コンサート感想|東京混声合唱団 第253回定期演奏会

2020.10.24

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公式サイトより)

 東京混声合唱団第253回定期演奏会を鑑賞した。今回の定期演奏会は過去の委嘱作品2作品と新曲の委嘱編曲作品のプログラム。ここ数年で参加した新参の支持会員の私としては、過去の委嘱作品をプログラムに取り上げていただけることはとても嬉しい。
(文中敬称略)

「歌えるマスク」公演

 本公演は東混が開発した「歌えるマスク」を着用しての歌唱である。マスク開発の様子はWebで公開されていたので知っていたが、「マスク越しでの歌唱」とは思えないほど、東混の繊細さと迫力をしっかり味わえた。強いて言えば、わずかながらサウンド全体がソフトになっているだろうか。それでも怒涛のフォルテや繊細なピアノの歌唱がマスクでミュートされているとは感じなかった。

 どちらかというと、その見た目上のインパクトの方が強い。マスク姿の団員が舞台上で並ぶ様子は、まるで一種の宗教秘密結社のミステリアスな儀式に立ち会っているようでもある。音楽を通じて伝統的なイニシエーションを授けられるかのような錯覚も覚えた。舞台への入場時はマスク非着用で並び、整列してからマスク着用する流れは、アーティストとして「礼」を損なわず、演奏体制に入る際にマスクを取り出して着用する流れも好感が持てた。あたかもヴァイオリニストが一礼の後に体の向きを変え、楽器を構えるときのような自然な流れであった。

 プログラムの前半は、林光『黒い歌』混声合唱のために[1964年度東混委嘱作品]、西村朗『炎の孤悲歌(かぎろいのこいうた)〜柿本人麻呂の歌に依る〜』[1990年度東混委嘱作品]の2作品。休憩20分を挟んでガブリエル・フォーレ『レクイエム』(委嘱新編曲 信長貴富)ポジティブオルガン+弦楽五重奏版[2020年度東混委嘱作品]である。

 指揮者 三ツ橋敬子氏の前説によると『黒い歌』にはスキャットなどが使われ、意味のある言葉としては使われていないとのこと。また登壇した西村朗氏は『炎の孤悲歌』が初演された1990年の公演でのリハーサルの際、楽曲のあまりの難易度の高さから団員から「あまりにも難しすぎる。お前が歌ってみせろ」と迫られたという〝いわくつき〟の難曲とのこと。その後30年間、どの程度の回数この作品が再演されたのかを私は把握していないが、そうそう演奏できる作品でないことは一聴してわかる。私も自分のマスクの内側で「すごい……」と何度も声にならずに呟いた。初演時の歌手が本日は6名出演していたとのことだ。

 今回のプログラムには、特にマスクと関連した意義深いものがあると私は感じた。歌においては詞が重要であることはいうまでもないが、今回に関していえば、聴衆が言葉(歌詞)を精確に聞き取って「内容を理解」する必要性に重きが置かれない特徴を持つ楽曲で構成されたプログラムとなっていた。

林光『黒い歌』混声合唱のために

 もし遠くの銀河から来た異星人の訪問団と文化交流して芸術披露するならば、この『黒い歌』を紹介しても良いのではないか。なぜなら「人の声」にとことんフィーチャーした音楽だからである。前説でも三ツ橋氏は「声による交響曲として作曲されたらしい」と説明していた。「地球人の声の芸術」の代表の1つしてふさわしい作品ではないだろうか。特に1曲目前半と、3曲目の終末部に私は特に感銘を受けた。

 『黒い歌』について私は曲名から、深く暗く静かな、ダークで〝現代的な〟思索に満ち満ちた作品かと勝手に想像していたが、むしろそんな浅薄なわたしの予想を突き抜けた明るさと明瞭さを持つ立体構造的な作品であった。

 よく義務教育の音楽の授業で「長調は明るくて楽しく、短調は暗くて悲しい」と言われるが、果たして本当だろうか。そうしたケースもあるだろうが、単純な二元論で語りきれるものだろうか。私はそうは思わない。たとえば、黒い水晶のような透明感を持った美麗さの溢れる短調の音楽や、明色しか使われていないのに悲劇的な激情を厚く塗り込めたような長調の音楽は、きっと存在し得るだろうから。いずれその具体例を整理して改めて挙げられるようにしたいと思う。

