映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』私的レビュー
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さよならの朝に
約束の花をかざろう

私的レビュー

掲載:2018年5月4日
加筆:5月5日


注意:本レビューは、物語の核心に関わるネタバレを含みます。「映画を観た後に読む」ほうが楽しめる内容となっています。


注意:この記事は岡田麿里氏の監督・脚本作品『さよならの朝に約束の花をかざろう』を見た筆者が劇場を出た後に一気に書いた内容です。監督のインタビュー記事や他の方のレビューなどはこれから目を通す予定のため、本記事には筆者の独自解釈や誤認・誤解が含まれている可能性があります。


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© PROJECT MAQUIA

1|筆者は岡田麿里氏の
  脚本が苦手

筆者はこれまでに岡田麿里氏が構成や脚本を担当した作品を4作鑑賞している。それらは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年・『あの花』)、『花咲くいろは』(2011年・『いろは』)、『心が叫びたがってるんだ。』(2015年・『ここさけ』)、それから本稿を書いている時点では第3話まで放送されている『ひそねとまそたん』(2018年・『ひそね』)である。(本稿では作品ごとに岡田氏の仕事内容に異なる点があっても一括して「岡田脚本」として記載する)

  ◯

まずはじめに、筆者は岡田麿里氏の脚本や構成、ストーリー展開が実は苦手である。決定的に苦手な要素が一つあるというのではなく、次に挙げる複数の要素の複合的な絡み合いが〝苦手感〟を作っている。その要素は大きくわけてふたつある。第一は育児放棄や放任、子とのコミュニケーションの歪みなどが原因のいびつな親子関係、ヒステリックな挙動や言動をするアダルトチルドレン的だったり自己中心的な行為に悪びれたりしない親、妙な諦観をアピールしてくる子供、親子における互いの存在否定と共依存的状況など、とにかく親子関係の描写に関する要素。第二は現代社会が舞台の作品における性に関する描写。特に物語の展開で重要な影響力を持つのがラブホテルで、その登場頻度が多いこと。この2点が岡田脚本が苦手という私の意識を形作っている。だが〝苦手だから見ない〟かと問われればそうではない。視聴者を刺激する毒性の強い脚本なのである。

第二の要素について、具体例を挙げる。

『あの花』では登場人物の女子高校生あなるが知り合った男たちにラブホに押し込まれそうになる第5話の印象が強い。この事件はレイプ寸前の状態である。未遂状態とはいえ登場人物の心に傷を残すのではと思えるような強烈な場面であった。

© ANOHANA PROJECT

『ここさけ』では主人公が「山の上のお城」と認識していた建物はラブホであり、主人公の父が見知らぬ女性とラブホから出てくる場面を目撃し、そのことを母に伝えたことがきっかけとなって離婚に発展。父からは主人公のおしゃべりが原因と突き放され、母はすっかり人が変わってしまい家庭崩壊と主人公の緘黙症の引き金になっている。物語終盤で廃墟化した「山の上のお城」が登場して主人公のトラウマ解決と心の救済、過去の清算のための舞台装置として機能する。

© KOKOSAKE PROJECT

『いろは』では第21話が忘れられない。主人公が住み込みで働いている旅館に勤務する板前の男性と、その板前に片思いしている女子高校生(主人公の同僚でもある)が車で移動中のシーンにラブホが登場する。板前は同乗者の想いを知るよしもなく、思わせぶりなことを言ったあとに「寄っていくか」と発言する。道路の左手にはラブホがあり、女子高校生はドキリとするが、車が向かったのは道路右手の浜辺であった。全体的に色気の少ない『いろは』において、恋愛と性が強調されたと筆者が感じた数少ない場面であった。

© 花いろ旅館組合

第一の要素についても、岡田脚本では自己中心的な親たちが登場し、物語を進めたり、ひっかきまわしたり、トリックスター的な役割を果たす。筆者の実の両親も勝手気儘な人物であるが、だからといって理想的親子像のような幻想を抱いているのではない。もちろんそうした理想像をアニメ作品に求めてもいない。筆者は岡田脚本に登場する〝大人気ないオトナたち〟が気になるのである。これらの幼稚な大人たちは、もちろん現実にも多く存在する。どんな人の人格にも多かれ少なかれ存在する要素であり、完全には無くならない。筆者は聖者のような成人を求めているのはなく、いくらフィクションとはいえ、劇中の彼らの行動原理や発言の幼さが無視しきれない要素であり、「果たしてそこまで未熟な大人たちばかり描かれていていいのか?」と、脚本に疑問をいだくのである。

放送が進行中(5月4日現在)の『ひそね』においても、舞台が現代日本であり、そして人格に難ありの女性が主要人物に連なっていることから、今後もそうした性を扱う展開が起こりうると筆者はヒヤヒヤしながら毎週の放送を楽しみにしているのである。とはいえ『ひそね』では樋口真嗣総監督と小林寛監督が作品のキーパーソンであるから『ここさけ』のような展開にはならないだろうと予想している(多少は顔を出すかもしれないが)。果たしてどうなるか見ものだ。

