映画感想|リドリー・スコット監督による『ブレードランナー』音声解説を再解釈する

2021.12.28

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はじめに

 『ブレードランナー』への評価を熟語1つへと落とし込むならば、「難解」がそれに該当するだろう。私自身は「すばらしい映画」とは、平易かつ論理的に明晰、それと同時に奥深く知的で、時代を超えて鑑賞に耐えうる作品だと定義している。とはいえ、その作品のテーマや物語を視聴者にわかりやすく伝えようとすると説明過多になりがちだ。適切に描写していくことと、過剰な説明を削ぎ落としていき「これ以上はスリム化できない」という極限まで切り詰めていく工程は二律背反だ。そのバランスの中に、作品としての洗練や監督の美意識(それは〝意地〟と言い換えてもいい)が反映されていく。ブレードランナーは、そうした洗練された作品のグループに入る。

 古典文学においては、作品本体よりも注釈の方がページ数において膨大となっている例が山ほどある(文学作品ではないが、宗教の経典はその典型かもしれない)。しかしまだ1世紀強足らずの歴史しか持たない映画においては、そういった「注釈」は単なるマニア的・オタク的趣味であることが否めない。他の娯楽や芸術と同じく、映画も第一義には「楽しめればよい」のであって、「解説されて分かった気になる」というのは二の次(オタク趣味)であろう。だが「気になって夜も眠れない。眠れはするが、夢にまで見る。夢から覚めて余計に気になる」というタイプの人間において、作者(主に監督)による解説は、いわば正統的タネ明かしとして作品に付加される最高のエンターテイメントとなる。

 監督による音声解説は、視聴者が独善的(独りよがり)な解釈と思い込みに陥るのを防ぎ、似たような趣味を持つ他者と共通理解の基盤となる。「監督による音声解説」は、いわば寿司におけるワサビであろうか。解説は、思考が食中毒を起こさないための抗菌作用を持つ優れた香辛料だと私は考える。本記事では、リドリー・スコット監督による『ブレードランナー』音声解説を追いながら、作品の難解箇所の再解釈を試みたいと思っている。本記事では音声解説の字幕を底本とし、句読点などは適宜補った。

監視と全体主義の象徴「眼」

 音声解説でリドリー・スコットが繰り返し使用する表現が「未来的(Futuristic)」「都市的(Urban)」である。これはそのまま、ブレードランナーを象徴する単語である。彼がいう未来とはどのような未来なのか。都市はどのような都市なのか。それを1つのカットで示しているのが映画冒頭の目だ。眼球(眼、瞳)についてスコットは次のように説明する。

「この眼球は監視の目を象徴してるんだ。全体主義的未来社会。つまり監視体制国家を意味する。世界は3つの企業に支配されているという設定にした。眼球は組織化された未来社会の象徴なんだ」

 音声を聞くと、「全体主義」と訳されているのはBig brotherである。これは後半でも出てくるが、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』で知られている監視システムの象徴だ。ブレードランナーの社会は超高度監視社会であることが示される。

 本編内ではタイレル社(Tyrell Corporation)以外の企業は登場しないが、現代のGAFA(Google(Alphabet), Amazon, Facebook(Meta), Apple)に代表される巨大テクノロジー企業をしのぐ超巨大組織によって人々は支配されている。警察機構はあるものの国家権力は明確ではなく、企業帝国主義が君臨し、経済や社会のみならず、人の生き方、さらには倫理や思想においてもさえ、企業によって征服されているのである。

「彼はデッカードをうまく演じきった。彼は戸惑い混乱しながらもやがて理解していく。自分はシステムの一部で彼らに操られているのだと。オーウェルの“1984”を思わせるね。独裁者に支配された共産国家みたいだ。ハリソンは役になりきっていた。アンチヒーローを見事に演じたよ。私たちにとっては大きな賭けだった。このシーンを見たら誰でもハン・ソロやインディ・ジョーンズを連想するだろう。今にも“こっちは危なそうだ”。“おれはあっちへ行く”と言い出しそうだからね。どちらもユーモラスで愛せるキャラクターだった。だがデッカードの使命は真理の発見だ。彼には珍しい役柄だよ。この作品は展開がとても遅いけれど、すべては意図的にやっていることなんだ」

