journal of ozakikazuyuki.com

ダンジョン飯の底に流れる「エディプス悲劇」と悲劇へのそのアンサー

2022.8.13


左:九井諒子「ダンジョン飯」11巻 右:ギュスターヴ・モロー「オイディプスとスフィンクス」1864年・メトロポリタン美術館蔵

ダンジョン飯とギリシャ神話、二人のライオス


ライオスの子エディプスが、スフィンクスの謎に挑戦する

 近代精神分析の創始者フロイト(ジークムント, 1856-1939, オーストリア, 精神科医)が提唱した概念のひとつ「エディプス・コンプレックス」を知る人は多い。小説や映画を創作する作劇家にとって卑近な親族との関係性を濃密に描く上で使用頻度の高いモチーフになりうるためだ。

 その由来となったギリシャ神話のエディプス王(オイディプース / Oidipūs)は3つの要素で特に有名である。

・スフィンクスの謎々勝負に勝つ
・実父を殺害する
・実母を娶る

 迷宮探索とモンスターを調理して食事する場面が交互に続く『ダンジョン飯』において、エディプス王の悲劇は無関係な要素に見える。しかし断片的ないくつかのヒントから、『ダンジョン飯』はエディプス王悲劇へのアンサーとなっていることが連想できる。

 ヒントは、『ダンジョン飯』の我らが主人公ライオスの名前である。

 ライオスの名前は、本作最大の敵であり、関係者を誘惑してくる悪魔、翼獅子の「ライオン」を連想させる。雄(オス)のライオンだからライオス、などという駄洒落さえも浮かぶ。だがライオスという名前にも由来がある。エディプス王の父がライオス(ラーイオス / Lāïos)なのである。

 ライオスはテーバイ(テーベ)の歴代の王の一人である。テーバイはアテナイやスパルタと共に古代ギリシャの覇権を争った都市国家のひとつであり、領土型国家のマケドニアに併呑されるまで、ギリシャの主要国であり続けた。

 このライオス王の物語は、まさにエディプス悲劇の前日譚に位置付けられる。ライオス王自身の人生は以下のように悲劇的である。少し長くなるが、以下にあらましを述べる。(エディプス悲劇をご存じの方は読み飛ばして構わない)

「エディプス悲劇」のあらまし

・古代ギリシャ、テーバイ王ラブダコス(Labdakos)の息子ライオスがわずか1歳のときに父王が死ぬ。テーバイ王の地位は、ラブダコスの祖父の弟リュコスに簒奪されてしまう。

・20年後、リュコスはアムピーオーン(Amphīōn)とゼートス(Zēthos)によって殺され、アムピーオーンがテーバイの王となる。ライオスはこのとき、アムピーオーンによって追放され、ペロポネーソスに逃れる。

・ライオスはペロポネーソスに滞在中、クリューシッポス(Chrȳsippos)という美貌の青年を誘惑し、連れ去ってしまう。その後、クリューシッポスは父ペロプス(Pelops)によって救出される。この故事から、ライオスは美少年愛の元祖と見なされるようになる。怒ったペロプスはライオスに「子を得られず、得られてもその子に殺される呪い」を掛けたとも言われる。

・アムピーオーンが死ぬと、テーバイ王としてライオスは故郷へ舞い戻り、イオカステーと妻とする。ペロプスの呪いの効果だったのか、「もし男子が誕生したら、その子に殺されるだろう」との予言(神託)が降る。

・ある日、ライオスは酔った勢いで妻イオカステーと交わり、妻は妊娠する。誕生したのは男子であった。ライオス王は息子を自ら殺すことができず、その子供の踵(かかと)をブローチの金具で刺したうえで、家来の牧人に「山中に捨ててこい」と命じる。しかし牧人も殺すには忍びなく、山中の羊飼いに預けて「遠くへ連れ去ってほしい」と頼んだ。

・こうしてライオスの子は、子供が産まれないことに悩んでいたコリントス王ポリュボスとペリボイア夫妻の元にたどり着いた。刺された傷跡が腫れていたため、ポリュボスはその子を「腫れ足」(オイディプース / エディプス)」と名付けた。

・育ったエディプスに対し、「両親と似ていない。実子ではない」との噂が立つ。両親から真相を聞き出せなかったエディプスは、デルフォイに神託を求めに旅立つ。神託の内容は「もし故郷へ戻れば父を殺し、母と交わるだろう」というものであった。

・神託というのはいつも曖昧だ。エディプスはこの神託を聞いて、当然、故郷=コリントス、父=ポリュボス、母=ペリボイアだと考える。よってコリントスに帰らず、ポーキス(フォキス / Phocis)へ向かう。

・その道中で、エディプスとライオスが出会ってしまう。ライオスの従者はエディプスに道を譲るよう言うが、エディプスはもたもたしてしまう。怒った従者がエディプスの馬を殺したため、激昂したエディプスはライオスとその従者を殴打して殺し、谷底へ突き落としてしまった。ライオスは、相手が息子とは知らずに殺され。またエディプスも相手が父だとは知らずに殺してしまったのである。

・ライオスは埋葬されたが、後継者がいなかった。そのため妻イオカステーが国主(女王とは異なる)となり、イオカステーの弟クレオーン(Kreon)が摂政となって国を支えた。エディプスは放浪を続けていた。

・テーバイでは近郊の山にスフィンクス(スピンクス / Sphinx, 身体は獅子、背には鷲の翼、頭は人間の女性で胸には乳房を持つ。あきらかにキマイラ(キメラ)の子である)が居座り、旅人に謎々を掛けては誤った者を捕食し続けていた。スフィンクスを迂回する道もあるが、生活に支障が生じていることには変わりがない。