© BONES・樋口真嗣・岡田麿里/
「ひそねとまそたん」飛実団

  ◯

以上の点が、筆者が岡田脚本に〝苦手意識〟を持っている理由である。そして今回、映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』は、この岡田氏の監督デビュー作である。そんな苦手な作家の監督作をなぜ見に行こうと思ったのか。答えは簡単である。「脚本の〝傾向〟が苦手でも、それだけの理由では岡田脚本の作品を無視するに十分ではない。見たいと思う魅力を感じる」のが、岡田氏が関与する作品にはある。それはキャラクターであったり、演出であったり、監督や作曲が誰なのかなど他の要素によるものである。そうした筆者の関心を引く要素がなければ、筆者は無関心な作品の前を素通りするだけである。

2|『さよ朝』を見る

『さよならの朝に約束の花をかざろう』(以下『さよ朝』)はアニメスタジオP.A.WORKS社が手がける作品である。同社スタッフによる過去の作品は傑作揃いであり、『さよ朝』も同様に必見作品だと筆者は考えていた。加えてキャラクターの原案の吉田明彦氏は、『伝説のオウガバトル』『タクティクスオウガ』『ファイナルファンタジータクティクス 』『ブレイブリーデフォルト』などのキャラクターのビジュアルでおなじみだ。筆者も吉田氏の絵柄のファンであり、吉田氏のキャラクターがスクリーンで動くとなれば見ないわけにはいかない。音楽も『機動警察パトレイバー』『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の川井憲次氏である。川井氏が音楽をつけるとなれば、耳にしたいと思うのは筆者にとって自然な流れであった。制作スタジオ、キャラクター、音楽の3点で、筆者にとって『さよ朝』は、なんとしても映画館で見ておきたい作品となったわけである。

© PROJECT MAQUIA

さて、『さよ朝』である。本作は西ヨーロッパ風の世界観が舞台のファンタジーである。ゆえにラブホテルそのものは登場しない。それ相当のものも筆者が見た限りでは描かれていない。本作ではヒステリックな毒親は登場せず、〝肝っ玉かあちゃん〟〝指導者的な偉大な母〟が登場する。あれあれ? 岡田脚本に何が起きたのだろうか。いびつな親子関係についても影を潜めている。主人公(マキア)が孤児(エリアル)を拾い、育てることによる養母養子関係はいびつな関係ではない。主人公の慈愛に満ちた性格ゆえ、けなげな育児物語が続く。

陰の主人公にあたる登場人物(レイリア)が婚姻を強要され、妊娠させられ、出産後に子供と離れ離れにされているくだりは悲劇性に満ちているが、過去作のようないびつな家族とは一線を画している。あたかも父母の離縁状態の影響により、面会が叶わない状態になっている母娘のようである。この母娘は物語の結末で「きれいさっぱり忘れて」といって決別するが、禍根の残る別れかたではない。第3の親子である主人公の養子が幼馴染と再会して結婚し、いつの間にか子供まで授かっている展開では、待ち望んだ子供として登場する。つまり『さよ朝』には、私が苦手とした岡田脚本の特徴が、どれもこれも、綺麗さっぱり登場しないのである。過去作は何だったのか。これが岡田氏の描きたかった親子関係なのか。つい訝しんでしまう。

3|『さよ朝』の家族たち

本作では「年齢が変わっても外見が変化しない」という生物的特徴を持つ人物が見つめる、「正常に年齢が変化(老化)していく人物・生物たちの生と死」が描かれる。その生と死とは、そのまま本作のテーマと思われる「邂逅と別離」である。このことは、主人公たちの一族が「別れの民」と呼ばれていることにそのまま反映されており、物語序盤で繰り返し説明される。観客は、この話が主人公の「出会いと別れの物語なのだな」と映画冒頭から刷り込まれるだろう。

その「外見年齢がハイティーンのまま変化しなくなる(本作内では〝長寿〟ということになっている)」設定を利用して、次の物語が本作では詰め込まれている。


主人公に関する展開は次の通り。
・無知なハイティーンが乳児の孤児を見つけてしまい育児に翻弄される物語
・子の健やかな成長を見守る育児物語
・良き理解者女性の支援を得つつも母子家庭として過ごす物語
・母子家庭の母が生活のために働きに出るお仕事物語
・いたずら好きな息子との日常を通じて母として成長していく物語
・思春期の青年と過ごす家族の成長物語
・成長した息子が出奔してしまった一家離散の物語
・成長した息子の妻の出産を手伝う産婆体験物語
・孫やひ孫も得ていることが示される家族の物語
・先立つ息子の死に立ち会い、看取る家族の物語
・他界した息子の死を悼む母の心情の物語
・さらに長生きし、もっともっと先の人生まで生きる物語


