2020.1.4
注意!
【「ネタバレ」有り 】
© 水木プロダクション 2016
『ゲゲゲの鬼太郎』でおなじみの登場人物「鬼太郎」は、「正義の妖怪」として人間に害をなす妖怪を退治したり懲らしめたりするイメージが広く定着している。これはTVシリーズや少年誌で作られた鬼太郎像である。一方、別作品『鬼太郎夜話』で描かれる鬼太郎は、「正義の主人公」からはかけ離れた主人公である。善悪や正邪といった価値観とは無縁、金銭欲にまみれ、煙草を嗜み、怠惰であり、ともすると傲慢で世間知らずの悪童ですらある。『ゲゲゲ』と違い、『夜話』の主人公には正義感に基づく意識も善の観念も存在しない。ときには復讐さえおこない、「金目当て」や「女目当て」が行動原理となる場面も多い。見た目は同じ鬼太郎ではあるが、まるで別人なのである。
このように、広く世間に知られている鬼太郎像とはだいぶ異なる鬼太郎が登場する『鬼太郎夜話』は特異な作品である。本作の鬼太郎は、アクション活劇の主人公ではなく、読者の視点に寄り添うタイプの語り手に近い。本作は「怪奇漫画」の体裁を取る摩訶不思議な物語である。『鬼太郎夜話』は、『ゲゲゲの鬼太郎』の勧善懲悪モノとは程遠く、昭和現代史の不気味な日常劇画である。そして何より、絶えず不条理にさらされる人間社会へのシュールな批判を描いた戯画であると筆者は考えている。そこで本稿では、「ヒーロー妖怪・鬼太郎」の活劇とは世界観を異にし、怪奇趣味的な不穏な空気が流れるガロ版『鬼太郎夜話』の魅力溢れる世界を紹介したい。
本稿によって、読者が体験する『鬼太郎夜話』の地獄遍歴がより味わい深いものとなれば幸いである。
筆者は『鬼太郎夜話』を、昭和時代に漂う妖しげな不条理とシュールレアリスティク的な怪奇趣味が結実した傑作だと考えている。本作の登場人物たちは、独特な解釈による地獄と現世(娑婆・人間社会)を行き来する。妖怪や神霊、物の怪といったキャラクターは、「現世」と「あの世」の中間の存在であり、仄暗い社会の陰に蠢く。本作では、その多くが正体を明かされないまま現れては消えてゆく。本作のエンディングにおいて鬼太郎は、まるで何事もなかったかのように旅に出る。それも、ドラマティックさとは程遠い、ページの隅に押し込まれたコマに描かれて。暫時の定住と放浪を繰り返す鬼太郎父子を追いながら、本稿では「目を開けながら見る悪夢」のような『夜話』の世界の構造を分析していきたい。
本稿は、『鬼太郎夜話』の物語と内容について細かく踏み込んでおり、いわゆるネタバレを多分に含んでいる。とはいえ、そもそも『ガロ版鬼太郎夜話』においては「物語の核心」と呼べるようなものがあやふやであるものの、話の展開、登場人物詳細について触れている点を予めお断りする。
『鬼太郎夜話』には異稿・異版が複数存在する。これについては後段で述べる。本稿は講談社刊『水木しげる漫画大全集』に収録された『ガロ版』鬼太郎夜話を扱う。筆者はコミックシーモア版電子書籍で本書を購読した。引用画像は同版からの引用である。本稿では、このガロ版『鬼太郎夜話』を『夜話』と略記する。特にことわりが無い場合は、この版を指す。
水木しげる 著
『水木しげる漫画大全集 27『ガロ』版 鬼太郎夜話 上』 講談社 2016年
『水木しげる漫画大全集 28『ガロ』版 鬼太郎夜話 下』 講談社 2016年
上巻 p63には次のようにある。
ガロ版「鬼太郎夜話」は、鬼太郎漫画第一作が載った『妖奇伝』に続く貸本アンソロジー『墓場鬼太郎』全2巻(兎月書房)に掲載された連作と、その続編である貸本長編『鬼太郎夜話』全4巻(三洋社)をベースにして『月刊漫画ガロ』(青林堂)に連載された長編作品である(単行本である貸本版『鬼太郎夜話』と区別するため、本全集ではガロ版『鬼太郎夜話』とする)。
● 舞台――『夜話』における地獄は「黄泉国」〜試論 ユニークな地獄観
●『鬼太郎の誕生』登場人物とあらすじ
●『夜話』の時代――高度経済成長の黎明期
●牛鬼復活と有馬凡の人生――述懐される年代記記述の正確性について
以下は準備中
●『鬼太郎夜話』を読む――全話あらすじとプロット、エピソードの関連と連続性
● 舞台――『夜話』における昭和の風景
●「幽霊族」にみる文明論――生存圏の干渉する「種」の共存は不可能
●『鬼太郎夜話』の妖怪たち――牛鬼、吸血鬼、狼男、物の怪、水神、深大寺の妖怪たち
●『鬼太郎夜話』の怪奇な人間たち――有馬凡、ニセ鬼太郎、寝子、ナンダカ族、ガマ令嬢
● 吸血木――謎めいた存在でありながら不思議な「いきあたりばったり」感
● 試論 鬼太郎夜話の「夜話」たるゆえん
本作の舞台は昭和後期の日本である。主に東京近郊を舞台として物語は進む。東京以外では「第2回」にて大阪が一時的に舞台となる。中盤より東京都調布市が主な舞台となる。これは水木しげる自身が住んでいた街をモデルとしたためであるが、作品冒頭の東京都心(大手町や八重洲、銀座か)や中之島(大阪)から程よい距離のある郊外の町という印象を読者に与える。本文中にも「東京の郊外」(上巻 P76)とある。
『地獄草紙』「雨炎火石」(東京国立博物館蔵)
『夜話』は昭和中期の日本を舞台としている。その昭和中期という作者と読者の共有している「現代社会」と平行する存在する世界として「地獄」がたびたび登場する。しかし『夜話』における地獄は一風変わっている。