・テーバイでは「この謎が解かれたとき、テーバイは禍いか解放されるであろう」との神託を得ていたが、この謎を解ける者はおらず、被害者は増える一方だった。摂政クレオンは「スフィンクスの謎を解いた者にテーバイの街とイオカステーを与える」と布告した。

・エディプスはスフィンクスの謎解きに挑戦し、「答えは『人間』だ。人間は幼い時は四つ足で歩き、成長すると二本足で歩き、老いれば杖をついて三本足となる。朝昼夜は人生の時間経過である」と回答する。正解であった。スフィンクスは山頂から転落して死に、エディプスはテーバイの王となった。

・エディプスは殺した男が実父であったことも王であったことも知らなかった。娶った女が実母であることも知らなかった。イオカステーも新しい夫が息子だとは知らなかった。かつて我が子は山中で遺棄されたと思っていたのだから仕方がない。イオカステーは二男二女をもうける。

・スフィンクスは倒されたが、テーバイでは不作と疫病が続いた。クレオンが新たな神託を求めると「原因はライオス殺害の穢れである。殺した者をテーバイから追放せよ」との結果が得られた。

・調査を行うエディプスが真相に近づくと、彼は慄かずにはいられなかった。先王ライオス殺害時の状況は、ポーキスでの自分の体験と酷似している。調査を続けるうちに、その殺人者は紛れもなくエディプス自身であること、さらに捨てられたはずのライオスの子こそ、遍歴を経た自分であることを悟った。

・こうして真実が明らかとなった。すべては神託の通りであった。真相は衝撃はのようにテーバイ中に伝わり、イオカステーは自ら命を断つ。エディプスは絶望のあまり自らの目をえぐり取り、追放を受け入れた。

・エディプスは杖をつき、娘に介助されながら諸国を流浪した果てにアテナイへ辿り着く。アテナイの王は、ミノタウロス退治やアルゴス探検船での冒険、さらには冥界への旅も経験した英雄テセウス(テーセウス / Theseus)であった。テセウスはエディプスを保護し、アテナイ郊外のコロノスの森に落ち着くことを認めた。

・テセウスの息子ポリュネイケスや、テーバイ王になったクレオンはその処遇に反対する。テセウスがそれらの反論を退けたことで、エディプスはようやく安息の場所、言い換えるなら死所を得た。テセウスに見守らながら、エディプスは地中深く沈んでいき一生を終えた。

エディプス悲劇へのダンジョン飯からの3つの「アンサー」


娘のアンティゴネーとともにさすらうエディプス

 以上がライオスとエディプス、父子二代にわたる物語である。

 この古典悲劇を参照しながらダンジョン飯を読み直してみよう。言葉巧みに人間を誘惑する翼獅子はスフィンクスであることは一目瞭然だ。翼獅子とスフィンクスの違いは、前者は人を惑わすのに対し、後者は謎解きを間違えた者を捕食する点である。人間の共通の敵、それは暴力そのものよりも、人心を惑わす邪悪な知恵者の存在である。これがダンジョン飯からエディプス悲劇へのアンサーの「その1」である

 翼獅子を退け、ライオスは信頼の先にマルシルと結ばれるのだろうか? 本記事執筆時点(12巻発行時点)では結末は明らかではないが、培った信頼関係ゆえに良好な人間関係が実現する大団円は期待できる。とはいえマルシルは、ハーフエルフであるがゆえに子をなすことできない。よって、ダンジョン飯の世界ではエディプスは誕生せず、父殺しと母子姦通がおこならない。ダンジョン飯でもシスルによってマルシルがハーフエルフであることがバラされた際、ライオスは「ウマ+ロバ=ラバ」の例をあげている(10巻P200)。

 これがダンジョン飯の作者が、この物語がエディプス悲劇となることを回避するために敷いた伏線である。シスルの最後の願い「誰か 僕の代わりに 誰かこいつを止めてくれ」(11巻P74)。欲望による不幸の連鎖を止める。これがダンジョン飯からエディプス悲劇へのアンサーの「その2」である。

 ギリシャ神話のライオスは少年愛者として目立つが、ダンジョン飯のライオスも魔物への知識に偏った人物である。絶望したエディプスは目を抉り取るが、これはヤギの悪魔によって右目と両耳を食われたミスルンが思い浮かぶ。エディプス王は実母と交わるが、ミスルンも実母の不義(おそらく不倫)の子と明示されている(ワールドガイドP77)。エディプスは〝さすらい人〟となるが、ダンジョン飯のライオスやミスルンも人生を迷い、さすらい、そして迷宮に居着いている。この類似性がアンサーの「その3」だ。

 このようにダンジョン飯は、登場人物の抱える様々な複合感情(コンプレックス)が地下迷宮の中でもつれあいつつも、しかしストーリーの機微によって解きほぐされていく様が描かれている。

〈おわり〉

イラスト:ローガン・マーシャル(Logan Marshall)編著『Myths and legends of all nations; famous stories from the Greek, German, English, Spanish, Scandinavian, Danish, French, Russian, Bohemian, Italian and other sources』(諸国の神話と伝説 〜ギリシャ、ドイツ、イギリス、スペイン、スカンジナビア半島、デンマーク、フランス、ロシア、ボヘミア、イタリアおよびその他の資料より)Copyright 1914, by L. T. Myers 出版社:Philadelphia, John C. Winston Co.


text by ozakikazuyuki |Contact: contact@ozakikazuyuki.com