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コンサート感想|東京混声合唱団 第258回定期演奏会

2022.3.8


公式サイトより)

タラマイカ偽書残闕 作曲:木下牧子 作詩:谷川俊太郎

 木下牧子氏による、東混の2021年度新作委嘱作品を聴いた。

 今回の新作は、声による交響楽だと感じた。混成合唱とピアノという編成にも関わらず、すでに合唱付き管弦楽作品さえも超え、声による、声のための交響楽であるという印象を持った。あるいは、日本語の、日本語のための交響楽と感じたと言ってもいい。加えて私の耳には、ピアノの伴奏のうちに、「ああ、これは〇〇(楽器)だ」と思える箇所が常に存在した。しかも私の印象では、一般的な2管の古典的な編成や3管のロマティックの編成ではなく、弦五部にオーボエとフルート、は定番だが、クラリネットとホルンとファゴットの代わりにサックス群を入れ、ピアノと多数の打楽器、トランペットとトロンボーンが適宜投入されるような変則的な編成を勝手ながら想像した。

 どのくらい前から木下氏の胸中に本作の構想がなされていて、どのくらいの時間をかけて温められたのかはわからないが、時期や時代を超越した普遍性のある(と、同時に今日の音楽であるという意識も強く感じる)音が強く今、響いてきた。

 この作品が、管弦楽を付随(伴奏というよりも、協奏的・共創的な意味)する大規模合唱付き管弦楽作品として再発表されることを望む。純粋に音楽的な音楽とでも言おうか、コンサートホールでとことん味わえる、こうした作品が発表され、私たち一般の聴衆の耳に届くこと嬉しく思う。

 と、ここまで書いてから私はWikipediaの木下氏の項目のページを見て、木下氏が管弦楽作品の偉大な書き手であることを知った。Wikipedia編集諸氏に感謝申し上げる。

 失礼ながら私は、これまで木下氏は合唱作品の大家だという先入観を持っていた。NHKのコンクール(NHK全国学校音楽コンクール)の課題曲など、メディアを通じてお名前を見ていたからだろうか。重ね重ね失礼ながら、作品を拝聴する機会がこれまでなかったので、事実上、(ひょっとしたら現代音楽の演奏会などで拝聴していたかもしれないが)初めて強く意識する機会となった。いずれ木下氏の大規模管弦楽作品を聴いてみたい。

 次に私は会場で配布されたパンフレットを開いた。作者の筆による解説で、「今回はピアノ伴奏作品ですが、作曲中脳内はオーケストラ伴奏が鳴っていたように思います」と書かれている。私は膝を打った。なるほど。

 歌詞についても、「言葉の多い散文詩は避けたい」「日本の文学詩には抒情詩が多く、先鋭的な作品だと熟語の多い読むための詩になることが多い」とし、「力強くシンプルな文体による、リフレイン・感嘆詞・オノマトペなども効果的に使用した叙事詩的テキスト、が存在してくれれば作曲は楽しかろう」として〝見出した〟のが谷川俊太郎の『タラマイカ偽書残闕』であった。残闕とは、一部が欠けていて不完全な状態を指す。または欠けた状態のそのものをいう。

 「〝これから私の語る言葉が、正確にどこから来たものか私は知らない〟と、その老船員は言った。」――タラマイカ偽書残闕は、このように始まる。私自身も、自分の思うこと、感じたこと、見聞きしたことが、どこから来たものなのかを十分には知っていない。

ミサ曲 ニ長調 Op.86  作曲 A.ドヴォルザーク

 本作は宗教音楽の体裁でありながら、コンサート形式の場で、信徒に向けてではなく、聴衆に向けて演奏される合唱のための組曲という位置付けなのではないか、と本作を初めて聴いて感じた。

 タラマイカ偽書残闕の方がよほど、シャーマニスティックかつ、どろっとした原始宗教的な手触りを感じる。一方でドヴォルザークのミサ曲のサラサラとした手応え。礼拝ではなく、コンサートなのだ、この場は、と我に返る。先ほど、たまたま『音楽史の中のミサ曲』(相良憲昭、音楽之友社、1993年)を手に取ったので、本曲の項目を見てみた。本作は公演を想定して書かれた作品であり、凡庸なところがある、といった書かれ方をしていた。

