2025.1.4
©写真:ぱくたそ イラスト:いらすとや
面白い記事を読んだ。電車の車内での他人の飲酒によって生じる臭いが不快だから飲酒を許すべきか否か、という趣旨の話だ。この記事を書いたライター氏はなかなか冷静である。中立的な折衷案として「分離・分断」を提案し、両成敗といったまとめ方をしている。以下に記事の主旨を抜粋して引用する[*1]。
『「匂いが独特」「アル中かよ」 在来線グリーン車の飲酒問題に賛否両論! 車内飲酒「反対」7割、マナーと自由のバランスはどう保つべきか?』(Merkmal 2025.1.4掲載)(Yahoo! ニュース転載ページ)
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[*1] ネット上では、
「在来線のグリーン車でアルコールを禁止してほしい」
という声が定期的に上がっている。
(中略)
新幹線ならまだしも、
「在来線のグリーン車で飲むのはマナー違反ではないか」
と考えたこともある。
(中略)
車内でアルコールを飲む人と飲まない人、両者の立場を尊重し、快適な環境を整えることが必要である。どちらか一方に我慢を強いる状況は避け、マナーと自由のバランスを保つことが重要だ。
この問題の解決策としては、
「車両を分ける」
方法が有効だろう。例えば、1両をアルコールや食事が可能な車両として、もう1両をノンアルコール専用にすることで、双方のニーズに対応できる。
この提案をぜひ実現してほしい。JRの皆さん、いかがだろうか。
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記事中でエビデンスかのように紹介されているのが、Webメディアが実施したアンケート調査だ。 電車内での〝他人の〟飲酒に不快感を感じるので「やめてほしい」というのとが、アンケート調査によると68.4%ほどいるらしい。[*2]
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[*2] fumumu編集部が全国の10代~60代の男女1,000名を対象に「電車内での飲酒」に関する意識調査を行なったところ、全体で68.4%が「やめてほしい」と回答。なお、「とくに何も思わない」と答えた人が28.8%、「自分も飲むことがある」と答えた人は2.8%でした。(とくに金曜日は「本当に最悪」 電車内での“あの行為”に約7割が迷惑していた…(fumumu, 2023.6.23掲載))
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公共空間での他人の行為に「迷惑」や「不快感」を感じて、やめさせたい、やめさせられないなら規制して禁止にしたい、そういう感情は誰にでもある。そこに利害という関係性は弱くても、その場にいる上での快適さが損なわれるので、他人の行為を制限させたいということは私にもある。
あるいは、誰かが何らかの理由で行為や行動を制限されそうになっているときに、自分はその行為に無関係だからと何もせずにいる「無関心」や「無関係ゆえの不介入」などのことも往々にしてある。
「自分の快」が「他人の快」と衝突するとき、「義」で武装した攻撃が始まる。この場合、この義の刀身には「公共マナー」という銘が浮き彫りになって光っている。仮にこのとき「酒臭さ」がない、あるいは感じられないほど微弱なものであるならば、誰も他人の飲酒を咎めたりしない。自分とは関係ないからだ。ある行為が迷惑行為とされるには、その行為によって迷惑を被るという〝被害者〟がいなくてはならない。
被害者はえてして、自分と無関係だと思っていたこと(この場合では「臭い」)に巻き込まれて、不快感を感じ、その不快感を迷惑へと一段昇格させる。そのとき、それまでは伏せられていた「無関心」というカードがめくられて、「不寛容」の牙をむく。迷惑を被ったのだから、〝我慢させられる〟のではなく、その行為を〝やめさせたい〟という心理が働く。
公共空間での立ち居振る舞いは、公共マナーという名で暗黙の了解のように共有化されている。マナーとは他人と関わる状況でのしかるべき行儀・作法である。「酒臭さを漂わせる」という不快感は、行儀が悪く、作法に則っていない、というわけだ。
するとここで表れるのは、不快感を与える・与えない、あるいは不快感を受ける・受けないといった許容度は個々人によって異なるので、何を基準に線引きをするのかという問題である。
