2019.9.12
© いらすとや
私はかつて、プロ演奏家のご自宅に定期的にお伺いしてレッスンを受けたことがある。なので自分としては「師事した経歴(師事歴)」があると考えている。かつ、定期的な訪問をしていない今でも時折、先生にお会いすると先生もこちらのことを覚えていらっしゃって、他人に「僕の生徒」として紹介していただくこともある。こうしたことから先生と私の間には「師弟関係がある(あった)」と言ってよいだろう。一方で「合宿」などのイベントでお会いした著名演奏家のレッスンも私にとっては大切な人生経験の1つである。こちらのパターンについては、私は師事したとは言わず「指導を受けた」と表現している。
アーティストの経歴には「師事する」「指導を受ける」など複数のパターンの表現が見られる。そこで、それらの線引きがどのような条件のもとでなされるのか、自分なりに考え、整理してみた。以下がその結果である。
人物A(先生)と人物B(生徒)がいる。
AはBを生徒として認識している ∧(かつ) BはAを先生と認識している ⇒(ならば) 師弟関係がある
師弟関係がある ⇒ 師事している
これは上記の「A先生はB君を門下生だと認識している」「B君はA先生を師匠だと認識している」ということである。大前提として、この認識関係がなければ「師弟関係がある」とは言えない。
現代社会において人間が日常生活を送るにはお金のやりとりが必ず発生する。ボランティアによる指導は短期的・単発的な関係性ならばともかく、ボランティアする側に長期的拘束が発生して経済的機会ロスが生じる場合は、善意によるものであろうと好意によるものであろうと、非対称性ゆえにサービスとして不適切だと考える。つまり、レッスン料(謝礼)の介在しない師弟関係、経済的結びつきのないは歪(いびつ)な関係は矛盾であり、経済活動としての「仕事」とは区別すべきと考える。ただし名を売るための無料仕事については、利害関係の一致とみて「換金可能な価値」を認めるため、これも1つの経済活動であると考える。
「技藝継承関係」と書き換えてもよい。師匠から弟子へ、技藝(Performing skills)を継承していく関係性が師弟関係にはある。教える側・教えられる側の関係性において、教える側の「教える内容」が教えられる側に「教わった内容」として身に付いていない場合、継承は断絶され、技藝は途絶えてしまう。ただし技藝はDNAと異なり、コピー(複製)の関係ではない。継承行為を通じて教えられる側に「再構築」されていくものだと考える。ゆえに師匠から弟子へ「形を変えながら受け継がれていく」ことが継承の本質であろう。日本でよく語られる守破離の概念は、継承行為が「複製」ではなく「再構成」であることの証拠ではないだろうか。この技藝継承が行われ、次世代へ、そのまた次世代へと技藝が受け継がれていくことも師弟関係において重要なことと考える。
〈おわり〉