 いま世界の関心はロシアのウクライナ侵攻に向いている。戦争には反対だ。争うのではなく、健全かつ公正に競うようなものであってほしい。

一つのメルヘン 作曲 江村玲子 / 作詩 中原中也
海の不思議 作曲 平吉毅州 / 作詩 川崎 洋
(アンコール)春に 作曲 木下牧子 / 作詩 谷川俊太郎

 いずれも5分ほどの小品であるが、愛おしくなる、抱きしめて大切にかかえていたくなるような、そんな作品であった。単純な優しさだけではない朗らかさ。気分を抒情的に語っているだけではない普遍的な共感。気持ちの良さ、心地よさ、ぬくもり。そうした思いやりや慈しみに、しみじみとした良さを感じる優れた作品だった。

感想⋯⋯の後に

 私は東混の新曲委嘱支持会員になって5年ほどが経つ。毎年年度末の近づく2月頃になると、ふと思うことがある。支持会員を続けるのは、もう十分かな⋯⋯と。

 私が支持会員を申し込んだ動機は、毎回チケットを買うかどうかを迷ったり、チケットを買いに行ったりして時間を使うことも、どちらも面倒なので、自動的に招待券が提供される方がいいと考えているからである。さらにいえば、その日程のスケジュールに仕事が入るかどうかでヒヤヒヤするのも、せっかく買ったチケットが無駄になるのはいやだ、という貧乏根性からきているし、当日券となると、それはそれで残席状況を推し量って行動するのも気が散るので嫌である。ようは、チケットを前払いしておくちょうどいいサービスとして支持会員を申し込んでいるに過ぎない。

 つまり大企業が文化支援をしているのとは異なる、極めて個人的(私的)な動機での支援への参画にすぎない。支援をしているような感覚も特にはない。崇高な志があるのでもない。パトロネージュでもなく、いわばコンサートの定期購読だ。

 第一、私ごときの個人が〝支援(支持)〟をしているなどと思ったら、それは驕りだ。資産のある文化愛好家ならば〝喜捨〟に相当するかもしれない。だが私は音楽を聴いて楽しむ、いわば〝消費者〟に過ぎないから団体と私の関係は公平で対等だと思っている。サービス(演奏会)を提供する側、受ける側。両者の間を行き来する価値の等価交換。私はチケット代を払って演奏を聴かせていただく。音楽家は演奏を披露して収入を得る。お金が仲介している対等な関係だと思う。

 さて、価値が見合うと思うか、思わないかは、人それぞれであり、そのときの感じ方・思うところによって左右される。私も年度末になると、なんとなく価値(会費を支払う意義)が目減りしてきたように感じてしまい、会員継続を迷いだす。

 しかし結局は、毎回更新してしまっている。年度末になると、次年度の委嘱予定作家が公開されて「次の初演を聴くのが楽しみ」という気分が高まってくる。言い換えると、価値(会費を支払う意義)が急上昇し始める。そうした状況のところに、タイミングよく次年度への更新のお知らせが来る。するとなかば自動的に申し込みを更新(会員継続)をしてしまっている。

 「2万円の会費で〇〇氏と〇〇氏の新曲初演を聴ける! 生涯に一度あるかないかの絶好の機会を逃してなるものか」というわけだ。何かのファンをしている人ならば、そういう気持ちの昂りを感じることは必ずある。

 でもね、と正直に白状する。私は現代音楽や邦人作曲家について詳しいわけではない。知己があるわけでも、あれこれ聴いてきたわけでもない。専門の音楽家でもないし、合唱経験は乏しく、クラシック音楽一筋の愛好家でもない。言うなれば一般の聴衆の1人に過ぎず、自分が無知だとよく承知しているつもりだ。

 東混の演奏会会場に来ると、周囲の席の観客たちが全員、この道のツウであるかのように感じる。何かでお見かけした先生らしき人がお一人で、あるいはご夫婦で、いらっしゃる姿も多い。しかし本当はただの人違いで、風貌の似ているご近所にお住まいのご年配の方が、たまたま来ているだけかもしれない。