「地獄」と聞いて連想しやすいのは「閻魔大王」が君臨する場所としての地獄だろう。生前に悪事のある者は審判の結果しだいで地獄で責め苦を受ける。仏教における地獄の解釈は、インドでの信仰が中国で道教などと混じり合って日本に伝わったものである。日本人は地獄を、仏教の思想とともに再解釈したといえるだろう。地獄は火炎と苦痛に満ちた場所であり、地獄行きとなった悪人が、獄卒と呼ばれる鬼たちによって、徹底的に苦しみを与えられる場所である。罵声や呻き声が無限に続く、かなり騒々しい場所だと想像できる。キリスト教やイラスム教でも、やはり死後に刑罰を受ける場所として描かれることが多い。
現行の大宗教の先輩格にあたるゾロアスター教でも、悪人の魂は地獄に落ち、獣に噛まれたり糞を喰わされるなどの責め苦を受ける。ただし、ゾロアスター教は火を神聖視しているので、火炎を使う拷問はない。ギリシャ神話でも時代によって変わるが、地獄に相当するタルタロスは牢獄であり刑場であった。
上巻 P61
上巻 P213
日本神話では古事記に「黄泉(よみ)」や「根之堅洲國(ねのかたすのくに)」が登場する。死者の国あるいは穢れの行き着く場所である。地下の国と解釈するかどうかは意見が分かれるが、黄泉の国を地底に重ね合わせてイメージする人は多いと思われる。
さて、『夜話』で描かれる地獄は、これらの中で言えば、黄泉の国のイメージが最も近いと筆者は考えている。『夜話』では、地獄は次の特徴を持つ場所として描かれるためだ。鬼太郎は水木(登場人物。鬼太郎の育ての親)に対して、夜な夜な遊びに行っているのは死人の世界だと説明する。(上巻 P61)
『夜話』における「地獄」の特徴
1)罪人かどうかは問われず、死者の霊魂の行き着く先である。
2)静かである。(静寂が支配する場所である)
3)荒涼とした大地が果てなく広がっている。
上巻 P58|鬼太郎を死者の国へ案内する目玉のおやじ
下巻 P53|地獄を脱出する際のニセ鬼太郎と目玉のおやじ
下巻 P24には、「地獄それは遠い遠い人の知らないところにあった」「そしてそこにはかぎりない静けさだけが支配していた。すべて生きとし生けるものの魂が必ずやって来る終着駅でもあった……。」とある。これが『夜話』の世界の地獄の全容だ。「遠い」と書かれているが、この「距離的表現」は比喩である。地獄と現世は三次元空間的に接続している場所が「四百四ある」(下巻P53)と目玉のおやじはニセ鬼太郎に語るが、物理空間としての日本の土中(地下)に地上と物理的に平行して地獄があるのではなく、「出入口」となる接続点はあるものの、実際には空間として娑婆と地獄は、断絶した別次元としてイメージされているのだと筆者は考えている。
6歳まで育てた鬼太郎を追放した水木は、その後、鬼太郎を警察とともに追跡するが、彼は目玉のおやじの誘導によって生きたまま地獄に落ち、そのまま「地獄の入り口」にとどまっている。
こうした「地獄/黄泉=荒涼とした死者の国」とするパターンには他にどのような例があるだろうか。筆者が知る限り、フィクション作品では『ゲド戦記』第3巻「さいはての島」がすぐに思い浮かぶ。主人公が訪れる「黄泉の国」は次のように描写されている。
あたりは晩秋のどんよりと曇ったたそがれ時を思わせた。陰気で、肌寒く、遠くはもちろん、近くのものもぼんやりとしか見えなかった。(アーシュラ・K・ル=グウィン著 清水真砂子 訳『ゲド戦記』3「さいはての島へ」岩波書店 P276)
やがてふたりは町のなかに入っていった。家が並んでいたが、窓にあかりはともっていなかった。戸口にはおだやかな顔をした死者たちが手ぶらで立っていた。(同 P277)
どの死者も癒えて、無傷な状態になっていた。苦痛も、そして生命も、すっかり癒されて、どの顔もおだやかだった。そして、そのくぼんだ目に希望の光はまったくなかった。(同 P278)
石垣を越えて、もう、どれくらいたつだろう? 「向こうには何があるのでしょうか」アレンは人の声が聞きたいばかりに、小声でゲドにきいた。だが、ゲドは首を横に振って、「さあ、果てしなく道が続いているだけかもしれん。」と答えただけだった。(同 P282)
『夜話』にはわずか1コマにのみ「鬼」とおぼしきツノを生やし、横縞のパンツを穿いた人型の獣が地獄に登場する。それが下記であるが、これ以外に地獄にいるのは、安住している亡者たちか、骨だけの魚、渡し舟にのった無言の骸骨たちである。このように例外的に人間以外が姿を見せるものの、ここには宗教的地獄観に登場する鬼も獄卒も悪魔もいないのである。
上巻 P214
荒漠とした大地は無限に続き、死者が何をするでもなく暮らしているのが『夜話』の地獄である。『夜話』において、地獄紀行が場面となるのは実は少なく、次の5つの場面である。しかも1と2は回想であり、語り手こそ違うものの内容はほぼ同じである。4と5は連続している(4は到着、5はその後)。したがって『夜話』において、地獄変歴が直接描写されるのは、3および4+5の実質2回のみである。
1)血液銀行社員の水木が生きたまま地獄へ落ちたことについて、鬼太郎によって説明される回想場面。(上巻 P142-148)
2)水木が自分の地獄変歴を語る回想場面。(上巻 P210-214)