 20世紀においては監視社会とは全体主義とほぼ同義であったが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を経験した2020年代の社会にとっては、それはITによって可能な監視であると直感的に理解できる。かつての市民は人間同士の監視を基盤とする国家の枠組みの中にあったが、いまは機械の冷たい眼(レンズとセンサー)とその神経系(情報通信システム)に取り込まれている。企業が提供し、国民監視を強化したがる国家がそれを利用する。市民は利便性の享受という甘い汁の中で、実は都市規模で監視されることを受け入れてしまっている。

 これらの企業が支配する都市はどのような姿なのか。スコットはブレードランナーの舞台となる都市のイメージを次のように語る。

「頭の中では香港のような世界を描いていたんだ。現在の香港とは違う、かつての姿をイメージしていた。昔の香港は何千もの帆船が停泊する港町だった。高層ビルはなく不潔な雰囲気が漂っていた。香港は時代遅れの大都市に見えた。1959年に初めて訪れたニューヨークの街は危険ではないが不気味で居心地の悪い場所だった。私が描きたかったのは都市を舞台にしたSF作品(Urban science fiction)だ。SF映画というより未来都市を描きたかった(Futuristic fiction which could possible)。“エイリアン”のあとにこの作品は作られた。“エイリアン”に登場するノストロモ号の世界と地球に残された人々の社会をつなぐ世界を描いた。この作品の登場人物が“エイリアン”の世界に行く。逆に“エイリアン”の世界からデッカードが通うバーに戻ることも可能だ」

出典:‘Picturesque Hong Kong
Published by Ye Olde Printerie Ltd., Hong Kong,
Photograph by Denis H. Hazell, c.1925.
同じ写真のブリストル大学保管サイト

 20世紀半ばの香港の写真を探してみると、たしかにスコットが語るような雑然さや猥雑さが感じられる。煌びやかな未来ではなく、こうした過去へタイムスリップしたかのような都市景観は、まさに衰退した未来の地球と文明にふさわしい。

「これはファンタジー作品なんだ。都市を題材にした初めてのファンタジー作品だよ。似たような作品もあるが出来はあまり良くない。予算も想像力も不足している。人間の生活を描いたSF作品は現実性に欠けている。とにかく失敗作が多い」

レプリカントは意志と感情を持つ夢を見るか?

 レプリカント(レプリ)は人造人間であり、その頭脳は人工知能(AI)だ。現代のAI関連の技術においては、AIが意志を持つかどうかは懐疑的であり、かなりハードルが高い。一方でロボットや人造人間をテーマとする作品においては「意志や感情を持ちえる(持った)」という前提で作品が成立していることが多い。本作もその1つだ。

 人間が造物主(神)によって創造され、知恵を与えられたという概念に立って考える民族において、被造物である人間がさらに下位の存在を創造してよいものかどうかという議論は果てしなく続いている。人間が上位概念の存在を想像し、理解しようと試み、ときに反逆する存在であるように、人間が作った下位存在(つまりアンドロイドやロボット)が人間に対して反逆するのではないかという恐怖が常につきまとうのは、そうした上下関係を前提とした思想を持っているからである。〝フランケンシュタインの怪物〟もその一例と言える。一方、そうした上下関係の希薄な文化を持つ民族にとって、作られた存在(アンドロイドやロボット)は友人になりうる隣人である。

 スコットは、自身の考えを次のように述べ、ブレードランナーの作品としてのテーマもそこにあると明示している。

「意志のないコンピューターにあらゆる経験を入力すれば、意志を持つ可能性がある。そしたら何が起きるだろう? 怒りを感じることもある。この作品の重要なテーマだね。科学者たちは推論を重ね、原因を追求しながらも、疑問を投げかけるSF作品や映画に興味を示している。疑問を抱くことは科学者と小説家にとって当然のことだ。つまり可能性は疑問から生まれるものだよ」

