2018.12.07
[推敲と微修正] 12.08
(第二回 青山実験工房より)
はじめに
第二回青山実験工房の初日を鑑賞。内藤明美氏の2012年の作品、独奏打楽器のための《砂の女》。演奏は筆者が「名前を見たら無条件でチケットを買う」と決めている奏者の一人、打楽器奏者の會田瑞樹氏。しかも本公演の楽曲は安部公房の小説『砂の女』をテーマとする作品ということで、個人的には必聴の舞台であった。本公演の舞台は、打楽器独奏と舞踏のコラボレーションである。舞踏家は武内靖彦氏。
ステージで物語られる『砂の女』
まず『砂の女』について触れておきたい。本作はもともと小説作品であるが、映画化され中高年には広く知られている。とはいえ、若年層にとっては未知の白黒映画であろう。監督は勅使河原宏。音楽は武満徹である。岡田英次、岸田今日子の主演であり、白黒フィルム独特の空気感も相まって、その〝なまめかしさ〟と濃密な芝居は、今日DVDを観ても迫ってくるものがある。
時間になり會田氏が舞台に立っている。筆者はその入場に気づかなかったので、切戸口から入ったのだろうか。会場が暗転し、小さなダウンライトがひとつ、演奏者を照らす。静寂の中に時計針の音だけが刻まれるが、これが演奏に含まれているのか、それとも会場備品が鳴っているのか、筆者には判断がつかなかった。
通常のコンサートであれば、その時計の音は演奏の一部だと判断できるが、能楽堂で演奏を聴くことが初体験の筆者にとって、その時計の音がどちらに属するものなのか分からなかったことは正直に述べる。今回、筆者は時計の音も楽曲の一部である、という認識で進めることにする。
楽曲は先の時計の音に続き、金物打楽器を叩く、撫でる、擦るなどの奏法を駆使して始まる。しずしずと舞踏家の武内氏が橋掛りから入ってくると、照明演出が徐々に変わり、武内氏のその独特のマントのようなコートと制帽が闇の中の影のように立ち上がる。
『砂の女』の筋書きは次のようなものである。
「主人公が浜辺の村に迷い込む」
「穴の底の家で暮らす女と出会う」
「主人公が穴底の家に捕らわれ、脱出を試みて失敗を繰り返す」
「女と生活を営むことになるうちに、蒸留装置の研究を始め、それに生きがいのようなものを見出していく」
「ある日、ふいに脱出の機会が訪れるが、その研究のことを村人へ説明したい衝動にかられて脱出を先延ばしにする」
舞踏で物語られる『砂の女』
私が受けた本公演の印象では、舞踏は三部構成のようだった。
「主人公が村へ迷い込む」
「女との暮らしが始める」
「砂を掻き続ける日常と、脱出の先延ばし」
舞踏は極めてスローであった。筆者は武内氏の舞踏に初めて触れたので、それが武内氏の得意とする表現なのかの判断はつかないが、素人目には能舞台を現代化したような舞踏であるような印象を受けた。濃密かつミニマルな舞踏であり、高い集中度をもって舞踏を楽しんだ。
冒頭、武内氏が「橋掛り」から入場してくる際、武内氏は後ろ向きに入場してきた。歩くのでも、滑るのでもなく、空間全体が武内氏を中心としてスライドしているような印象を筆者は受けた。それとも実際に、強い磁力をもって、舞台の「後座」に配置された會田氏と會田氏の楽器群が、舞台全体ごと武内氏の方へと吸い寄せられているかもしれない。筆者にはそのようにも思えた。武内氏は重力を発する舞踏家なのだろう。その後ろ向きの進行は、あたかも主人公が都会から遠ざかり、もう元には戻れないことを暗示する表現だったようにも思われた。
『砂の女』組曲としての解釈
とはいえ、やはり主役は音楽である。楽曲は複雑である。かつ、會田氏は多数の楽器を同時に演奏可能な超実力派である。とはいえ腕は2本で指は10本。演奏者が會田氏ひとりである以上、個々の楽器の音を判別できなくなるようなカオス的な盛り上がり方は起こらない。
曲の切れ目で音楽の流れがやや途切れる印象が強く、筆者は本作について「『砂の女』の物語の場面場面を象徴するような、短めの曲が連続する構成」なのだと感じた。だが途中から「本作は、切れ目なく演奏される組曲」なのだろうと考え直した。事実、そのほうが本作が『砂の女』を音楽へと翻案した作品だと考えるうえでは理解がしやすい。これは筆者の推測だが、演奏者の楽譜に場面の説明が書かれているとも考えられる。
楽曲には、ときおり砂の情景、海風の情景が挟まる。それは作曲家が具象的に指示をした可能性もありえるが、筆者はあくまで「映像的なイメージを音楽へと翻案する過程で抽象化している」と考えた。もし作曲者が「砂」に固執するならば、実際に砂を音源として利用する楽器を使用しただろうから。本楽曲では「砂」 を使う楽器は無かったと思われる。