3)禿山氏がドライブ中に崖から転落死してそのまま地獄を彷徨する。水木と遭遇し、また別れる。続けて、水木が地上へ帰還する場面。(上巻 175-185)
4)水死したニセ鬼太郎が水地獄に到着する場面。(上巻 P318)
5)ニセ鬼太郎の地獄遍歴。目玉のおやじとともに地獄を旅し、死者の寝子と邂逅したのち、地上へ帰還する場面。
地獄変歴を体験する人間は、『夜話』においては次の3人のみである。
水木は生きたまま地獄へ落ち、地獄を彷徨ったのち現世へ帰還する。禿山氏は鬼太郎親子を騙してドライブへ連れ出したため地獄へいくことになり、本人の自覚のないまま、崖から転落して死ぬ。地獄放浪を経て禿山氏は三途の川を渡って死者の国へ行く。ニセ鬼太郎は寝子と共に入水自殺するが「霊糸のチャンチャンコ」を纏っているため死者とならずに地獄を旅することになる。このように、『夜話』では、三人三様の地獄変歴が描かれる。整理すると次のようになる。
名前 | 地獄へ落ちる理由と経緯 | 生死状況 | その後 | 帰還 |
水木 | 鬼太郎を追跡したため、目玉のおやじに誘導された | 生きたまま地獄行き | 地獄を放浪後、鬼太郎親子と再会する | 帰還する(帰還地の描写なし) |
禿山氏 | 鬼太郎を騙そうとしたため車ごと崖から転落死 | 死亡したため地獄行き | 三途の川とおぼしき川を渡る | 帰還しない |
ニセ鬼太郎 | 寝子と入水自殺で地獄落ち | 霊糸のチャンチャンコを身につけているため死者にならない | 目玉のおやじ、寝子に会い改心する | 帰還(日本アルプスの山中) |
『夜話』における地獄描写は次の5つの場面を詳しく見てみよう。
1)血液銀行頭取の禿山氏に社員の水木が生きたまま地獄へ落ちたことが鬼太郎によって説明される回想場面。(上巻 P142-148)
2)水木が三島に自分の地獄変歴を語る回想場面。(上巻 P210-214)
上巻 P147
面白いことに、水木が最初に会う死者(亡者)は古式ゆかしい棺桶から姿を現す。すなわち現代では一般化した箱型の「木棺」ではなく、文字通り円柱形の「桶」である。遺体を座棺(体育座りのような姿勢)で入れて土葬する様式は歴史も長い。江戸時代期の「怪談」で描かれる死者の蘇りは、おおむねこの棺桶が起点となる。
水木が遭遇する亡者たちは、一言で言えばフレンドリーである。場所を地獄の一丁目だと教えてくれたり、死人でないのによく来たねと言ったりする。死者の皮膚はところどころ裂けているが、あたかもボロ服をまとっている生者のようだ。
上巻 P175
上巻 P183
3)禿山氏がドライブ中に崖から転落死してそのまま地獄を彷徨し、水木と別れる。続けて、水木は地上へ帰還する場面。(上巻 175-185)
禿山氏には死の自覚はなく、地獄に到着した直後は「ここはどこでしょう 静かなよいところですね」(上巻P175)などと、当初はのんきなことを語っている。
禿山氏の地獄行きはミステリアスな演出に満ちている。前の晩に「一一〇番に電話しちゃあいやですよ」「うそついたら地獄に行きますよ」(上巻 P165)と鬼太郎に念を押されるが、禿山氏は鬼太郎親子をドライブへ誘い出す。「ドライブに行こうと誘って そのまま警視庁の中に横付け……ということにしよう」と考える。翌朝、豪華な朝食に続いてドライブへ誘わる「ドライブってなんだ?」「自動車で散歩することですよ」(上巻 P167)と目玉のおやじと鬼太郎は会話する。車に乗ってからの鬼太郎親子は一言も口をきかなくなり、あんぐりと口を開けたまま、不気味な沈黙を始める。禿山氏は相当の社会的地位と所得に恵まれているが、どうやら独身者であり、秘書や運転手といった人物も姿を表さないことから、禿山氏の実質的な人間社会での孤立感が感じられる。
警視庁を目指したはずの禿山氏だが、「?」「あわてて道を間違えたらしい」「おかしいな またまちがえたのかな?」「とうとう田舎へ来てしまった」「引き返そう」「おや」「ぼくはこんな道 通らなかったはずだが」「?」「だんだん見なれない景色になってきた」(上巻 P168-170)と、徐々に混乱していく死のドライブの様が描かれる。
雨が降り出し、ヒトダマが現れてもなお、鬼太郎親子は黙って後部座席に座ったままである。『夜話』には正体不明の存在(生物として生きているかどうかや、物質的に存在しているのかどうかは別として)が崖から転落する直前に登場する類人猿ふうの存在は『夜話』の中でも、ひときわ謎めいた存在だ。この存在は遊園地やサファリパークの駐車場の守衛のようにして車を中へ進ませ「いらっしゃいませ」とつぶやく。その声は車中の禿山氏には聞こえず、このあとは崖から真っ逆さまである。
かくして禿山氏は本人の気づかぬ間に死者の世界(地獄)へ転落した。だが本人は死者となった自覚はなく、崖からの転落を持って死んだのか、実質的に魂だけの状態となって彷徨っていたのかは区別がつかない。もし「崖から転落するまでは生者」であったならば、それまでの奇怪な体験の説明がつきにくい。
仮説1 禿山氏は生者の現実世界と死者の世界の中間に入り込み、グラデーション的な変化のなかで死者の世界の住人となっていったと筆者は考えている。崖から転落して車を乗り捨てる場面では完全に「死者になった」と言えるが、どのタイミングからそれが始まっていたのかは、車の運転を始めたタイミングから」ではないかと考える。