陰の主人公に関する展開は次の通り。
・拉致され、婚姻を強要され、出産を求められる政略結婚にまつわる悲劇
・子と離され、精神錯乱におちいる悲劇
・子が期待された存在でなかったことによる、役立たず扱いを受ける悲劇
・一族は皆殺しにされたと聞かされ、そう思い込まされる悲劇
・救出のために強襲してきた元カレが病んでいて意思が通じない悲劇
・目の前で元カレが射殺される悲劇
・娘の目の前で、乳母の発言が仲介となって母娘が突然再会する物語
・娘と再会するが、別々の人生を歩むことを決意する悲劇
・娘の目の前で投身自殺未遂する悲劇
・娘と別れ、それまでのことをなかったことにする悲劇

以上のように本作も過去の岡田脚本を踏襲して「親子関係」が非常に重要な意味を持っている。特に育児物語と家族物語が短時間の間に進んでいきながら、同時進行で家庭崩壊や一家離散のエピソードを積み重ねていく。

主人公は、恋に恋するような青春時代にあったが、恋愛を経ずして突然に母の役割を演じることになってしまい、戸惑いながら母になろう、子の前ではよき母であろうと努めている。一方で、陰の主人公は元カレとの恋はあったが、拉致されたのちに強要されて子を生むことになる。だがそこには愛情の誕生と心情の変化がある。しかし陰の主人公は、子とも、夫とも〝家族になれなかった〟ことが強調されていると筆者は感じた。

© PROJECT MAQUIA

『さよ朝』は「母子家庭の苦労」と「バラバラな家族の像」のふたつの話が、大河ドラマ並みの壮大なスケールの展開を背景に描かれる。政治の腐敗と国家の崩壊。強欲と戦争が人間関係の最小単位である母子を渦に巻き込みながら話が進む。

作劇の点では、時間軸の跳躍が多い。容姿が変化しない主人公に対し、成長していく養子(息子)との対比で、どの程度の時間が経過したのかが観客に伝わる仕組みになっている。本作の主人公は「外見が変化しない」という存在だが、たとえば主人公がアンドロイドだとしたらどうだろう。老いていく人間との対比が同様に可能だ。本作はハイファンタジーを背景として採用したが、『さよ朝』はSFでも成立する。

物語はエピローグにおいては〝思い出アルバム〟として幕を閉じ、スタッフロール後は〝観客にちょっとだけこの後のことを見せますね〟というエンドカード的な止め絵で、物語のその後が示される。観客はその絵の通りにその後の展開を受け止めればよろしい。

結局、『さよ朝』とは何だったのか。キャリア豊富なストーリーテラーが初めて取ったメガホンで行なったことは、過去の棚卸しだったのかもしれない。岡田氏が色々描いてきた「家族像」「男女像」について、(これまで描かなかったパターンも含めた)総決算だと考えておくのがよいのだろうか。筆者は本稿の冒頭で岡田脚本には〝毒性が強い〟と書いた。それは『さよ朝』においては、毒性の刺激はそのままに、強い薬性へと変化しているように感じるのである。世の中には「毒にも薬にもならない」ものが多数ある。だが岡田脚本は『さよ朝』において、その毒性が浄化的に作用し、強い薬性へと転化したのではないかと筆者は推測している。

あるいは「意味」など考えずに、娯楽としてそのまま楽しめばよろしいという意見もあるだろう。それはその通りである。供された料理をそのまま食べ、おいしければ「おいしい」と言って帰ればよいのだ。しかし料理人の技術とセンスの結晶を単に喉に流し込んで排泄して、ハイ終わりではさみしいだろう。才気ある作家が考えに考え抜いたであろう作品を見るのだから、その作品を受け取る側も、あーだこーだと考えることは価値ある行為だと筆者は思う。映画の作り手と観客との間で対話があるとすれば、それは作品を間に挟んでしか起こり得ない。本稿は、筆者が過去に見た岡田脚本作品と『さよ朝』、筆者の間における三角関係の対話と読んでいただければ幸いである。

© PROJECT MAQUIA

  ◯

本レビューでは筆者の岡田麿里氏の脚本への印象を正直に述べてテーマを炙りだしてから、同氏の初監督作品について、そのテーマに沿う内容に絞って述べた。そのため、本作について感じた他の印象の話は極力控え、論旨が脱線しないように注意を払った。が、それでも脇道に逸れている箇所があれば、筆者の筆力不足をご容赦いただきたい。1点特筆しておくと、マキアを演じた石見舞菜香さんのエンディングでの号泣シーンには、思わず筆者ももらい泣きを禁じ得なかった。

最後に、ところでこれは全く個人的な意見なのだが、本作の題名は『さよならの朝に約束の花をかざろう』ではなく、『さよならの朝に』だけでよかったのではないか。

最後にもう1つ。織った布の色糸の配列が文字の代わりとなっているのは素敵なアイデア。機織り機の機械化は産業革命の口火を切るものなので、自動織機がこの後の時代に登場するのだろうか。エンディングで主人公が着ている服装も19世紀的なものに代わっているが印象的だった。

これで本当に最後に。岡田麿里氏のみならず、細田守監督といい新海誠監督といい、アニメーション作品は「家族」と「ハイティーン女性(女子高校生)」に固執しすぎていないだろうか? これについてはまたの機会に考察したい。


  ◯


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