飲んで暴れる無作法は、迷惑行為の範疇から逸脱して犯罪となる。逮捕待ったなし。騒ぐ、大声を出すといったこともそれに準じるが、ここから徐々に難しくなる。「大声を出す」行為は、具体的に何デシベル以上の音声を出したら違法、といった線引きがないからだ。音につぐのが臭いから迷惑だ、といったことは音の迷惑の次くらいだろうか。許容の臨界点をだんだん下げていくというのは無段階的であり、どこで線引きするかは人により判定が変わってくる。審判の胸先三寸で勝敗が決まるような試合は公平性に欠くようなものだ。
では「酒臭さ」だけが不可とされる臭いなのか。となると、あらゆる種類の臭いが規制されなければ不公平となりかねない。車内で飲んでいなくても、安酒臭をプンプンさせていたら乗車拒否なのか。ニンニク料理を食べてから電車に乗ってはいけないのか。車内で臭いの強い食べ物を開けてはいけないのか。では香水を不快に感じる人がいる車内では、香水の匂いをさせてはいけないのか。隣の席の人の体臭がキツかったらどうなってしまうのか。あるいは服が生乾きで臭ったらどうなるのか。ファストフードのポテトやコンビニのホットスナックの油の香りが、あるいはエスニック料理の食欲をそそるスパイシーな香りが、服についたタバコ臭が、柔軟剤が、焼肉が、口臭が、足の臭いが⋯⋯ときりがない。
反論として、体臭は予防できないからやむをえないが、飲酒は車内で開栓するものだから「やらずにすむ」だろうという、タイミングと意思決定を論拠とする考えもあろう。では乗車前についた臭いはどうなるか。「このあと電車に乗るから焼肉は控える」とか「電車移動だから香水はつけずにおこう」といったことは線引きされるのか。つまり、特定の条件によって可否を分岐させることは、精緻にすればするほど白黒つきにくくなっていく。
元記事を執筆したライター氏は「新幹線ならまだしも」とあり、新幹線の飲酒は可としつつ、在来線グリーン車を不可とする線引きをしている。その根拠は明示されないが、おそらく「なんとなく新幹線は旅情があるからOKで、日常の電車移動に近い在来線普通車のグリーン車はNGだろう」といった基準だと推測される。
嗅覚を刺激するのが不可ならば、当然、聴覚を刺激する音声も不可の対象となろう。すると次は視覚だ。見るだけで不快感を覚えてしまうよう他人が乗車していたらどうなるのか。究極的には「同乗者」などという他人が存在するだけで、もう許されざることになってしまいかねない。あるいは逆に、品のいい同乗者同士でのみ、乗車を許可し合えるのか。行き着くところは、防音と防臭がなされた完全個室化の車内でなければ、もはや安心して電車に乗れないという人々の大量発生だ。電車にそのようなサービスは現状では期待できない。ならばマイカーで移動するのが最適解となる。公共交通機関の死である。
自他を隔てるものとはなにか。それは自己と他者という明確な二元的な線引きがなされるという事実の点のみだ。自分は永久に自分であり、他人にはなれない。他人は永久に他人であり、自分にはなれない。「わたし」は「あなた」ではなく、その逆も真。そして「わたし」も「あなた」も「他のだれか」に成り変わることはできない。よって、自分の意見や考えというのは、あくまで自分一人のものであり、他人から〝似た〟意見や考えを聞かれたからといって、完全一致の意見などありえない。それまでの人生経験が異なるのだから、意見の一致は、言葉の上での表面上の一致にすぎない。
かつては何の区分けも規制もされていなかった喫煙は、いまでは車内も駅構内も完全禁煙化された。飲酒も同じ道をたどるのかどうか。愛煙家は肩身が狭いと言われる。いまも分煙社会は進んでいる。酒に話を戻すと、たとえばアメリカの禁酒法はアメリカ国内での製造と販売を禁止したが、飲酒行為自体は禁じなかった。産業としての酒造や酒販は殴打されたが、かえって裏社会の闇市場を隆盛させた。抜け道だらけの悪法として社会を余計な混乱に陥れたことはよく知られているし、酒のないクリーンな社会と健全な家庭という理想は高邁であったが、その実践レベルにおいて杜撰であった。
とはいえ禁酒法には思想と教義があった。現代日本はどうか。そこに思想と教義はあるか。自分の不快を解消するために他者の快を粉砕せずにはいられない社会を不寛容社会とでも呼ぼうか。自分の不快は、他人の快より上位(優位)にあるという前提に基づくようだ。この不寛容は、個々人の快不快の許容度の話でしかなく、ここに正義や善悪の対比といった対立はない。迷惑行為には実害を伴う。だが何をもって実害とするかは個人の受け取り方の違いでしかない。タバコの場合には「健康被害」が確たる実害として、「個人の受け取り方の違い」を否定した。嫌いな臭いを嗅ぐと気分が悪くなることが「健康被害」にあたるならば、車内飲酒も実害となる。