仮説2 鬼太郎は下巻の最終エピソードで登場する「夢しらせ」という幻覚術を禿山氏に行使した可能性も第二の仮説として提唱できる。ドライブに出発した直後、上巻P168の4コマ目で車はスミベタの中を走る。これは下巻 P280からP288で、ねずみ男と人狼が体験する暗黒世界の体験と同様の描写である。途中に奇怪な生き物が登場する点も共通している。ただし、禿山氏のドライブは具象的な景色の中を進み、ねずみ男たちの体験はひたすら暗黒世界の放浪である点が異なる。
上巻 P172
ここまでが禿山氏の地獄へのドライブである。禿山氏は無言のままの鬼太郎親子とともに地獄を放浪する。鬼太郎親子は「イヒヒヒヒ」「ケケケケケ」と不気味に笑う。ゾッとした禿山氏は死の自覚がないまま、ついに地獄の一角で放浪中の水木と遭遇する。水木がいまいる場所について「地獄の入り口」(上巻 P180)と説明すると、禿山氏は「なんでわしが地獄に行かねばならぬのだ」と(同)と訝しむ。自分ではピンピンしていると語るが、水木の説明によって初めて体温もなく、心臓も止まっていることを自覚し、三途の川とおぼしき川を渡る2人の骸骨(亡者)の渡し守の小舟に乗って地獄へと旅立つ。
水木は「地獄の入り口」と表現し、禿山氏が旅立つ先を「地獄」というが、その境界線は曖昧だ。水木が最初に遭遇する親切な亡者は「地獄の一丁目」というが、一丁目は入り口なのか、地獄のど真ん中なのかは曖昧だ。後述の寝子は地獄の一丁目一番地の家に新しい表札を掛けて暮らしている。地獄には中心という概念もないのかもしれず、そこがどこであろうと、すべからく地獄の一丁目なのかもしれない。
閻魔大王が支配し、罪人が裁かれるタイプの「古典的宗教的地獄」と一線を画す「死者の国」としての地獄であるが、奇妙なオブジェや構造物が点在し、仄暗い無限の礫砂漠のような荒野としての「地獄」について、水木しげるは上巻の巻末に収録されたインタビューで次のように語っている。
4)水死したニセ鬼太郎が水地獄に到着する場面(上巻 P318)
『夜話』において地獄遍歴を旅する3人目の人物がニセ鬼太郎である。ニセ鬼太郎の地獄旅行は水木や禿山氏のそれとは経緯が大きく異なっているのが特徴だ。
霊糸のチャンチャンコを鬼太郎から奪うことに成功したニセ鬼太郎は、テレビ番組からの要請で地獄の砂を入手する必要性に迫られる。ねずみ男の寝子への復讐と合わせて、寝子と共に入水自殺したのが死亡(あるいは「死んでいない」とするならば、単に地獄落ち)の経緯である。崖からの転落死の禿山氏は確実に遺体が現世に残っただろうが、生きたまま地獄に落ちた水木とニセ鬼太郎は、遺体がない状態のまま地獄を旅することになった可能性が考えられる。寝子の遺体は回収されたが(下巻 P19)に対し、ニセ鬼太郎の水死体があがった描写はない。また、娑婆へ帰還した際に、本人と遺体とが分離していては困るだろう。このことから、ニセ鬼太郎は遺体を現世に残さずに地獄落ちしたものと考えられる。
水地獄
入水自殺であったことが原因で、ニセ鬼太郎は「水地獄」と呼ばれる場所に現れる。藻や水草、枯れ木が立つ小島のある寂しい場所である。水地獄は無限に広い沼沢地のようなものだろう。水中に塩分はほぼないものと思われる。湖中には骨だけの魚が泳いでいる。いわば魚の亡者である。身はないので食えない。そもそも死者は食事の必要がないので、魚の亡者は人間に釣られる心配もない。
上巻 P318
ニセ鬼太郎はここで「思いがけず発生した独りぼっちの時間」について考察を始める。人間、することがなくなると、つまらないことを試した結果、徐々に内省的になっていくものである。ニセ鬼太郎はそした一連の人間的動作を、どこにもいけない水地獄の浮島で行うことになる。
ニセ鬼太郎はまず、「誰もいない」(下巻 p26)と確かめた上で、「あまり静かだから笑ってみようかな」「ハハハハハ」(同)と試してみる。しかしあたりの静寂が深まるだけである。これは音がほとんど反響してこないことも示している。ニセ鬼太郎は木のウロを見つけ「俺の家はここにするか」(同)とし、定住あるいは長期戦を覚悟したかにみえる。「昼寝しようがなにしようが誰も文句を言わない」「学校に行かなくてもいいし」「宿題もない」(下巻 p27)と、いかに人間社会が人間同士の相互監視と干渉、社会規範、規則によって成り立っているかを暗に批評する。そして「案外いいところだな」「たのしいね」とニセ鬼太郎は現状を受け入れる。だがこの後、空腹の自覚のなかで「生」とは「食うことだ」という原点への回帰を示す。こうした「生とは何か?」といった視点は、水木しげるの戦記漫画でも描かれるモチーフである。
5)ニセ鬼太郎の地獄遍歴。目玉のおやじとともに地獄を旅し、死者の寝子と邂逅したのち、地上へ帰還する場面
この場面が地獄描写のなかでもっとも長い(下巻 P24-53)。加えて、茫漠とした無限に続く地底世界としての地獄が描かれる場面である。水木が経験した地獄は亡者たちとコミュニケーション可能な地底世界であったが、ニセ鬼太郎が経験する地獄遍歴は茫漠たる「無の大地」(これは『アンパンマン』に登場する「くらやみまん」の世界に酷似している)の中で有限の生をもつ人間の儚さと、砂粒のような人生について考えさせられる場面である。
地獄の周縁部