 『黒い歌』は、思想を秘めながらも覆い隠(マスク)され、言わば「黙した」芸術作品のように感じた。明言されない思想があるが、それをどう聞き取るかは聴者の自由だ。

西村朗『炎の孤悲歌(かぎろいのこいうた)〜柿本人麻呂の歌に依る〜』

 人麻呂の万葉の歌に基づく西村作品も同様の性格を持っているように感じた。もちろん人麻呂の歌への解釈がある方が鑑賞者には望ましいのだろうけれども、言葉をクラスター化した表現手法においては、そこから鑑賞者が「直線的な理解手順で独自の理解を引き出すことは不可能」だ。そうした「言語的理解が前提とされていない作品であるからこそ、逆説的に、実は今回の歌えるマスクでの公演にふさわしいともいえる。

 万葉には、詠み人知らずとして、当時を生きた市井の人や名もなき人々の歌が数多く採録されている。個性的だが、素顔の見えない読み人たちの声と叫びが、人麻呂の歌を介して、そのまま舞台上で表現されたようにも思える。今回のマスク着用公演と類型あるいは象徴的なアナロジーを持っているのかもしれない。マスクゆえに歌手の歌う素顔が覆われ〝表情はあるが重要な個性が掻き消されている〟ようであった。あるいは「名前」がなくなり匿名化されているかのようともいえる。

フォーレ『レクイエム』(委嘱新編曲 信長貴富)ポジティブオルガン+弦楽五重奏版

 東混は全曲暗譜での演奏であった。しびれる演奏だった。原曲がそもそも強く抑制された音楽なので、その編成を「縮小」するという企画自体にまず驚かされる。私はてっきり、編曲過程において、原曲にはない「尖った要素」を意図的になんらか含ませるのではないかと予想していたが、そうした「創造のための破壊」はこの編曲で見られず、信長氏はフォーレに真摯に向き合い、いまは天上の人となったフォーレと対話し、編曲過程を1つひとつ彼へ伺いを立てながら編曲したような印象さえ受けた。

 初演後に、信長氏は紹介はされたが壇上へは登らなかった。新型コロナウイルスのこともあって動かないことになさったのかもしれないが、フォーレへの敬意を謙虚に示したかのようにも感じた。

 しかし、なぜ『レクイエム』が選ばれたのだろうか。しかも「怒りの日」を意図的に除外して劇的性な演出を控えめにしているフォーレの『レクイエム』が。私には、企画者が新型コロナウイルスを「神から人類への〝罰〟だとは捉えたくない」と意図したのではないかと考えた。新型コロナウイルスによって今も苦しみ、亡くなっている犠牲者は増えている。哀悼と鎮魂のための『レクイエム』。世界が「かつての時代に巻戻ることはない」ことは間違いないとしても、平和に、穏やかに、再び音楽を楽しめる時を取り戻したいという祈り、共感、そして悲しみを乗り越えていこうという決意として、フォーレの『レクイエム』を選んだのではないかと。(合掌)

〈おわり〉


第253回定期演奏会

公式サイト

日時:2020年10月24日(土)15:00開演(14:15開場)
会場:東京文化会館小ホール

出演

指揮者 三ツ橋敬子

ソプラノ 澤江衣里 / バリトン 宮本益光
オルガン 浅井美紀
ヴァイオリン 西江辰郎 / ヴィオラ 須田祥子 長石篤志 / チェロ 西谷牧人 / コントラバス 菅沼希望

委嘱作曲家 信長貴富(東京混声合唱団レジデント・アーティスト)

曲目

林光:『黒い歌』混声合唱のために
[1964年度東混委嘱作品]

西村朗:「炎の孤悲歌」(かぎろいのこいうた)〜柿本人麻呂の歌に依る〜
  [1990年度東混委嘱作品]

G.フォーレ(委嘱新編曲 信長貴富):レクイエム
ポジティブオルガン+弦楽五重奏版[2020年度東混委嘱作品]

チケット:(税込み・全席指定)一般:4500円、学生:1500円

令和2年度(第75回)文化庁芸術祭参加公演
主催:一般財団法人合唱音楽振興会
助成:文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)
協賛:サントリーホールディングス株式会社