 人間の複製であるレプリカントの処理(逃亡したレプリカントの捜索と破壊(射殺))やレプリカントと人間を識別するフォークト=カンプフ検査(感情移入度検査法)を通じながら〝人間とは何か〟を探究していく本作を見ていくことは哲学的な思索を伴う。

 人体を精巧に模しているレプリカントは、単なる機能(ファンクション)を持つ労働力としてではなく、その〝精巧に模している〟がゆえの目的も有する。つまり愛玩のための存在意義だ。それは各種の欲求や破壊的な衝動のためだけでなく、失った個人(故人)や出逢えない他人などを具現化するための複製技術(レプリケーション)であるともいえる。

「レーチェル以外にも快楽用の型(Precious model)が2体登場する。言いにくいのだが、人間は常に耽溺で邪悪な部分を持っている。人間よりも人間らしい奴隷ロボットのロイには暴力的な部分が強烈に表現されている。デッカードはその凶暴性を身をもって体験する。実にさまざまな考え方が存在するがアパルトヘイトとの関連はない。こじつけは可能だがくだらないね。とにかく、この作品は近未来を描いたSF映画だ」

 ブレードランナーの世界では、フクロウやヘビで僅かに示されるだけで、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』における重要な要素であるロボット動物については強調されていない。愛玩(心の慰め)のための動物と、生きた動物を手に入れられないための代用品としての電気仕掛けの動物の要素は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』における重要パーツであった。だがこれはブレードランナーでは省略されている。また、小説で描かれた宗教団体マーサー教の教祖の肉体的苦痛を共有することによる信仰心と受難の感覚の合一も、共感の意義を強調する原作における重要パーツであった。しかしこれも映画化にあたって省略されている。ブレードランナーは無神論的世界観が前面に押し出されており興味深い。

 原作小説で描かれていた退廃の極地は、神の不在感という孤独を共感(感覚共有)によって埋め合わせる社会の描写だ。「ヒトのような群居動物は、それによって一段高い生存因子を獲得する。一匹狼的なフクロウやコブラは、逆に破滅に近づくだろう。人間型ロボットは、どうやら本質的に独居性の捕食者らしい」(原作 P.42、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫)。このように、アンドロイドを通じて人間を見ているのが原作の特徴だと私は考えている。

 自己を持つ人間は孤独に苛まれ、自己(個人)を持たないアンドロイドたちは協調して逃亡し、反乱を起こす。真逆の要素によるこの対比が、人間という存在をより浮き立たせている。真に孤独の中を歩めるのは、人間の特権なのだろうか。だがアンドロイドにも知性が与えられている。だからこうした気付きへと到達してしまう。「わたしたちは、このびんのキャップのように型押しされた製品なのね。わたしが――わたしという個人が――存在すると思っていたのは、ただの幻想。わたしはあるタイプの見本にすぎないんだわ」(原作 P.246)

 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』はブレードランナーの原作とされており、実際に画面上でも「story based on」の表記で記載されている。だが実態としては改変が著しくほぼ別作品であるともいえるため、原作というよりも〝原案〟に近い位置付けではないか。