一方、ニセ鬼太郎が落ちた「水地獄」から「地獄の一丁目」への旅程は混沌としており、回転木馬のようにくるくると色々な場面を通る。これは「変化」の象徴でもある。あえて真逆のような風景の中を登ったり降りたりすることで変化を示す。しかしニセ鬼太郎は自分に残されたタイムリミットと「この目玉にすがるしか方法はない」(下巻 p36)と内心で語る。
ニセ鬼太郎が目玉のおやじと共に地獄を旅する過程を整理してみる。水地獄の木のウロに思われたものは「横穴」で、そこから「ほんとうの地獄」(下巻 p33)へと出発する。
ニセ鬼太郎はこの旅路で宗教論として「奇跡は起こらない」「仏様も神様もあてにならない」という2つの提議を行う。『鬼太郎』シリーズは超常的現象を楽しむエンターテイメントであるが、こうした場面でしばしば自然的宗教観(つまり神も仏もおらず、物質(生命を含む)が存在するのみであるという宗教否定に近い宗教観)を持ち出してくるので興味深い。
本当の地獄への旅は「横穴」を経て、横穴が無数につながっている大きな坑道のような場所に出る。そこから徐々に整備された「道」らしき場所に移るが、地蔵像のようなものが静かに見守る場所を通過していく。これらの石像が意味しているものは不明である。霊魂のようでもあり、暮石のようであり、剣を持つ像、笏を持つ像などがあることから、人類史の暗喩でもあるだろう。
ほんとうの地獄
ニセ鬼太郎と目玉のおやじは長旅を経て「ほんとうの地獄」にたどり着く。その旅程がどれくらいの長さなのかは不明である。ページ数としては3ページをかけて描かれているが、描かれている場面はニセ鬼太郎が内省する場面のみであるため、実際の歩行距離は判別不可能だ。
「ほんとうの地獄」。そこが地獄の中心地帯であることを意味していると解釈できる。ニセ鬼太郎が目玉のおやじに案内されて来た地域は「地獄の周縁部(外縁部)」であろう。「うその地獄」があるわけではなく、現世につながる周縁部と亡者の生活する中心部。このふたつで地獄は構成されているものと考えられる。1)と2)で、水木が落ちたのは、亡者も生活しているが、まだ町のような様相がないことから、周縁部と中心部の境界線上のような場所だったのだろう。
「ほんとうの地獄」の門は、礫砂漠のような荒野にぽつんと立っているが、「ほんとうの地獄」と周縁的な地獄はどうやら区切られているらしい。「ほんとうの地獄」の門は石門である。その造形は米国ユタ州にある「アーチーズ国立公園(Arches National Park, Utah)」にある、世界でもっとも有名な石のアーチ「デリケート・アーチ」がモデルである。
この門は、作画のうえでは、「手前から奥」の構図でも、「奥から手前」の構図でも、同じ形状で門が描かれている。このアーチ門は左右非対称なため、本来的には左右反転して描かれるべきであるが、どちらの向きから見ても同じ形状で描かれている。作画ミスというなかれ。場所は地獄でる。どちらから見て、「同じに見える」という摩訶不思議に思いを馳せよう。
「ほんとうの地獄」はより暗く、よりぼんやりとした背景で描かれている。具象的なのは足元やすぐ目の前の光景のみであり、遠景は薄暗い。近景には立てられた木の棒(それは二股に別れている)に刺された得体の知れない獣の頭蓋骨のほか、枯れ木の枝に止まるカラスに似た黒い鳥である。
枯れ木の鳥は亡者なのだろうか? おそらく「鳥の亡者」である線が濃厚だろうが、鳥は他の獣とは異なる。翼を持つ動物のなかには、地獄(冥府)と現世(娑婆)を自在に往復できる亡者とも生者ともつかない独特の存在があるかもしれない。この鳥はひょっとすると、そのような鳥なのかもしれない。
1ページをかけて描かれるのが、「散歩する東条英機との邂逅」である(下巻 p39)。「いま すめら御国(みくに)は どうなっとるかね」(同)と質問し、チョコレートやキャラメルといったものが誰にでも普通の値段で購入できることを知ると「私もそれを聞いて安心しました」「戦争はイケマセンよ」(同)と立ち去っていく。
陸軍に徴兵されて東南アジアの戦線へ送られた水木しげるにとって、陸軍大将兼陸軍大臣の東条英機は因縁のある存在である(ただし本稿の趣旨からはずれるので掘り下げない)。戦後生まれの読者が中心の昭和30年代の『夜話』の読者にとって、東条英機は少し前の時代の人ではあるし、誰もが知る故人である。こうした地続きの歴史の人物が地獄(死者の世界)に登場することは、読者にとって生者の世界と死者の世界は身近な、表裏一体の空間との演出を認識するのである。
地獄の一丁目――死者の町
目玉のおやじに導かれたニセ鬼太郎は、ついに亡者の町へと到達する。「猫娘」という新しい表札のかかった寝子の家は、あたかも信心深い山奥の農家のような入り口をしている。寝子は「猫娘」と自称していることがわかる。鬼太郎シリーズにおける最初の猫娘である。
下巻 P43
下巻 P48
下巻 P49
下巻 P53
美少女寝子は、地獄において、さらに色白の少女として描かれる。死者であるから黒目はない。服装は白のタートルネックセーターに膝丈のスカートである。黒っぽい靴を履いているまったくの洋装である。白装束ではない点が特徴だ。
猫娘(寝子)はすでに生前の自分に絶望しており、生き返りたいなどとは微塵も思っていない。だがニセ鬼太郎はそうした猫娘の気持ちを察することなく、「チャンチャンコさえ渡さなければ俺にはまだ生きる望みはあるんだ」(下巻 p41)と叫んで逃亡する。
