交通遺児と旅館―― 出会いの交差点で。

映画『若おかみは小学生!』レビュー、私はこう見た

交通遺児とイマジナリーフレンド。
――残酷な現実を受け入れる生真面目すぎる器

掲載:2018年10月10日

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© 令丈ヒロ子・亜沙美・講談社/若おかみは小学生!製作委員会

注意:本レビューは、物語の核心に関わるネタバレを含みます。「映画を観た後に読む」ほうが楽しめる内容となっています。

注意:この記事は、映画『若おかみは小学生!』を鑑賞した筆者の本作への第一印象を主体に構成しています。本記事は筆者の独自解釈に基づいており、誤認・誤解が含まれている可能性があります。

交通遺児を〝縦軸〟
日本旅館を〝横軸〟とするヒューマンドラマ

映画『若おかみは小学生!』がとても良い映画らしいという話と小耳に挟んだので、予備知識ゼロ(TV版未視聴、原作本未読)だが興味本位で鑑賞してきた。鑑賞後の感想を一言で述べれば本作は傑作であるに尽きる。2018年は『リズと青い鳥』を輝く北極星とするならば、映画『若おかみは小学生!』は薄曇りの日の太陽のような映画だと感じた。

表層は女児お仕事アニメである。だが、本作の実態は交通遺児の心理と、旅館という多種多様な人が出入りする場が交差するヒューマンドラマだ。アニメーションは繊細でよく動く。コミカルな場面も多く、動と静が描き分けられて、メリハリのある芝居だと筆者は感じた。

しかし動と静だけでなく、微動というか、震えているシーンや心の機微など、キャラクターの演技が特に秀逸である。『千と千尋の神隠し』で、主人公の千尋が物陰に隠れてうずくまって震えている場面の表現(演技)や大粒の涙をこぼして泣き出す場面。あれらのアニメーションのシーンに匹敵する名場面が『若おかみ』にもたびたび見られる。


© 令丈ヒロ子・亜沙美・講談社/若おかみは小学生!製作委員会

自然になじんだ音楽と効果音

音楽は前半の薄いサウンドの打ち込み曲はなんとなくチープ味がしたものの、後半の生録ストリングスは秀逸である。劇中の登場人物が演奏するお箏、お神楽あたりもよく絵になじんでいて制作者のレベルの高さが伺えた。

雑多ながらも多様な役者陣

役者の演技もすばらしかった。物語後半のキーマンになる山寺宏一氏はどうしても『攻殻機動隊』のトグサ役の印象が私には強いので、そこだけどうしても本編と関係ない連想(妄想)が進んでしまった。劇場アニメ『君の膵臓をたべたい』でもそうだったが、俳優と声優のバランスについては少々気になったものの、中盤以降はほぼ気にならなくなった。主人公の父役の薬丸裕英氏の演技は『となりのトトロ』での糸井重里的で私としては好印象を受けた。


© 令丈ヒロ子・亜沙美・講談社/若おかみは小学生!製作委員会

居場所はない。期待に応えるしかない

さて、ここからが私の書きたい本題である。映画『わかおかみは小学生!』は映画として傑作と書いたが、その理由はこれから述べる。本作は、交通遺児と心的外傷(急性ストレス障害(ASD)や心的外傷後ストレス障害(PTSD))の関係を考えるきっかけになりうる、自然かつクオリティの高い作品である。本作は、単なる「不憫な子が健気に頑張る話」を超越した、現代的な問いを社会へ(すなわち「大人へ」)と、投げかけていると思う。

映画の開始数分で、両親は主人公を残して他界する。それも、おそらく遺体は壮絶な損傷をしている可能性が高いであろう悲惨な死とともに。だが映画は葬儀のシーンも、火葬や納骨や遺品整理、他の親族が世話をしたであろう場面も、東京で通う学校からの転出手続きなどの場面をすべてスキップする。主人公1人だけが生存したことを絵で説明したうえで、次は祖母が経営する旅館へ旅するシーンへと唐突に移る。

この「シーン跳ばし」は観客に対して両親の死をあいまいにすると同時に、主人公にとっても両親の死がまだ実感の薄い、曖昧模糊とした、夢の中のできごとだったのかもしれないような非現実性をもっていることの現れだと筆者は解釈した。両親の突然の事故死は、主人公には受け入れられておらず、また鑑賞者へ主人公の精神状態を説明する意図も含めて、二重にもぼかされている。

心のケアと「時間」

主人公は旅館内の場面では、たいてい仕事をして過ごす。旅館を継ぐことも、若おかみになることも、どちらも当初は本人の本意ではなかった。あくまで「頼まれて」、その道に踏み出すのである。

主人公の〝遊びたいお年頃〟の欲求は、クラスメートと過ごす時間の中で解消しているようだ。だが家である旅館に戻ってからは、若おかみという自分の〝役割〟に自分を押し込んで、わざと周囲の期待に応えようとして過ごしているように感じられる。まるで、両親の死の喪失を埋め合わせるように。

人の心には、トラウマや喪失感に苦しんでしまう面と、苦しみを忘れて意欲的に自身の生活を充実させることを願う面の両面がある。人の心の〝整理〟は、その互いに矛盾した心理の両方を、振り子やシーソーのように往復するなかでゆっくり進行していく。決して最初からバランスよく着地できるのではない。そこに必要なものは〝時間〟である。