 ではそうした雰囲気に怖気付くとか、懼れるとかいったことはもうあまりない。前述の通り、チケット代をきちんと払っているから対等だと思っているし、対等であるからには卑屈になる必要も、尊大気味な気分を持つ必要もない。コンサート会場は社交界でもないのだ。夜郎自大に落ちることがないように自らを戒めてさえいればいい。

 このような自意識強め、社交性は低めの人間であるから、私は演奏会でありがちな「お見送り」が苦手だ。――ようやく鳴り止む拍手。三々五々に立ち上がる観客と、跳ね上がって閉じる椅子のクッションの音。足先まで痺れた余韻。文字通り痺れた拍手に疲れた掌。演奏を聴いた後の充足した気持ちを一人反芻して楽しみながら席を立ち、エスカレーターや階段を昇降し、ロビーを抜け、アンケートがある場合は手裏剣を投げる忍者のように紙を箱へと滑り込ませ、足早に立ち去る。外気がほてった頬や額に心地よい、いまはマスク必着の時期だが――そうした一人楽しむ時間を大切にしたいから、出演者がロビーに出てくるのは脇を素通りする。出演者によっては、リアルな感想が観客から直接お届けられたら嬉しかろう、とも知っている。だけれども、私はそうした興奮を発散させる社交は苦手だ。疑り深いので、興奮下にある状況時こそ、社交辞令かと気になってしまう。コロナ禍以降は見送りが中止されており、私としては問題ない。

 親しい友人の出演公演だとしても、わざわざ「来た。見た。聴いた」などとしたくないし、自分が出演者だとしても、されて嬉しいことはあまりない。どうしてもそうしたい相手ならばむしろ、すぐに片付けが終わるから、歩きながら一緒に話そうと伝えたくなる。ロビーはいやなのだ。あのムードが。あの情緒が。

 映画でスタッフロールが流れ終わって場内の照明がついた後のように、美術館の企画展の「お出口」の先のミュージアムショップをぐるっと一回りしてから抜けた後のように、充足感を自分という圧力鍋の中で満たしておきたい。できることなら、少しでも長く。

 跳ねた後の芝居のようなお見送りが苦手なのは、真剣勝負で聴いたから、あるいは自分が出演者のときに真剣に舞台に立ったから。受け取ったものや、出し切ったものがすべてであるとともに、自分がどう受け取ったのか、出し切った結果の自分の今の状態はどうかは、相手には無関係であろうと思うから。誠実であろうとすればするほど、自分と相手がそれぞれ持っているであろうその瞬間の気分のギャップにしっかりと向き合わなければいけないと思う。それは同時に、ひょっとしたら、お互いを興醒めさせるものかもしれない。興醒めしないためには、社交せず、ただ独り歩むことだ。サイの鼻先のツノのように、ただ独りで。そうしてさえいれば、受け取った直後の〝価値〟が減ずることもない。

text by ozakikazuyuki | * contact@ozakikazuyuki.com


第258回定期演奏会[指揮:大井剛史]

公式サイト

日時:2022年 3月5日(土) 15:00開演 (14:15開場)
会場:杉並公会堂 大ホール

出演

指揮:大井剛史
ピアノ:斎木ユリ SAIKI Yuri
オルガン:浅井美紀 ASAI Miki
合唱:東京混声合唱団

曲目

2021年度新作委嘱作品「タラマイカ偽書残闕」 作曲 木下牧子 / 作詩:谷川俊太郎
一つのメルヘン 作曲 江村玲子 / 作詩 中原中也
海の不思議 作曲 平吉毅州 / 作詩 川崎 洋
ミサ曲 ニ長調 Op.86 作曲 A.ドヴォルザーク

チケット:(税込み・全席指定)一般:4500円、学生:1500円
LIVE配信
WEBサービス『カーテンコール』にて公演のLIVE配信 1500円(税込)
CURTAIN CALL 東京混声合唱団ページ

主催:一般財団法人合唱音楽振興会
共催:杉並公会堂[株式会社京王設備サービス]
協賛:サントリーホールディングス株式会社
助成:文化庁芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)
後援:杉並区