しかしニセ鬼太郎に逃げ先などない。茫漠たる無限の空間が広がっているだけである。地獄では、目玉のおやじのような土地を熟知した者の案内がなければ目的地へたどり着くことなど不可能である。耐え難いさびしさ、無限の空間から受ける恐怖に屈したニセ鬼太郎は元来た道を引き返そうとすると、当然、元の場所へ戻れない。追いかけて来てポケットに侵入した目玉のおやじに声をかけられてようやく立ち止まる。ニセ鬼太郎の改心については別途、人物の項で述べるのでここでは割愛する。
猫娘の家への帰路において特筆すべきは「天然記念物となった針の山」である。『夜話』の世界の地獄も、かつては刑場としての性格を持っていたらしい。しかし時代を経て、いつしか刑場としての地獄は姿を消し、亡者たちが静かに生活しているだけの場所となった。水木が訪問した地獄に登場した一本角の鬼は、そうした刑場を仕切った獄卒の鬼の成れの果ての姿なのだろうか。
地獄から娑婆への帰還に際しても、目玉のおやじの案内が欠かせない。しかし地獄は入り組んでいる。「地獄はそんなカンタンなものじゃないよ」(下巻 p53)と目玉のおやじは言う。立体的に入り組んだ洞穴が交差し、地下迷宮の様相を示している。だだっぴろい空間の地獄を「ほんとうの地獄」「地獄の一丁目」とすると、対置される「娑婆へつながるトンネルばかりの地獄」(地獄の周縁部)もまた、性格の異なる別種の地獄なのである。
このように、ニセ鬼太郎の体験した地獄遍歴は殺害した猫娘への贖罪の旅である。本人は改心へ向かうが基本的な自己中心的考え方は変わらない。ニセ鬼太郎は「神も仏もない」という現実認識の果てに、猫娘から無償の愛と呼べるほどの「情けの心」に触れた際の感動を得るへ至る。とはいえそれも、自分は助かるという安堵の入り混じった複雑なものである。ニセ鬼太郎は最後まで自己中心的な男であることに変わりないが、その後「修身する青年」へと至る通過儀礼であったと、この地獄遍歴は位置付けられるだろう。
理念上の神仏よりも、身近な女性の献身と情けの心が1人の精神的に幼い男を成長させるメタファーがこの地獄遍歴には描かれているとも言えるだろう。
本作は昭和中期である。鬼太郎の公式な生年は昭和29年であるため、目玉のおやじと共に日本を放浪している時期は誕生から6年後(昭和35年)といえる。『夜話』第1回の冒頭で、「昭和6年、今から36年前」(上巻P66)と説明されるが、これは劇中の時間軸ではなく、作者および読者の時間軸が昭和42年(1967年)である示すものして劇中時間とは異なる時間であると解釈できる。本作ではこうしたメタ的な表現がしばしば見られる。なお、第1回から第22回までの間で、時間の進行は厳密ではないため、『夜話』全体は昭和34〜35年頃の物語と解釈するのが無難だろう。同時代の社会を含め、時間軸が明瞭になっているできごとをピックアップして並記すると、次のようになる。
西暦 | 和暦 | 社会 | 『夜話』 |
太古の昔 | 人類が誕生する以前から幽霊族は地球に生息。その後、人類に圧迫されて森に潜み、さらに穴に住む。 | ||
1901年 | 明治14年 | 有馬凡が牛鬼について学会に発表し狂人扱いされる。牛鬼の墓の探索を始める | |
1922年 | 大正11年 | 水木しげる誕生 | |
1931年 | 昭和6年 | 満州事変勃発 | 有馬凡(70歳)が牛鬼の墓を発見。牛鬼復活 |
1954年 | 昭和29 | 2月30日 鬼太郎 誕生(公式設定) | |
1960年 | 昭和35 | ヒッピーカルチャーなどの登場 | 鬼太郎6歳。目玉のおやじと共に水木家を出る。 |
1964年 | 昭和39年 | 東京オリンピック開催 東海道新幹線開業 「みゆき族」流行 |
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1966年 | 昭和41年 | 日本の総人口が1億突破 ビートルズ来日 月刊漫画ガロ3月号に『鬼太郎の誕生』掲載 |
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1967年 | 昭和42年 | 月刊漫画ガロ6月号に『夜話』第1回掲載 | |
1968年 | 昭和43年 | 東名高速開通 | |
1968年 | 昭和45年 | 大阪万博開催、三島由紀夫自殺 |
文壇では三島由紀夫や安部公房、大江健三郎など戦後派作家が活躍しており、彼らの書いた同時代的作品の舞台と同一の都市景観をしている。本作は、発表当時の読者にとってはリアルタイムの社会を描いた同時代作品である。だが、物語そのものは時代性が無関係(ただし「現代性」という広い観点では現代という時代が当てはまる)である。
本作には「昭和感」を強烈に感じる要素が多々ある一方で、汲み取り式便所や公衆電話といった日常を描く要素は極端に少ない。現代の文明にあるもの――たとえば鉄道や自動車――は登場するが、意匠はレトロであっても「令和時代の東京では絶滅した」ような文化的要素はあまり登場しない。『夜話』で描かれる「古い」要素は、昭和において「古い」ものである。したがって、現代日本人にとって共通の「古い」印象を持つものが登場する。たとえば「古寺」「古民家」「猫皮を使う三味線屋」などである。
図1 『鬼太郎の誕生』登場人物相関
出生|上巻 P47
上巻 P31
上巻 P49
上巻 P28
上巻 P15
上巻 P51
上巻 P15
上巻 P17
上巻 P19
上巻 P20
上巻 P41
上巻 P51
『鬼太郎の誕生』は、鬼太郎が生まれるまでの前日談である。
幽霊族* の最後の生き残りの夫婦が、水木母子の暮らす家に隣接した古寺に住み着く。最初の接触は、箱に入った「目玉」のプレゼントであった。この目玉が何の生き物の目玉なのかは解説されないが、怪奇漫画としての迫力を出している。
上巻 P21
水木は「血液銀行*」に勤務する会社員である。出社すると「幽霊の血が混じっていた」件の調査を社長より申し渡され、水木は病院で初めて幽霊(生きている死者)と対面する。幽霊の血が混入した血を輸血したため、患者が幽霊化したのである。血液銀行調査室で供血者を調査すると、その住所は水木の家と同じだったことから、水木は隣の古寺を訪問する決意を固める。
鬼火に誘われるようにして、シャレコウベや骨が散らばる古寺(実に怪奇趣味である!)に入った水木を、幽霊族の女(鬼太郎の母)が接待する。「とりたてのカエルの目玉」(上巻 P51)をすすめる(これも非常に怪奇的である)しかし水木は断る。脱出しようとする水木を幽霊族の男(鬼太郎の父)が「フガーッ!」(上巻P30)と登場して押さえつけるが、「手荒なことをしてすみません」とすぐに謝り、理性的なところを見せる。このように「怪奇・恐怖→理性・相互理解」への転換が随所に見られて実に面白い。鬼太郎の両親は幽霊族の来歴について水木に語り、子供が生まれるまで通報などしないでほしいと懇願し、水木もそれを受諾する。
上巻 P50
上巻 P62
8ヶ月が経ち、古寺を再訪した水木が見たのは夫婦の死体だった。水木は、どろどろになった男の死体はやむなく放置し、妻の死体を墓場に埋葬(土葬)する。その3日後、埋葬した墓から赤子の泣き声がし、土中から鬼太郎が這い出てくるのを水木は目撃する。恐れをなした水木は家へ逃げるが、目玉だけになっても生存した鬼太郎の父によって連れられ、水木の家へ到着する。水木は鬼太郎に憐憫の情を感じ、育てることを決める。6歳になった鬼太郎だが、顔は醜く、友達は1人もできなかった。
鬼太郎は目玉のおやじに連れられて、たびたび夜中に遊びに出るようになる。ある夜、水木はその後を追うが鬼太郎を見失ってしまったことから、意を決してどこへ行ったのかと尋ねると、鬼太郎は「死者の世界」だと答える。水木母子は鬼太郎に、そうした不気味な遊びはしないように言う。その夜、目玉のおやじは「こんな不自由なところはでよう」(上巻P62)と話し、外へ連れ出して旅にでるところでこのエピソードは幕を閉じる。
話数 | 概要 | 展開と伏線 |
鬼太郎の誕生 | 鬼太郎が生まれる前後。『夜話』前日譚 | 鬼太郎の両親が人間界の古寺を住処とし、水木と会う。 母は死に、埋葬された3日後に生まれ、鬼太郎は自力で墓から這い出す。父は目玉のおやじになる。 鬼太郎は6歳まで水木家で育ち、目玉のおやじと「死人の世界*」で遊ぶようになる。 鬼太郎と目玉のおやじは水木家を去り、放浪の旅に出る。 |
第1回〜第3回 | 牛鬼の復活。牛鬼と吸血鬼の対決 | 【第1回】牛鬼の墓を探し求める理学博士 有馬凡 【第2回】調布市 【第3回】吸血鬼と牛鬼は相打ちで終わる。鬼太郎の魂は血液銀行頭取 禿山氏に拾われる。鬼太郎の肉体は魂に呼ばれ、禿山氏の元を訪れ、魂と肉体は一体に戻る。水木が鬼太郎を追跡したことによって地獄に落ちたことが鬼太郎によって語られる。ねずみ男が目玉のおやじを禿山氏宅に連れてくる。ねずみ男は謝礼としてドラム缶1本分の血液を受け取る。 |
第4回〜第6回 | 血液銀行頭取の地獄めぐり。ねずみ男の吸血木の育成 | 【第4回】禿山氏は鬼太郎親子をドライブに誘うが、地獄へ落ちる。3人は水木と再会する。 【第5回】ねずみ男によって吸血木の芽が三島由美夫に植えつけられる。水木と三島が出会う。 【第6回】水木と鬼太郎父子の3人は寝子 |
第7話〜第9回 | 寝子のスターダム登場と破滅。霊糸のチャンチャンコの強奪 | 【第7回】「自称本物の鬼太郎」(=ニセ鬼太郎)とねずみ男は意気投合し、人間が生きたまま地獄を往復するために必要な「霊糸ちゃんちゃんこ」の奪取を計画する。人混みの中で、ニセ鬼太郎は霊糸ちゃんちゃんこを「ただの黄色と黒の市松模様のチャンチャンコ」へのすり替えに成功する。鬼太郎は寝子を三島に会わせる。三島はステージで歌唱中に吸血木に化けてしまう。 【第8回】三島の代わりに寝子が歌い、人気を博す。ねずみ男とニセ鬼太郎はテレビ番組プロデューサーに会い、番組出演を決める。番組で「地獄の砂」を持ってくるよう要求され猶予として1ヶ月を得る。 【第9回】吸血木に変身した三島由美夫は調布の民家の軒先きに放置されていた。勅使河原 |