本作は、時間経過が非常にわかりにくい。まだコートが必要な春先に事故が起こる。春のうちに主人公は転校し、夏休みを経て、肌寒い秋で終わる。この時間経過の不透明感は、主人公にとって「現実逃避」と「逃れえない現実」との間での混乱の表れではないかと筆者は感じた。

本来ならば、時間経過がわかりにくい脚本構成はあまり褒められたものではない。だが、本作においては、その曖昧ささえも主人公の心理を表す要素として扱われているのだとすれば、なんと巧妙な〝演出〟なのだろう。

ショック療法のようなクライマックス

彼女はあのまま、本当に若おかみとして、あの旅館の中だけで生きて成長してしまうのだろうか。成人する前後までにあの家(旅館)を出て、他のことをやってみるなり、海外を放浪するなりして外の世界を見たうえで、「それでも自分はあの旅館を継ぐんだ」と振り切れたときに、初めて「女将」として真に出発するのではないかと筆者は思う。

主人公の将来に幸あれ。筆者はそう願わずにはいられない。だが、本作ではクライマックスにて、「映画版のオリジナル要素」として、主人公の両親の死に直結する人物と出会う。運命的すぎるだろうか。フィクションだからと出来過ぎな話であろうか。とはいえ「小規模な温泉街」と、そこにつながる幹線道路での話であるから、そうした運命的な出会いが起きることも、さもありなんとでも言えるだろう。いずれにせよ、主人公にとって、ショッキング以外の何物でもない。

運命とは、かくも残酷なものかと落涙せずにはいられない脚本と構成である。


© 令丈ヒロ子・亜沙美・講談社/若おかみは小学生!製作委員会

イマジナリーフレンドとしての幽霊たち

幽霊との交流も、はたしてどこまでが「リアル」で、どこまでが「主人公の妄想」だったのか、その境界線もあいまいだ。幽霊たちが、彼女の「イマジナリーフレンド」(心理学、精神医学における現象、「空想の友人」)でないとも言えない。作品内では、主人公の意思とは無関係に、幽霊たちも自由意志を持っているように描写されているが、そこの解釈は鑑賞者に任せられているように思う。

両親の死から、スーツケースを持って旅館への移動する日まで、何日が経過していたのか、具体的な日数は描かれていない。葬儀が事故の何日後だったのかは憶測するしかない。父方の祖父母や親戚は映画には登場せず、旅館経営をする母方の祖母が引き取る展開となる。これは、繰り返しになるが主人公の居場所は、その旅館にしかなかったことの現れだろう。

空室となった家を出るとき、主人公は「行ってきます」と発言していたかと思う。これは「空想上の友人」や「若おかみという〝役割〟」が始まる前兆として、両親の死を整理できていないことの序奏部として機能している。

エンディングの神楽での舞の場面で、主人公は架空の故事を再現する。その中で、物語は主人公の表面的な癒しが一年かかって行われたことを暗示しているのだろうと筆者は感じた。

死者は、他界によって死ぬのではない。遺された者の心の中で〝整理〟されたときに、初めて真に逝去する。主人公の生真面目すぎる性格は〝器〟としてこの現実を受け入れた。だが誰もがこのような現実を受け入れられるとはいえない。それは山寺宏一氏が演じた役のセリフ「俺が辛いんだよ、お嬢ちゃん」に集約されていると筆者は思う。主人公が「良い子すぎる」のだろうか? そうかもしれない。だが「すべてを癒す温泉」の効能はファンタジーとしても、「時間」と「孤独」、そして「友情」のなかで、主人公は少しずつ「新しい自分」を見つけたのではないかと思う。それが初めは〝役割としての若おかみを演じた〟のだとしても。主人公はそこにアイデンティティを見つけ、自分の中の多様な面を持って生きることを発見したのではないだろうか。

本作では、そうしたエンディングに至る前段として、2つの旅行客を主人公に引き合わせる。妻/母を亡くした作家とその息子。そして、愛とともに自信を喪失した占い師である。主人公はイマジナリーフレンドとの内面上の関わりだけでなく、リアルの関わりも深めていく。

本作では死をきっかけとする別れが、どのような形で進行するのかを、女児向けお仕事アニメの中で巧みに表現されているように筆者は感じた。


© 令丈ヒロ子・亜沙美・講談社/若おかみは小学生!製作委員会

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もし「夏休み映画」であったなら⋯

本作は、メガネのレンズによる光の屈折、波や風や光の表現、樹木・建物といった背景美術のクオリティの高さの点での完成度もさることながら、なによりも構成と脚本を私は賞賛したい。

私は映画『若おかみは小学生!』をSNSで知ることができた。本作は、なぜ9月21日という半端な時期に公開したのだろう。7月21日公開だったら、より多くのフォロワーを得ていたのではないか。筆者は興行的な点で、本作の立ち位置を残念に思う。


© 令丈ヒロ子・亜沙美・講談社/若おかみは小学生!製作委員会

「神」としての「客」と癒しと温泉

古来からの日本的な「神」とは、移ろい、やってきて、まつられ、去って行く。そういう意味で神は「客」であるし、通り過ぎていくもの。「旅館モノ」作品の本質は、「予期せぬ神の来訪と、そこで生きる土着の人々のNarrative」である。

人はただ、神の来訪と去来にただひれ伏すしかない。だが神は過ぎ去って行く。恵みをもたらしもするし、破壊をもたらしもする。それが自然というものであり、運命であり、日本人にとっての「忘却と癒しについての時間観」なのではないか。


© 令丈ヒロ子・亜沙美・講談社/若おかみは小学生!製作委員会

〈おわり〉