「ゾーラのドレスにウロコをつけ、ヘビのウロコがドレスに付いたように演出した。これは“アンドロイドは電気羊の夢を見るか?”の設定だ。フィリップ・ディックの作品には奇妙な詳述がある。人間が人工の動物を所有する世界を描いている。生物学と機械工学で開発された動物だ。動物の値段が問題となる世界だ。ヘビは安いが羊は高い。フィリップ・ディックの本には奇妙な文化が存在する。原作の内容を忠実に再現したのはこの部分だけだ。理解に苦しんだ。論理的ではなかった。私にとって論理的かは重要なことだ。真実は論理的であると信じているんだ。
 人間がレプリカントを作るという考え方は理解できる。例えば召し使いとして仕事や軍事のための労働力として使う。さらに人間が働くのを拒む過酷な環境で働く強制労働者だ。全体主義的社会の風潮を感じさせるが電気羊を持つ意味より理解しやすかった。
 脚本家のピープルズの娘が遺伝子の複製を研究していて“複製”の意味を持つ言葉“レプリカント”を提案したんだ。結局アンドロイドの代わりにレプリカントを使うことにした。最初は違和感があったが最終的にはとても気に入った。的を射た言葉だと思ったよ。
 製作からおよそ18年後。遺伝子の複製について間もなくすると動物や家畜のクローン化が許可されるかもしれない。人間の複製も可能だろう。議会で審議されるとは思わなかったがね。きっと未来の都市は異常にうるさいと思うよ」

 ブレードランナーは、レプリカントたちが主役の映画であるともいえる。デッカードは狂言回しとしてレプリカント抹殺を進めていくが、視聴者が感情移入しやすいのは、むしろこの人造人間たちの方ではないか。

「ロイ・バッティは全能の戦士のように描かれている。彼は完全なる殺人マシンだ。当初ハンプトンはロイを怪物のように書いていた。正直なところよく覚えてないんだけどね。でもルトガーの第一印象は“やさしい男”だった。ロイも同じだ。こんなに粗暴なのに彼に同情してしまう。タイレル社はロイや彼の仲間に対してひどい仕打ちをしてきた。ブレードランナーは自分の身を守りつつ彼らを追い詰めていく。どちらにも同情はできない。
 もちろん、この映画のヒーローはハリソンだが徐々にロイと同じレベルに落ちてくる。生き残ろうと必死なんだ。一方 ロイは徐々にヒーローに近づいていく。もうすぐ死ぬと知りながら戦うことをやめない。彼の“戦場での勇気”は称賛に値するよ。
 新作の“アメリカン・ギャングスター”には同情しがたい2人の男が出てくる。1人はヤクの売人。もう1人はまじめな警官だが私生活がよろしくない。でも映画が終わるころには好きになっている。不思議と引き付けられるんだ。この作品にも同じことが言えるよ。彼らの生き残りを懸けた戦いが見る人の心をつかむんだ。互いに引けを取らない互角の戦いだ。映画を見ている方もどちらを応援するか。迷うところだろうね。両方勝たせたいと思うんじゃないかな。思わず死を目前にしたレプリカントに同情してしまうけどね。全員に共感できる」

 音声解説で、スコットはルトガー/ロイについて繰り返し言及している。ブレードランナーはデッカード VS. ロイという追う者と追われる者の物語であると同時に、ロイたち見捨てられた者どもの反逆の物語、歴史の闇に葬り去られる物語である。

「ルトガーが演じるロイはとりわけチャーミングで傷つきやすい。彼はモンスターなんかじゃない。怒れるレプリカントだ。人生のすべてを操られ、与えられた4年の寿命は間もなく終わろうとしている。彼は怒り、おびえながら、戦う勇気を失っていない」

「デッカードは見てのとおりひねくれた性格だ。すでに人間性を失いかけている。任務を遂行するうちに組織の一部となり、オーウェル的な社会の悪夢に飲み込まれていく。レプリカントと向き合い交流することによって自分が何者なのかを再発見するんだ」

