映画『リズと青い鳥』私的レビュー


『リズと青い鳥』私的レビュー
 〜「わかりにくさ」と「わかりやすさ」

掲載:2018年5月2日
推敲と加筆:5月3日、24日

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©武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

注意:本レビューでは著しいネタバレはありませんが「映画を観た後に読む」ほうが楽しめる内容となっています。

『リズと青い鳥』、久々にレビューの難しい作品に出会ってしまった。この作品は百点満点と評して差し支えないレベルの作品であるともいえるし、「これは映画なのか?」という疑問さえ起きる落第点の作品ともいえるという極端な二面性を持っている。

1|極端なほどに非言語情報が豊富な映画

この作品は言語化されている表現、つまりセリフで表現される〝芝居〟の部分が極端に薄い。その一方で、非言語の映像表現による説明や解説は、饒舌と思えるほどに詰め込まれている。そのため、漫然と映像を眺めている観客の目には物語の進まない、退屈きわまりない映画に映るだろう。しかし非言語部分を的確に読み取りながらこの映画を観る場合、映像に詰め込まれている暗示、隠喩、記号的表現、頻出するほのめかしや象徴の多用といった情報量は非常に豊富である。それらの非言語情報にも、解釈に迷ったり理解に苦しむような要素は少なく、比較的シンプルである。そうしたことから、理解しやすい部類の映画であると判断できるだろう。もちろん観客による解釈は多様であって構わない。そこには視聴者の自由選択がある。とはいえ、わざわざうがった見方や曲解、回りくどい解釈といった手段で考察を深めるまでもなく、この作品に散りばめられた情報すなわち〝点〟は容易に〝線〟で結ばれていき、わかりやすくきれいで整った図形となって浮かび上がってくる。『リズと青い鳥』は、そういった、いたって普通の良質な映画作品である。


© 武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

2|わかりにくさの原因は

この映画では、作品と観客のコミュニケーションの断絶を招きやすい表現手法が多分にとられている。本作内容の〝分かりにくさ〟は、そのまま登場人物たちの性格や人格の〝めんどくささ〟に由来する。ややこしい人格の持ち主たちの、こじれた人間模様が主題であるから、演出もそれに沿ったものになるためだろう。この映画は、15秒程度のシーンを12個つないだ約3分で導入から前半を、同様に15秒のシーン12個で中盤の展開を、また同様の12シーンで終盤から結末までを整理して一本線で描けば、おそらく9分程度で語り終えることのできる物語だろう。だが実際には、本作はその10倍の尺を使っている。各シーンにぶら下がっている〝映像による説明や解説〟がこの映画(劇中劇を含む)の残り9割を占めており、これらの映像が本作の本当の見どころである。

映画本編を見ると『リズと青い鳥』は聴く映画であると同時に〝極めて仔細に観る〟ことが要求される映画である。また観客がそれらの映像から情報を的確にキャッチアップすることを前提として構成されている作品であろう。実際、この映画の映像は意図的に〝説明的〟である。暗示は多用されるが、その暗示が示すものは分かりやすいので、実態としては明示されているのと大差ない。だが言葉で語る以上の含みが多いのもまた事実である。そのため観客は自分の中の言葉なり感情なりに置き換えて受け止めることが求められる。いわば、厚いガラス越しに語りかけられていて、声が聞こえないので唇の動きで言葉を読んで情報を受け取り直すようなものだろうか。これが結果的に、この映画がずいぶんと饒舌であるにも関わらず、観客とのコミュニケーションが断絶している映画と筆者が考えるゆえんである。

象徴や隠喩によって示される意味を「自明な意味」という。本作は「自明な意味」がふんだんに使われている一方で、汲み取りにくく視聴者が吸収しにくい付加物のような表現は、ほとんどないように感じられる。画面内の情報は念入りにコントロールされているため、この物語における意味の自明さを阻害しない。しかし本作では、監督の物語進行やフィルム的事象の操縦が極めて巧みであるため、視聴者は独自の解釈の幅の中を遊ぶことができる。バルト(Barthe、20世紀フランスの批評家・記号学者)の言う「鈍い意味」のようである。本作は監督の一義的な解説の連続に陥らず、自由で詩的な理解と鑑賞、作品の受容者による美的再生産(解釈によって鑑賞者の内部で作品が再創造されること)が許されている。鑑賞者には、登場人物に感情移入する自由と、または感情移入をしない自由の両方が柔軟に与えられている。鑑賞者は、主に登場人物たちの態度で構成される意味空間のどこにでも、好みの場所に居られる。

この手の作品は、文字が中心の脚本やアフレコ台本を見ても十分に理解できない。むしろ解釈にブレが生じてしまう可能性が高い。完成した映画から読み取れれば理想であるが、完成版からそうした〝意図〟を読み取りきれない場合や、キャラクターが何を演じているのかをより理解するには絵コンテを見て読み解くのが近道だろう。


© 武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

3|尖った作劇

劇中の時間軸は物語の始まりから終わりまでで、おそらく数週間かそれ以上が経過している。登場人物が夏服をずっと着ていることから、長くても数ヶ月以内の話である。オープニングの朝の登校シーンでは、主人公のふたりの関係性が丁寧かつ念入りに説明される。その関係性はキャラクターの動作や表情、音楽によってのみ示され、わかりやすい言葉(セリフ)は用意されていない。不注意な観客はたちまち見逃し、聞き逃してしまう、大変わかりにくい仕掛けとなっている。一方、エンディングは下校の場面である。物語の結末として、ふたりの関係がどう変化したのかについて、エンディングでは比較的多めのセリフも交えて表現される。あたかも主人公のふたりにとっては、いろいろあった長い長い1日だったような、そんな作品である。

この作品は、ずいぶんと尖った形の作劇や演出がなされている。映像と音声に対して、鑑賞者は自身の中に蓄積されている記憶や知識・体験からのフィードバックを並行的に処理しながら解釈する必要がある。場面ごとの解釈自体はしやすいが、解釈に抜け漏れがあると登場人物に共感したり感情移入したりするためのパーツがそろわず、印象が極端に変わってしまうような作劇である。ゆえに本作は、この映画を堪能できる人と退屈だと感じる人の二極化が容易に起こりうる映画である。とはいえ映画の作り手側が、その作品の独自性や独創性をストイックに追求することがあってよい。万人受けする懇切丁寧な分かりやすさを大事にする作り手が多いだろうが、ときにはそれ(わかりやすさ)を適度なあんばいで間引いて味を整えることがあってもいい。本作でいえば、鎧塚みぞれがいくら口下手で口数が少ない人物だとしても、傘木希美がいくら本音を語らない語り手であろうと、独り言や心の声などの手段でいくらでも説明的に本心を語らせることは可能だ。だが本作ではそうした方法は取らず、セリフ以外の映像表現でそれを行う。これゆえに百点満点と落第点の両方が同居していると筆者が感じた次第である。

言い換えるなら、本作は「わかる人(わかろうと(努力を)する人)にはわかる(その理解が的外れな場合でも、少なくとも「わかった気」にはなれる」)。そして満足できる」という点で満点に近い高得点作品でありながら、「わからない(わかろうとしない)人には(つまらないアートフィルムを見せられたような)退屈な映画」であるという点で、極めて危うい(その危うさが思春期の特徴でもある点で本作はメタ的にそれを示しているのかもしれない)挑戦のうえに完成された、実に〝繊細で危険〟な映画である。正直に言ってこの作品は、こわいほど完成度が高い。

本レビューでは映画の作劇と〝(観客にとっての)わかりやすさ〟との関係に焦点を絞った。音楽面のことやキャラクターの話については機会を改めたい。『リズと青い鳥』は〝人(の感情)と音楽〟のドラマであるから、本稿の主旨とは相いれない。そのため、本稿でまとめて論じるべきではないと考えて省いた。

〈おわり〉