『砂の女』に登場する村の住民は粗野で卑屈、しかし狡猾で弱者が砂の罠に掛かるのをじっと待っている、ベットリとした粘着性の根性をしており群れで行動する。皮物ドラムのドロドロ感が村人のガヤを表現しているようにも感じられてよい。一方でビブラフォンとクロテイルの同時演奏による情緒的なメロディは、血豆に似た色をした太陽が日本海へ沈んでいく、その残光のような侘び寂びを感じた。演奏時間はおおむね20分。
ミニマリズムの中のマキシマリズム
能舞台というミニマリズムの極北のような舞台環境に、ある意味ではマキシマリズムを具現化したような會田氏の楽器群。あたかも會田要塞の司令官として君臨している演者は、1畳の厨房でせわしなく動き回るシェフあるいは、航空機のコックピットで膨大な計器を扱うパイロットのようでもあった。
能舞台の非時間的空間に現出した異質・異形の構造物である打楽器群の間を動き回る會田氏の残像自体が音楽になって聴覚的に認識される。そんな印象を受けた作品であり、演奏であった。
能『井筒』
公演の後半は能『井筒』が上演された。筆者はこれまで、外国の大使館の文化交流イベントや、役所などが開催した町おこしイベントなどで薪能を2度ほど観たことがあったが、実は屋内での能舞台の鑑賞は初めての経験だった。客席は明るいままであった。能の上演では客席明かりを点灯したまま上演するのが一般的なのだろうか。舞台から客席が丸見えだ。舞台を見つめる観客の方こそ、むしろ演者から〝視られている〟ことを強く感じた。だらしのない姿勢で観ることなどとてもできない。〝観る・視る・看る〟という動作を通じて、物語の中の立会人、一回限りの上演の現場証人というような空気感を肌で感じながら楽しむことができた。
銕仙会能楽研修所のWebサイトの記事によると、「現代において〈井筒〉をここまでの人気曲に押し上げたのは、観世寿夫の功績が大きい」とのこと。観世寿夫氏は、映画『砂の女』に出演している観世栄夫氏の兄でもある。映画『砂の女』の製作当時、栄夫氏は能から離れて俳優をしていたそうだが、今回の公演で『井筒』と『砂の女』の組み合わせには、そのような背景も影響しているのだろうか。
今回の『井筒』について、筆者は当然初見であり、能鑑賞については無知であるが、一応あらすじ等を予習しておいた関係で、鑑賞中に退屈することは一瞬もなかった。 クライマックスにおける「紀有常の娘の霊」が井戸の水面を覗き込む場面では、冷ややかな暁闇の大気の中に美が充満し、体が内側から身震いする痺れに似た感動を受けた。
「実験工房」のコンセプトは「垣根を超えた能舞台での総合的な表現」とのことであるから、内藤明美氏作品の演奏には文字通り「実験」的であり「工房」的なものを感じた。一方で『井筒』については、そこにどのような「実験的要素・工房的テーマ」があったのかを筆者は感じ取ることができなかった。現代音楽と能を連続して上演すること自体が「実験的」ということであるならば、そう納得することはできる。だが、いささか平行線的な実験のようにも感じた。
[2018.12.11追記]本記事の公開後、光栄なことに會田氏からTwitterにて直接コメントを頂戴しました。すばらしい作品と演奏の瞬間に、一聴衆として立ち会うことができ幸福です。心から感謝申し上げます。
尾酒さま、素敵な感想をありがとうございます!繊細に感じ取ってくださり、とても嬉しいです。当初この作品は舞と音楽の作品として短いピースが集積していたものを1作品としてまとめたもので、まさに組曲の集積体でもあります。場面の変化も感じていただけて嬉しく思います。
— 會田瑞樹 (@marimperc) 2018年12月9日
ありがとうございます!内藤明美さんに寄れば、女性の側から見た砂の女のイメージを念頭に置かれたと仰られていました。これからもよろしくお願いいたします!
— 會田瑞樹 (@marimperc) 2018年12月10日
第二回 青山実験工房
日時:2018年12月6日(木)18:30開演
会場:銕仙会能楽研修所
プログラム:
[expt.A]12月6日(木)18時30分開演
The Woman in the Dunes for Solo Percussionist, Noh Idutsu
■「砂の女」 内藤明美作曲(2012)
パーカッション:會田瑞樹 舞踏:武内靖彦
■能 「井筒」 世阿弥作
シテ:清水寛二 ワキ:大日方寛 アイ:山本東次郎 笛:八反田智子 小鼓:観世新九郎 大鼓:原岡一之
地謡:野村四郎・西村高夫・馬野正基・浅見慈一・長山桂三・観世淳夫 後見:観世銕之丞・谷本健吾