第10回〜第11回 | ニセ鬼太郎の地獄めぐりと、寝子への贖罪 | 【第10回】寝子の死にショックを受ける鬼太郎。寝子の霊を取り返してくると目玉のおやじは地獄へと旅立つ。水地獄でニセ鬼太郎と目玉のおやじは漫才のような珍道中をしながら「ほんとうの地獄」へ行く。寝子は「猫娘」という門札を掲げて地獄で生活をスタートしている。「チャンチャンコさえ渡さなければ俺にはまだ生きる望みはあるんだ」(下巻 P41)とニセ鬼太郎は、目玉のおやじを放り捨て、寝子に背を向けて地獄を走って逃げる。だが終わりない無限の地平線から「今まで味わったことがない、さびしさと哀しみ」(下巻 P43)を感じたニセ鬼太郎は引き返したが、元の場所に戻れなくなった。 【第11回】ニセ鬼太郎の上着のポケットから目玉のおやじが現れ、寝子がニセ鬼太郎を返してやるつもりだとニセ鬼太郎は知る。ねずみ男の脳の一部を寝子から受け取ると、目玉のおやじとニセ鬼太郎は帰路につき、シャバに出る。一方地上では、「地獄の砂」がない状態でねずみ男はテレビに出演。トイレに行きたいといって、生放送現場を脱出する。 |
第12回〜第13回 | ナンダカ族と鬼太郎、深大寺のスキヤキパーティ | 【第12回】「ボヤボヤしていると年老いてしまう」「人生は一日でも楽しまなくちゃ」(下巻P70)といい、タバコ、歌、コーヒーを楽しむ鬼太郎は、喫茶「忍風」でケーキを食べているところでナンダカ族と会う。ナンダカ族の意味不明な人生哲学と思想を聞かされながら、駅のプラットフォームでスリルを味わう経験をするが、ナンダカ族の正体がスリであることがわかる。猫屋には頭を丸めたニセ鬼太郎が下男として転がり込んでいる。そこに「深大寺スキヤキーパーティの案内ハガキ」が届く。郵便配達人と悶着したあと、鬼太郎は夜遊びへ出る。ナンダカ族と再会し、横丁で痴漢とスリを試みるが、鬼太郎は撃退され、警察に連行、のちに釈放される。三度ナンダカ族と会い、鬼太郎はナンダカ族をスキヤキパーティへ誘う。 【第13回】スキヤキパーティを仮装舞踏会と勘違いしたナンダカ族だが、妖怪たちのあまりの迫力に冷や汗をかく。妖怪たちから踊りに誘われるが、鬼太郎に百万円が入った貯金通帳を渡すと、ナンダカ族は震え上がって逃亡する。翌朝、ねずみ男を探すニセ鬼太郎と、鬼太郎を探すナンダカ族が会う。鬼太郎の百万円の通帳はねずみ男に奪われる。ニセ鬼太郎はねずみ男を見つけ、脳の一部をねずみ男に返す。 |
第14回〜第16回 | 吸血木から三島が復活し、水木と会う。鬼太郎は物の怪と水神へ「借金取り立て」に行き、水神の復讐に会う。引っ越しによりガマ令嬢と会う。 | 【第14回】吸血木のことを思い出したねずみ男は喫茶「ザ・パンティ」の支配人に90万円を払って吸血木を引き取ると、残りの10万円で多摩川上流の中州の「蛇が島」の百姓家を買い、そこへ運ばせる。ねずみ男は、蛇が島で物の怪と出会う。水木はねこやの婆から家賃値上げを要求され、鬼太郎一家はさらに困窮する。仕事を探しに行く鬼太郎は金貸しの森脇真茶光 【第16回】水神と対峙した鬼太郎は借金を回収できないと見ると、水神をビニール袋に入れて持ち帰ることにした。大きく育った吸血木の実が落ちると、それは卵だった。中からは三島由美夫が出てくる。吸血木を燃やしている間、水神は水蒸気になって逃げる。借金取り立ては失敗に終わった。東京は記録的豪雨になり、鬼太郎は家ごと太平洋へと流されてしまう。救援に来たのはねずみ男だった。召使いになるという条件と目玉のおやじが人質になるという条件を飲み、陸地へ生還する。ねずみ男の高級アパートの隣人、がま令嬢が訪ねてくる。コーヒーを出そうとし、それを失敬したニセ鬼太郎は水神によって溶かされ、殺されてしまった。 【第17回】間違えて隣人宅に入ってしまった鬼太郎は、怪紳士の食卓の肉を食べてしまい、許す代わりにガマ令嬢へのラブレターの運び人となる。怪紳士は「ロンドンの人狼」という狼男だった。 |
第18回〜第19回 | 狼男と鬼太郎は組んで水神にとどめをさす。ねずみ男と狼男は手を結んで鬼太郎を抹殺する。 | (作成中) |
第20回〜最終回(第22回) | 調布の鬼太郎の家でのダンスパーティー。「夢しらせ」の幻覚術。狼男の死。ねずみ男の詫び。物語の終焉。 | (作成中) |
妖怪・牛鬼の墓を生涯かけて探し求める有馬凡が述懐する人生について、その数字は辻褄があうのだろうか? 私は疑問に感じたので、彼の人生に関する情報を整理したところ、次のようになった。
触れられている数字は次の通り。「昭和6年」(上巻 P66)、「もう70歳」(上巻 P68)、「牛鬼の研究に入って50年」(上巻 P67)、「学会に発表したとたんに狂人扱いされ……」「あれから30年」(上巻 P68)。これらを順番に並べると、次のようになる。
万延2年/文久元年 | 1861年 | 0歳 | 有馬凡誕生 |
明治14年 | 1881年 | 20歳 | 牛鬼の研究に入る |
明治34年 | 1901年 | 40歳 | 学会で発表し、狂人扱いされる |
昭和6年 | 1931年 | 70歳 | 牛鬼の墓を発見。ネズミに噛み殺されて死去(その血によって牛鬼は復活) |
1881年は明治大学や東京工業大学が建学した年でもあり、日本でもアカデミアの世界が立ち上がっていた時期である。ゆえに有馬が「牛鬼の研究に入った」というのは、あながち矛盾ではない。日本民俗学の先駆者である南方熊楠(1867年生(慶応3年) - 1941年没)より6歳、柳田國男(1875年生(明治8年) - 1962年没)より15歳ほど有馬凡の方が年上という設定になる。
以上の年代記的整理により、有馬凡の生涯と日本の明治期におけるアカデミズム興隆との間に大きな時代的矛盾はないことがわかった。