ぎません。さらにその地域を見ればその音楽家がどのような雇用者や聴衆を持っていたかに過ぎず、さらにその音楽家がどのような生活様式や思想、価値観、演奏技能を持っていたかに過ぎないといったように、どんどんクローズアップしていくと、最後は「音楽家個人のその時の状況」まで区別されます。

 こうした、地域・時代・個人ごとに差異があることを認め、その差異が概ね平等だと考えるならば、この質問の前提となっている「権威」など、そもそも存在しないことになります。差異が大きく、強い方が権威者で、弱くて小さい方が権威にひれ伏している者と思うのは、それこそ権威主義者の妄想です。権威などない。あるのは、単にそのコンクールの審査員と聴衆、その個々人の評価の集合体に過ぎないのです。集合体に権威を感じるのは、大きくて強い存在に畏怖を感じるようなものです。群体もバラせば、恐れることはありません。一対一で対話する姿勢を持てば、対等になります。権威など初めから存在しなかった。権威だと思ったのは、自分の心の中にあった影に過ぎなかったと気づくでしょう。

 質問者が権威を感じているとしたら、クラシック音楽のそもそもの成り立ちを知っていれば済むことです。王侯貴族の目と耳を楽しませるもの、宗教の場を演出するもの、それらが出発点です。そこに庶民の日常の娯楽としての音楽が合流してきてクラシック音楽は成り立ってきたと言えます。宮廷や教会といった空間には権威と権力が付き物です。それがクラシック音楽の揺りかごであったことは事実ですから、その歴史的事実を引きずって、クラシック音楽に権威を感じるのは無理もありません。

 しかし、その後の時代において、そういった揺りかごからの脱出を試み、より多くの大衆、中流の市民たちを取り込んで行く音楽家が登場してきます。彼ら彼女らは、今で言えばポップスターです。とはいえその当時、19世紀のヨーロッパには王侯貴族がまだ大勢いた時代でした。劇場を建てるにも莫大な資金が必要であり、資金は権力と結びつきがちです。よって権威・権力と、大規模な劇場が結びついていたことも事実です。しかし今は21世紀であり、権威主義的な文化は過去のものです。現在のクラシック音楽シーンに権威があると感じるならば、それはそのような「イメージ」を質問者が勝手に抱いているに過ぎません。三度言いますが権威は錯覚です。

 まとめると、コンクールは審査員と聴衆によるローカル裁定に過ぎません。権威など、初めから存在しないのです。

 一方で、コンクールを一種の競技大会と位置付けるならば、シンプルに技術(表現力と規定された技術の実力の総合評価)の優劣を競う場でもあります。下手くそな演奏者がコンクール本選に残ることはないので、コンクール優勝者というこは「上手であることの証明」でもあります。よって聴衆には、「その優勝者のコンサートならば、大金を払ってでも行く価値があるだろう」と期待させる効果はあります。

 コンクールの結果を利用するのは、音楽をショービジネスとしている商業側の手法です。その際にマーケティング的・宣伝的に強調するなら、権威がある方が観客動員につなげやすい。存在しない権威があたかもあるかのように演出し、コンクールを利用しているのは、コンクールそのものではなく、コンクール後の展開を考えているショービジネス関係者です。質問者のように「コンクール=権威」といったイメージに引きずられてしまうのは致し方ないといえますが、それは利用されています。このような意味で、コンクールに権威はないが、権力・威力はある、とはいえます。

 さて、質問の後半、「クラシック音楽ファンは自分の耳で音楽を評価できないのですか?」について考えます。

 クラシック音楽であろうとポップスであろうと、リスナーは自分の「好み」に基づいて評価するでしょう。質問者がそうした自分の好みによって聴く音楽を評価しているならば、それはどのジャンルの音楽のリスナーにおいても同じです。

 そしてそれは音楽だけでなく、絵画や料理やスポーツ、果ては学校の成績やビジネスの営業成績も同じことです。

 質問者は口コミサイトを参照してレストランを選んだ経験があるでしょう。映画のアカデミー賞や音楽のグラミー賞を見たこともあるはずです。

 報道で展覧会の案内を見てパッと見は意味不明な現代絵画に興味を持って出かけることもあるでしょう。スポーツのような点の取り合いが明確なものや、学校の成績のようにテストで結果が数値化できるものも、結局はそのスポーツのルールやテスト作成者と、競技者・受験者という二者の間の関係に過ぎないのです。

 レストランの口コミサイトやガイド本を見て、「この店は美味しいらしい」と知った上でそのレストランに行っただけなのに、「自分の舌で味を評価できないのですか?」と言われる筋合いはない、と感じるでしょう。

 抽象画は自由に解釈していいからそうしているのに、「解説されなければ絵の鑑賞もできないのですか?」と言われたらどうでしょうか。

 では口コミサイトや報道(総称してメディア)はなんのためにあるのか、マーケティングおよび宣伝です。情報を知りたがっているユーザーと、情報を届けたがっている企業や団体側の間を取り持ち、情報を流注させるのがそうした情報媒体(メディア)の役割です。

 コンクールの権威は錯覚ですが、そう錯覚させることで、そのコンクールのテーマや主役となる(名前を冠されている)音楽家を持ち上げていく。そうして集客し、メディアでの露出を増やす。権威があるように見えれば、メディアは話題を作りやすくなるから取り上げる。そのようなサイクルが成り立っているに過ぎないのです。

 権威などない(錯覚に過ぎない)のです。あるのは音楽と音楽家、そして聴衆の一人である私(あるいは、あなた)自身の二者の関係性だけです。これは音楽、いえ音楽に限らず多くのものについて言えるでしょう。

 質問者が、もしクラシック音楽ファンは自分の耳で音楽を評価できないと思っているのならばそれは誤解です。

 質問の「クラシック音楽ファンは自分の耳で音楽を評価できないのですか?」への私の答えは、「たいていのクラシック音楽ファンは〝評価〟なんて考えておらず、自分が気分良くなれる音楽を自分で選んで聞いているだけでしょう」。

 ただ、ね。それでも聴衆は、コンクール優勝者という〝箔〟がついている人の演奏会に行くと、とても立派な音楽を聴いているような心地になれることも、また事実でしょう。コンクールには間違いなくそうした点での影響力はあります。

〈おわり〉


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