だが「まだそれほどではない」ならば、これは自分の気に入らないものを排除してやろうという執着でしかなく、いわゆる「お気持ち表明」以外の何者でもない。喫煙習慣を袋叩きにした人々は、その成功体験を持って今度は飲酒を標的にし始めたのか。クリーンになった車内では、わずかな気に入らない臭いも強烈に増幅されて感じてしまうわけだ。いずれ未来に広がるのは精神の焼け野原か。増幅された憎悪がユルい社会をキツく絞めあげていく。そこは「誰か」にとっては快適で清浄なのだろう。不快原因は払拭され、不快原因因子は除去ているのだろうから。だが清浄さを追い求めることによって得られる結果はわかっている。シミュレーションを重ねていく段階ではうまくいくはずだったビジネスモデルは実装直後に崩壊し始め、これにまつわる制度も〝改正〟されてより厳格になり窮屈になる。その先にあるのは自縄自縛による縊死(首吊り)だ。それは〝清浄化〟のあと、案外早くにやってくる。
フランス人ジャーナリストのミシェル・テマンは『アンドレ・マルローの日本』(阪田由美子訳、2001年、阪急コミュニケーションズ)にて、アンドレ・マルローを論じる中で次のように書いた。加藤周一の言とのことだが、出典は分からなかった。
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アメリカは昔も今もキリスト教国で、これからもそうありつづけるだろう」と加藤周一は言う。「日本と異なり、アメリカは正義という観念をこれからもずっと大切にするだろう。つまり善と悪、正義と不正だ。日本は美しいものと心地よいもの、醜いものと不快なものといった観念にこだわり、普遍的な正義の観念については、本質的には永久に理解できないままだろう。というのも日本は個人主義の国ではなく、個別主義の国だから。感覚的なものは人によってすべて異なる。普遍的な概念を把握し、理解するには知性に訴えなければならない。だが、微妙な感覚をつかみとるには洗練された感性が必要だ。知性だけでは<感性の国>日本に近づくことはできない。では、感覚的なものと普遍的なものとの出会いはどこで起こるか。アメリカではない。アメリカ人は普遍的なもので頭がいっぱいだから。おそらく日本でもないだろう。日本人は感覚的な快楽を重視しすぎる。むしろヨーロッパで起こるかもしれない。ヨーロッパの人々は感受性の鋭さを持ちつつ、普遍的なものに対して懐疑的でいられるから。その象徴がマルローだ。彼はこの出会いそのものだ。(p.234)
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元の記事に戻ろう。記事では飲酒可車両と飲酒不可車両への分断を提案している。いわば喫煙車・禁煙車への区分けのような落とし所の模索だ。これは鉄道事業者のコスト計算しだいの結果だから、鉄道利用者側が自発的に何かを決められることではない。鉄道事業者に対して要望を出し続けるという運動や行政を動かすことによる間接的な活動といったところだろうか。
海外の列車にも目を向けてみよう「ユーロスター」(英仏を結ぶ国際高速列車)車内のバーでは当然のようにワインをはじめとしてアルコール飲料が提供されており、その場で飲むことができる。バーでの飲酒は、座席での飲酒とは異なる環境なので、本記事でいうところのグリーン車は普通列車であるし、食堂車もなく、座席での飲酒と同列にはできないため、海外での一例として紹介する。ちなみにBBCの報道によると、「ユーロスター」ではアルコール飲料の持ち込み制限が実施されて批判されたとのこと(「ユーロスター、酒類制限に批判噴出 「快適環境のため」と抗弁」。
仏TGVや独ICEなども車内飲酒の規制はない。飲酒そのものの規制はなくても、公共空間ゆえに醜態を晒せばどうなるかが日本以上に厳しい社会だ。アメリカはヨーロッパ以上に公共空間での飲酒に厳しい社会だが、長距離鉄道アムトラックでは、ダイニングカー(≒食堂車)などではアルコール飲料が提供されており飲酒できる。ただし私物としての持ち込みは自分の寝台車の個室でのみ飲むことがゆるされる(アムトラックの乗車規定のページ「個人持ち込みの食品、飲料、薬品について(英語)」)。アムトラックは寝台列車なので、グリーン車とは事情は異なるが。その他の公共空間とされる場所では持ち込みんだアルコール飲料を飲むことは禁止されている。同じ観点で、長距離鉄道網のある中国ではどうなっているのだろうかと気になるところだ。
話を再び本線へ戻そう。不快の解消のために、不寛容に目を瞑って分断を提唱するのが真の問題解決になるのかどうか、引き続き考え続けたい。