「クギを刺したのは正解だ。体に刺激を与え アドレナリンを分泌させることで、少しだけ長く生きることができる。数分間の試合延長だ。
 皮肉にもデッカードは死にゆく男から命の重さを教わることになる。ロイ・バッティはもうすぐ期限切れを迎える。体内のエンジンは止まりかけてるんだ。立ち去ることもできたが戻ってきて彼に語りかける。“恐怖の連続だろう”。この映画のテーマを一言で言い表している。どんな立場の人間にもどんな人間関係にも分かりにくいかもしれないが重要な事実がある。デッカードは命乞いを拒んだ。ロイにツバを吐いたのはこう言いたかったからだ。“助けを求めるくらいなら死ぬ”。だからロイはデッカードを助けた。
 ここは重要なシーンだよ。ここで彼の手をつかむ。見逃そうと決めたんだ。短いシーンだから分かりにくいが、勇気に対する称賛の表れかもしれない。だから彼を助けたんだ。続編を作りたいところだ。
 私はここのセリフが大好きなんだ。“おれは お前ら人間には 信じられぬものを見てきた”。まるで美しい詩のようだ。現代詩にありそうだね。明るく色鮮やかで生き生きとした描写がいい。撮影したのは夏で午前4時か5時ごろだった。日が昇るのが見えると思うよ。これが最後に撮ったシーンだ。撮影最終日の食後、午前2時ごろにルトガーから電話があった。“僕のトレーラーに来てくれ”と言うんだ。“最後のシーンにセリフを加えたいから聞いてほしい”とね。実に感動的なセリフだったよ。とても気に入ったので脚本に書き加えることにした。5〜6年前、イギリスの新聞に“映画の名場面”という記事があった。自分の映画はないかと見ていたらさっきのシーンの写真が出てきた。記事にはこうあった。“キーツかシェリーの詩かと思ったが実は映画のために書かれたものだった”。彼はこのシーンが大のお気に入りだそうだ」

緑の森の記憶

 人工知能にも膨大な量の経験を学習させることで意志や感情を持つだろうとスコットは言う。経験も学習も基盤となるのは記憶の力である。記憶能力は人間以外の動物も持つが、本能を補強し、環境に適応して生存率を高めるための機能だと私は考えている。一方で記憶の能力を最大限に発揮しているのは人間だ。

「記憶を思い出すとき脳は不思議な働きをする。香りから何かを想像することもある。良い映画ほど独自性を主張していると思う。人間は相手を理解しようとするものなんだ」

 記憶は事実との理解に基づく。しかし時間の経過と共に元あった現実の姿と乖離しがちである。記憶は、事実に基づきつつも、しだいに嘘とフィクションで再構成されていく。都合よく解釈されていき、真実を特定の断面でのみ見るようになってしまう。記憶を引っ張り出すのは、視覚で受け取ったものだけとは限らない。音、匂い、味、感触、それらの複合によっても記憶は引き出される。記憶の中の過去の場面は、記憶者によって編集と再構築がなされた神秘的な閃きである。時間は圧縮され、巻き戻しもコマ送りも自在な伸縮可能な時間として取り出せる。ただし主観的にだが。

「この事実が特殊な職業を持ち奇妙な環境で生きる人物、デッカードの謎を解明することになる。奇妙な記憶だから夢を見てしまうのだろうか。ユニコーンの夢を見ていたとき、流れていた曲はヴァンゲリスの“メモリー・オブ・グリーン”だ。今日ではあまり見られない美しい森を象徴していてエンディングにも使われた。デッカードのレプリカント説を象徴するという人もいるようだ」

 他人に話しておらず、漏らしてもいない心に秘めている記憶や考えを他者が勘づいていることは恐怖である。映画の結末、ユニコーンの折り紙によってこの映画の鑑賞者は複雑な考察を強いられることになった。偶然の一致か、それとも夢の内容を他者に知られているのか。この映画では明確な答えは描かれない。シンセサイザー音楽は機械を通じて人の心のヒダに触れてくるように私は思う。音は空気中の振動および波という物理現象に過ぎないが、シンセサイザーの内部で合成されている電気的処理は言葉(音波)として発せられる前の思考や記憶を象徴しているようにも思う。

 スコットはユニコーンの場面に関して音声解説で次のように回想している。

「ユニコーンのエピソードについて話そう。コクトー監督の“美女と野獣”に影響を受けている。闇の世界を描こうとしたができなかった。野獣が美女に取りつき英雄が森から現れるという構想を描いた。英雄のイメージは姿が美しく足の速いユニコーンを選んだ。
 ウィリアム・ヒョーツバーグ(William Hjortsberg )が訪ねてきた。彼はモンタナに住む“カウボーイ詩人”だ。彼の本を2冊読んだがよかった。彼が到着してから本の内容を質問したんだ。“シンバイオグラフィー”という題名だった。
 しかし答えを聞く前に“美女と野獣”を見てもらった。コクトー監督の作品だ。そのあと英雄のイメージを彼に話した。とても貴重で美しく足が速い生きもので美徳を象徴する“ユニコーン”だと。それを聞いて彼は驚いた。彼はモンタナから8時間かけて私の家に来た。空港に行く途中の出来事を話し始めた。
 ヒッチハイクをしていた男性と出会ったそうだ。怪しい人物ではなかったので車に乗せたんだ。3時間のドライブの間 彼はとても静かだったそうだ。だが最後にタバコの箱の紙をいじり始めた。そして車を降りるときに“お礼だ”と言い折り紙を渡したそうだ。それがユニコーンだったんだ。同じユニコーンの話なんて奇妙に思えた。
 というわけでユニコーンの構想を取り入れガフによってその様子を再現した。ジグソーパズルにように内容が複雑化していく。次第にメロドラマ化していきレプリカント説に発展した。当時、その答えは観客の解釈に任せたんだ。選択肢は2つだ。常に心の中では、もし続編があれば彼をレプリカントにしようと思った。もちろん続編はない。しかし逃走したレーチェルは死んでしまうのか?
 答えは明白だ。デッカードはネクサス6号か7号か? ロイが死んでしまったので新しいライバルが必要だろう。続編のためにそんなことをあれこれ質問された。とても疲れたよ。そして決めたんだ。“それでいいよ”と言って逃げようとした。とは言ってもこれはファンタジー作品なんだ。都市を題材にした初めてのファンタジー作品だよ。
 私は明白な答えを出そうとしなかったんだ。曖昧な態度を取ったんだ。怒りながら同時に理解を示した。ハリソンも言ったように映画製作は大変だ。間違いなく困難な仕事なんだ。とても詳細で緻密な映像を楽しむことができる点だ。だがひとつ言えることは“確実”はないということだ。必ずすべては変わっていく。自分の意見を押しつけることはできない。私は作品を見ながら今なら多くのことを変えるだろうと思うからね。まずは予算は1億6千万ドルだ(笑い声)。
 この作品の製作費は当時としてはかなりの金額だ。しかし製作費が4千万ドルを超えた作品と比べればこの作品の製作費は中規模ぐらいと言えるだろう。スポンサーにとってはお買い得だった。今ならもっと費用がかかるだろう。最近の事情は知らないが(笑い声)」

「ガフは何度かメッセージを残している。ニワトリ、人間の男、そして今度はユニコーン。
 彼のメッセージは、“おれはここに来た”。
 “彼女を殺さなかった”。
 “お前が何を考えているのか知っている”。
 デッカードはユニコーンの夢を見ることを他人に話したことはない。誰も知らない秘密だ。役人のガフがそれを知っているということはデッカードがレプリである可能性を示している。もしブレードランナー本人がレプリカントなら心のどこかで疑いを抱いているはずだ。“自分はレプリカントではないか”とね。
 この仕事をすれば誰でも自分を疑うはずさ。それが私の考えだ。
 最後の確信した表情から分かるように彼も自分がレプリかどうか気になっていたんだ。そしてガフのメッセージを見つける。なぜ知っているのか? 答えは⋯⋯私は知っている」

 実際、すでに『ブレードランナー2049』にていくつかの謎には回答がなされている。だが本稿ではその答え合わせは控える。また、ブルーレイに収録されている音声解説では、撮影当時の回想や撮影技術、セットや大道具に関する説明なども含まれているが、本記事では含めなかった。

 〈おわり〉


参考資料

ブレードランナー ファイナル・カット [Blu-ray]
(2017年9月発売、ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント)