《はじめに》

 この短編小説は、わたしが高校三年生の頃、退屈な授業の時間中に熱心に書いた小品です。内容はコンピューターゲーム『ウィザードリィ』の第一作目「狂王の試練場」の前日談がテーマとなっています。

 狂王トレボーの所持していた魔法の力を持つ「護符」を、悪の魔術師ワードナが盗み出した。怒り狂ったトレボーは、魔物が徘徊する地下迷宮に立て籠もっているワードナを討伐し、護符を取り戻すべく軍勢を派遣する。しかし「護符奪回作戦」はことごとく失敗。業を煮やしたトレボーは「冒険者」と呼ばれる腕自慢の強者たちへ迷宮の探索を解放する……。

 この「迷宮探索」がゲームで実際にプレイヤーの遊ぶ部分ですが、この小品では、その前の時間にあたる「国王軍の突入(とその敗走)」をテーマにしています。主人公は五人の部下を持つ分隊長。地下迷宮の奥深くで作戦の失敗を意識するに至り、そして地上へ帰還するべく、惨めに撤退していく様子を描きました。(2015・10・15)

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ある分隊長の手記――

ウィザードリィ♯ 1より


敵を抹殺しようとするのか。本気か。

本当に相手を滅ぼしてしまっていいのか。

敵は抹殺されるかもしれない。しかし、そのことによって、敵がおまえの中で永遠のものになってしまわないかどうかよく考えてみたのか。

ニーチェ『曙光』


 

 

 この世に果たして闇が質量を持つ場所など存在するだろうか。あるとすればそこは、ワードナの地下迷宮、その地下十階に他ならない。

 あまりにも長い間地下迷官を歩き回ったせいか、もはや本当にここがその最下層なのかどうかさえ、疑ってしまいそうだ。

 回廊の中に立ちこめる闇が実は生き物なのではないかという錯覚さえ感じる。やつらのように時間だけを食って生きていけるのならば、どんな戦いにでも生き残れるのではないか。ここでは生きていることも死んでいることも、このカンテラから漏れる明かりの、わずかな光の明滅のようなことなのではないだろうか。

 闇に耳を澄ませば、さらさらと何かが流れるような音がする。

 何かが流れる? そんなことがあるわけがない。闇は本当に目と鼻の先に立ち登り、ゆらゆらと揺れているだけだ。ここでは光よりもはるかに闇の方が多いのだ。

 闇に取り囲まれている中で暗所を見通すことのできる目を持っていない我々に、どうして先の事が分かるというのだ。一瞬先の未来はもとより、それ以上に現在の数歩先の事ですら何の保証もありはしないのに。

 身に付け慣れたはずの甲冑が、ずっしりと重い。いや、この肩に掛かる重量感は果たして鎧の重みだけなのだろうか。何か他の得体の知れない物が全身に深く伸し掛かっているような気がする。

 床に置いていた腕を守る鎧――籠手を再び身に付けようと取り上げた。

 籠手を手にすると、何かがぱらばらと落ちた。手で石畳に触れると、確かに掌に何かが付く。目を凝らすと、そこには無数の砂が付いている。

 なぜ、こんなところに砂が。粒は粗く、はっきりとざらついた感触がある。ここの石畳は、まるで熟練のドワーフの技師が手がけたかのような精巧な作りであるだけに、 一体どこから砂が滲みだして来るというのだ。

 どこかで聞いた噂を不意に思い出した。迷官の深層では、闇は徐々に砂化するのだという。

 では今も聞こえる何かが流れていくかのような音は、闇が風化し、砂になっていく音なのだろうか。

 風化というのはおかしい。ここでは、自然の風が吹くことなどない。だとするとこの闇が砂になっていくというのは、時間が流れていることの証しなのだろうか。

 カンテラの光が揺れていることに気が付いた。

 そんなことがあるのか。ガラス張りのケースの中の火だ。隙間から風が吹き込んでいるのだろうか。いや、そんなはずはない、炎でさえもこの空間では恐怖や畏怖を感じるのだろうか。もしそうだとするならば、確かに防風のガラスなどは無意味だ。壁や天井から滲みだして来る無言の威圧感、それが炎の揺れの正体だろうか。もはや、火が灯っていること自体が、全て、それ自身の光の加減なのではないのだろうか。

 さっきの戦いで倒れた若い騎士はこのカンテラの弱々しい光に手を伸ばし、そして事切れたではなかったか。この小さい光を外の明かりか何かかと思ったのだろうか。それとも、この光が外の光の幻影を彼に見せたのだろうか。最後に彼が口にした名は、私の知らない名だった。彼の家族の名だったのだろう。しかし、それを確かめる手段は、もうない。

 私の家族は皆どうしているだろうか。

 この目の前の部下たちにも当然家族がいるだろう。

 しかし……。

「……隊長。アーロン分隊長殿」

 誰かが呼んでいる。聞き覚えのある声だと記憶を確かめながら視線を上げると、部下の一人の顔があった。

「アーロン分隊長殿。交代のお時間ですが」

 見渡すと、はっきりと現実に連れ戻された。十名以上いた部下は、今では半数以下のたった五名になってしまった。しかもそのうちの三名の騎士はすでに深手を負っているし、残る二人の魔術師も外傷こそ大きくないとはいえ、おそらく魔力はほとんど残っていないだろう。

「将軍閣下はどうなされたのだったかな」

私は魔術師の一人に聞いた。

「閣下は背後を私たちにお任せになられ、先にお進みになりましたが」

「そう、そうだったな」

 そうだった。あの巨人どもは突然背後から我々に襲いかかってきたのだった。奴らは、太さが樫の木の幹ほどもある巨大な棍棒を振り下ろし、奈落のような暗い口からは火を吹いた。未だかつてこの国の誰ひとりとして、あのような魔物を見たことがなかった。誰もが幼い頃に聞かされた、お伽話しに登場するような怪物が、日の前で人を打ち潰していたのだ。

 この鎧兜や武器に、仲間や部下達の悲鳴が滲みこんでいるような気がする。少しでも身をよじれば、それらが次々とこばれ落ちて回廊の壁や床に反響しそうだ。

 駄目だ、これ以上の精神の疲労は目を霞ませかねない。部下たちも同様に違いない。

「キャンプをたたんで結界を解け。出発する」

私は立ち上がって言った。

「しかし隊長、我々はここで閣下を待つようにと……」

 騎士の一人が言った。

 私はその若い騎士を振り返って言った。

「無論、それは知っている。だが将軍閣下は帰ってこない。我々の本来の任務を思い出せ」

 騎士はうつむいた。

「生きて帰ることであって殉死することではない。残念だが、閣下はおそらくもう戻ってはこないだろう。ここでの戦いの記録と、地図を持ち帰ることが真に重要な我々の勤めだ」

 騎士はうつむいたままだった。が、しばらくして顔を上げまっすぐ私を見つめ、私もまた言葉を続けた。

「よし、では出発しよう。生きてこの忌まわしい地の底から早く、一刻も早く脱出しなければならない。犬死には無用。弔い合戦も無用。だが死んだ仲間への哀悼は忘れるな。彼らの為にもここから生きて帰らなければならない」

 五人が一斉に動いた。私はこれまでに記録された全ての迷官の地図を丸めて、背負い袋に大事にしまった。もっとも、ここから生きて地上へ行き着けるという自信はなかったが。

 歩きだして、まだ一つ目の曲がり角を過ぎただけで 一行の足は止まった。

 物音がする。すぐそこの二つ目の曲がり角の先だろう。

 音はすぐに大きくなり、それがやけに歩幅の広い足音だと気付くのに、たいして時間はかからなかった。

 いや、他の音もする。初めて耳にする音。

 ざらざらとしたものが床を撫でるような音だ。

 全員に武器を構えるよう、無言の指示を送る。

 カンテラを床に置いた。その曲がり角の向こうから、床を這うようにして白くて濃い霧が現れた。霧はもやもやと揺れながら、徐々に私たちに方に近づいて来る。

 足音がぴたりと止まった。魔術師の一人が私の側によって来て囁いた。

「冷気のようです。冷気の魔法を放った後、あの様な状態になります。ただ、魔法のような雰囲気はありませんが……」

 では何だと言うのだ、という声が私の脊椎のあたりで沸いた。しかし、頭は動かさず、目もその方向を凝視したままだ。

 霧はしだいに伸びてきて、遂に私の足に絡みついた。その冷たさを感じる間もなく、角の向こうから強烈な吹雪が突如私達の間を吹き抜けていった。

 壁に沿っていた私は直撃を免れた。だが騎士の一人がその自い氾濫に飲み込まれて後方へ押されていくのが、やけにゆっくりと、またはっきりと見えた。

「グレイス!」

 別の騎士がとっさに叫び、全員が彼の様子を知ろうと後を向いた。それがまずかった。

 地響き、獣の咆哮、巨大な敵意が私を包み込んだ。すぐに振り返ったつもりだったが、首はそれほど早く回ってはくれなかった。私の背丈程もあるかの様な戦槌が、すぐ真横に打ちつけられた。

 そこには最も若い騎士のエバンズがいた、いや、いたはずだった。エバンズだつたものは、その巨人の槌の下と辺りに散っていた。魔術師のアルナノートとエズィが、吹雪に吹き飛ばされたグレイスを二人掛かりで背負うのが見え、叫ぶのが聞こえた。

「隊長殿、退避を」

 二人のうちのどちらかが言った。が、それがどちらだったのかは分からなかった。

 その声に覆いかぶさる様に、人の子の雄叫びと駆け出す足音がした。

「テドリクソン、やめろ、無駄死にする気か」

 私は反射的に叫んでいた。巨人が槌を振りかぶった。私には、その氷河のような槌がテドリクソンを押し潰す、その軌跡が脳裏に浮かんだ。長年の戦士としての冴えだ。

 すぐそばで、火薬が弾けるような音がした。続けざまに数本の小さい火線が弧を描いて飛び、巨人の胴に命中した。アルナノートが小さい火の玉の魔法を放ったのだ。

 巨人は振り上げた槌の先端をこちらへ向けた。一瞬の隙のうちに、テドリクソンの剣が巨人の足の甲に突き刺さった。

 テドリクソンは剣を深く深く押し込んだ。体重を掛けて、その場に杭打ちするかの様に。巨人はしかし、身じろぎ一つせず、テドリクソンを見下ろした。私は目を見はった。さっきの火炎による外傷は、まったく見当らない。当たったというのは錯覚だったのだ。巨人の全身を包んでいる薄い冷気の膜が、火球から体を守っているのだ。奴に魔法の火など効きはしないのか。

 テドリクソンは全身をバネにして剣を引き抜き、二撃目を突き立てようと刃を振り上げた。だが、降り下ろされることはなかった。巨人は反対の脚でテドリクソンの視界の陰から彼を蹴り飛ばした。テドリクソンは人形のように弾け跳び、壁に激突。私は即座に彼へと駆けた。

 素速く、倒れているテドリクソンを肩に担ぐ。そして、脱兎のごとくに走った。

「走れ、走るんだ」

 二人の魔術師に向け、叫んだ。

 前を行く二人とその彼らに背負われた一人は、元来た角を曲がった。私もその後を追って曲がる。エズィの持つカンテラが揺れる度に、私たちの影も踊った。

 私は、砂と石畳とを半々に踏みしめ、いや、そんな悠長の事ではない。そう、ただ一日散に走った。とにかく、グレイスとテドリクソンが、生きていても、死んでいても、 一刻も早くしなければ、本当に死んでしまう。

 私はただそう思った。

 そして走りながら、自分と自分の部下達の運命を呪おうとしていた。

 目の前の闇がカンテラの明かりで光になり、また背後で闇に戻っていくのが、何かとてつもない、人を凍り付かせてしまうような、そんな邪悪の潜んでいる証拠だと、はっきりと感じている。

 不意に、日の前を行く三人が足を止めた。さっきの怪物が私達を追って来ているような気配はない。私も足取りを緩め、彼らの脇に並んだ。

「隊長、これを……」

 エズィが視線で指し示したその壁を見た。

 始め、そこにあるものが何なのか、全く見当も付かなかった。しかし、次の瞬間そこにあるそれらが何であるのかを理解した。

 壁から生えていたのは、人だった。それも、いつかの戦乱を共に戦ったことのある、よく知った騎士団の仲間、その彼らが、石像となって壁とまるで一体化しているのだ。

 背筋が瞬く間に凍り付くのを感じた。人が堅固な石壁の中にその半身をうずめている。

 一人や二人ではない。中には手だけを突き出している者。顔だけを露出させている者。またはその両方の者。半身を乗り出してはいるが、肘より先が既に欠けてしまっている者。まるで何体もの石像を一度に泥の中に放り込んだところを、上から眺めているようだ。しかし、こんなにも真に人間に似た像を彫れる者などそうはいない。どんな精巧な彫刻を作れる石工技師であっても、これほど苦悶に満ちた表情は、彫ることはおろか、想像する事さえ容易ではないだろう。

 彼らに一体何が起きたのか。強靭な精神力を持つ彼らに、これほどの相貌をさせるとは一体……。

「魔法に失敗したのでしようか。空間を転移する魔法、その魔法の使用に失敗し、壁の中に実体化してしまつた。そう考えられますが……。そのような手違いを起こすような魔法使いは……」

 アルナノートが言った。私はアルナノートを鋭く振り向いた。

「いなかったはずだと言いたいのか。しかしここが、既に空間の捻じれているような、そんな場所である地下十階の恐ろしさであるとしたら? そんな場所で自分の足ではなく魔術に頼ろうとしたのが、そもそもの間違いだったのだろう」

 歴戦の戦友がそのような陳腐な過ちを犯したのだろうか。人の判断力を正常な方向へとは進ませないようになっているのが、地下十階の真の恐ろしさなのかとかすかに思い、私は小さく首を振った。

 かつての仲間の顔を見下ろした。苦悶と恐慌に満ちた彼らの変わり果てた姿は、もうすでに迷官の装飾か、さもなくばただの出っ張りでしかなくなっている。そして呻き声ですら、どこか遠くに退いてしまって、もはやここにはないような気さえした。

 カンテラから漏れる光は、背の後ろや脚の裏に闇を造った。

 影と呼ばれるその闇は、常に背後にぴったりと付いてまわり、ときおり不意に巨大になったり、小さくなったりしてその身を揺していた。

 誰もが幼い頃から影とは行動を共にしているはずだが、それを気に留めることがはたしてあるだろうか。

 私もまた、その一人であった。

 地上では、影はしょせん、影でしかなかった。

 だが今は違う。

 これまで私は、影は私に引きずられてただ無言で付き添っているものだと考えていた。と言うよりむしろ、そんなことを考えること自体に意味が無いと思っていた。

 だがここでは違う。

 私が私であると同時に、私の影は私の影という独立した存在として、いや、もっと単純に、影は自らをその主として、ここにいる。

 私が呼吸をするように、影も呼吸をする。私が心臓を鳴らすように、影も鳴らす。私が歩めば、また影も歩む。ここでは影は、なにか確かな実存なのだ。

 しかし、前を行くアルナノートとエズイ、それにグレイスの影は見ている限り全くの普通の影だ。とても生きているようには見えない。

 いや、あれは間違い無く生きている。それまでの思い込みで、見間違いをしてはならない。影共は生きている。はっきりとそう感じる。私が振り向むくと、その瞬次に喰い付かれるてしまうだろう。これは錯覚などではない。奴等は影のふりをしてるだけなのだ。迷宮に入った時から影に成りすましていた、悪意をまとった魔物に違い無い。

 迷宮の空気は、カンテラの光にすら毒気を与える。

 私に見られていることが、前の二人の影を止めさせる要因なのかも知れない。と言うことはすなわち、私は見続けなければならないと言う事か。いや違う。影共はいつだって身構えているではないか、私の影のように。ただじっと息を殺して、影の精神と、本体の精神とをすり替える隙を窺っているではないか。

 しかし、もう一つ、私が影をこのように思い考えること自体が、影に命を与える事なのだとしたら……。

 だが振り返らない限り、それは何物にもなりはしない。とするとそれは、単に私の心の中にいるのか……否、私がそれに気付くのかどうかと言う事でしか無い。

 感覚だけが先行して、言葉がそれに追随できていないのだろうか。

 自然風でも吹きさえすれば、そんな感覚も簡単に拭い去ることができるのに、影からの抑圧が、体の奥にも、心の底にも滲み付いてしまっている。

 いや、感覚など、とうに麻痺してしまっていて、ただ執拗にそこに在るような気配を漂わせているだけだ。

 虚無か、空しさか、そんな感覚だけが辺りの空気に、言い替えるのならば迷宮の隅々に充満していて肌に痛い。前を行く部下たちの足音が、わざとらしく薄められた不安で占められているのが、はっきりと分かる。

 そうだ、影だ。影が人の安心を喰らっているのだ。

 だからこそ、あんなにも影のことにばかり気がいっていたのだ。ここでは影どもは、人の外側に姿を形作るだけではなく、体の内側にも影をつくって侵食し、そして心を呑み込んでいこうとするのだ。

 隙を見せてはいけない。奴等は、この湧き上がる闇に乗じてこの体を乗っ取ろうとしているのだから。そして気を付けなければならない、カンテラの弱々しい光では、それらの影を掻き消す事はおろか、濃さを増すばかりなのだから。

 無言の連続の中で、部下の二人の魔術師と二人の負傷した騎士たちは実に良くやつてくれている。気の小さい者であれば、ここを支配するこの無言と、どこからともなく漂う血の気配と獣の臭いに気が振れてしまっていてもおかしくはない。

 おそらく、彼らはその重すぎる疲労の為にかえって冷静になってしまっているのかもしれない。

 たとえ今、小物の妖魔などが彼らにまとわり付いても、決して気を留めずに歩き続けるだろう。

 命でさえ、ここでは石畳に浮かぶ小さな染み程度の価値でしか語ることはできないのだ。

 そう、だから命乞いなど相手の食欲の前では全く無意味だ。そんなことはどんな下級の怪物ですら知っている。その食欲だけが、この地下迷官を支配する法であり、文字通りの真理を含んでいるという事が、地上にいる人々のそれとは決定的に違う。絶対的な力がそこには横たわつているのだ。

 本当に些細な事、それだけが生と死を選り分けていく。そしてその些細な事は、その選別による結果が出た後では、もう些事ではなくなっているのがほとんどだ。命綱を断ち切る程の事を軽視した時には、もう、なす術などなく、未来へ流れる時間と言う怪物の前にそっと口を開いている死と呼ばれる深淵の暗がりヘと続く傾斜を、そのまま滑り落ちていくだけだ。

 そして全て終わるその瞬間まで、当の本人も、周囲の誰も気付きはしないのだ。ふと、そんな役が自分には不思議と似合っているような気がして、私は小さく身震いした。

 歩みもにわかに速まった。

 しかし、数歩だけ前を行くアルナノートとエズィが足を止めた。それにたちまち追いつく。

 アルナノートが正面の闇から目を離さずに言葉だけを私へ投げた。

「後を付けられているようです」

 私は押し黙ったまま小さく領いた。

 エズィがちらりとだけこちらを見て言った。

「先程の巨人とは違く、もっと静かで、暗く、冷たく、そして純粋な闇が化けたような魔物でしょう。じっとこちらを観察しているようです」

 アルナノートの横顔が凍り付いているのが分かる。

 前方へ向き直ったエズィの表情は隠れてしまい、彼らの肩に抱えられたグレイスも動かない。私の背のテドリクソンもじっとして息を潜めているかのようで、全く動かない。

「夜忍び寄る者、という魔物か」

 その忌まわしい名に寒気がした。昼も夜もない地底で、なぜそのように呼ばれるのだろう。夜かと言えば、ここでは常に夜なのに。それに、夜そのものでさえ、その逆の存在、すなわち昼があって始めて存在できるのに。

 じっとりとした湿り気を持った空気が脇を通り抜けた。

 背後にはっきりと吐息を感じる。

 腐ったその息が辺りにまとわり付いて一向に離れようとしない。

 押し殺した声で聞いた。

「呪文はあるか」

「火の呪文なら少し」

 アルナノートが言った。

「少しだけ温存したものが」

エズィが言った。亜人間のエルフであるエズィの尖った耳が緊張しているのがよく分かる。

「合図を出したら、五歩走って呪文を放て。私が切りかかり、脇へ跳ぶ。走り、グレイスを下ろして呪文を放て」

 二人が小さく領いた。

「行け」

 叫んで肩のテドリクソンを通路の端へ飛ばし、剣を抜きざまに振りかぶった。

 黒くぬめりを持つた肌が目の前に現れた。

 光の無い目が見えた。

 そこをめがけ、袈裟斬りに切りつけた。

 一度。

 もう一度。

 そしてテドリクソンを投げた方向へ横っ跳びに跳んだ。すぐ背後を火線が突き進んで行った。炸裂音がした。得体の知れない物が飛んで来て、べちゃりと音がした。振り払いもせず、私は跳ねた。怪物のただれた腹に剣を深く捩じ込んだ。

 手ごたえはあつた。

 しかし、まだ消えない悪臭を発する硝煙の中からまっ黒な、漆塗りのような腕が伸びてきて私の肩をつかんだ。

 鎧を通して強烈な寒気が襲いかかってきた。体の芯にある、魂の火種を揉み消すような冷たい手だ。

 剣を引き抜こうとしたが、駄目だつた。

自分の生命そのものがその魔物の手から吸い取られていくのがはっきりと分かつた。力が抜けていく。

 体重を背後へ移しつつ、魔物の腹を踏むように蹴った。もう一度剣を引き抜こうと試みた。後に倒れそうになったが、剣は抜けた。

 一歩後退し、二人の魔術師の方を見た。

 二人は息を合わせたかのように同時に領いた。

 魔物がゆらりと私の方へ歩み出した。

 そこへ新しい火線が突き込まれた。魔物はぐらりと一瞬、後へのけぞつた。

 私は間髪を入れずに再び剣を繰り出し、体重を掛けて押し倒した。魔物はもんどりを打って引っ繰り返った。

 今度は剣を勢い良く引き抜き、その胸を目がけて振り下ろした。

 どす黒い肉片が飛び散り、血だろうか、黒い液体が辺りに跳ねた。

 鎧のあちこちに飛んだ汚物がへばり付いた。液体がぽたぽたと垂れた。

 気に掛けることなどしない。さらに何度突き刺した。

 最後に首を跳ねようと剣を高く持ち上げたが、振り下ろすことはできなかった。足首に熱いのか冷たいのかすら分からない感覚があった。

 私は自分の体がぐらりと大きく揺れるのを感じた。

 後ろへとゆっくり傾いていく。足が踏み出せない。手も突き出せない。床が近づく。膝が崩れるのが分かった。

 そして倒れた。

 指一本動かせないのに目だけははっきりと醒めていた。

 魔物が起き上がった。自分の影がむっくりと起き上がったようにも見えた。

 小さな光が視界の端で一閃した。

 鈍い音とともに、影はまた、地面の影に戻るかのようにして再び倒れ、視界から消えた。

 二人の魔術師が駆けてきて私を肩から抱え起こそうとした。先の魔物とは違う人影が私の前に立ち、手をの伸ばしてきた。

 カンテラの光に浮かび上がったのは、テドリクソンだった。

「申し訳ありません」

 テドリクソンの顔色は悪かった。その手には黒い付着物のある手斧が握られていた。闇から浮かび上がってきた怪物を打ち倒した光はこの手斧に反射した光だったのだと気付いた。魔物が倒れた床の上には、まるで百年前からそこにあったかのような、古びた真っ黒な染みが広がっていた。

「随分長く気を失っていたようで……」

 テドリクソンの顔色は相変わらず悪かったが、その声には存在感のある意志が感じられた。

「隊長、あれを」

 アルナノートが指した影の一角に、闇に半分埋もれるような形であったのは一つの箱だった。

「誰か、調べられるか」

立っている者達を見渡したが、誰も答えなかった。

「エズィ、来てくれ」

 カンテラを持っていたエズィに、付いて来るようにと手招きして歩いた。

 エズィはすぐに私に追いついた。

 箱に辿りつくと、それは遠目に見ての予想よりもずっと大きいものであることが分かった。釘には錆が浮き、側板は腐り始めている。

「どうだ」

 エズィは首を横に振った。

「どこかの部隊が置いていったものならば、持ち帰るべき何かが入っているかもしれない。しかたがない。慎重に開けてみよう」

 両手を蓋に掛け、ゆっくりと押し上げようとした。

 わずかに持ち上がったところで、カチリと小さな金属棒を触れ合うような音がした。

 エズィと顔を見合わせた。

 ぐにゃりと回廊が歪んでいるように見えた。自分が揺れてなどいないのに、全てが揺れていた。まるで海中の藻のように歪んでいる。周囲が急速に暗くなった。アルナノート達がどんどん遠ざかっていく。それなのに、日の前にいるエズィは目元に緊張を漲らせて私を見ていた。回廊の景色もどんどん遠くなる。足元から遥か周囲までが真つ暗になった。しかしエズイだけは依然、そこにいた。そして胃から突き上げるような激しい嘔吐感が襲ってきた。

 一瞬、だつた。

 回廊の中にいた。慌てて立上る。カンテラの光が床や壁をはしゃぎながら転げ回っている。石畳の上に視線を泳がせたが、しかしアルナノートもテドリクソンもグレイスも、私には見付けることはできなかった。

 箱もなかつたが、エズィだけがカンテラを揺しながらふらふらと立ち上がるところだった。

 壁も床も天丼も、そして空気の澱みかたも、雰囲気さえも違ってぃた。もう一度複雑な期待を持つて周囲を見渡した。

 向こうの角から三人が現れるのではないかと信じようともしたが、それはただ漂い来る沈黙によつて、静かに否定された。

 やはり、周りには誰もいなかった。私と、エズィ以外には本当に誰も。

「大丈夫か、エズィ」

 私のその言葉は辺りに立ちこめている空虚さに押し潰されそうになりながらも、わずかな表面張力に支えられて、辛うじて形を保ちながらエズィの脇を通り過ぎていった。

「どうなっているのだ」

 尋ねてはみたものの、何かを期待する訳でもなかった。ただその言葉は、今すぐに吐き出さなければならないものとして口の中にあった。

 この破れかかった時間を取り繕うためにだけ、ただ言わなければならなかった。そして、エズィはまた別のある意味において、私の期待を裏切らない答えをした。

「分かりません」

エズィはしかし、うつむいたままつだつた。

「……いえ、空間転移の仕掛けがあったのでは。箱に魔法が仕掛けられていて……」

「分かっている……それは分かっている。だが、今さら……」

 私は座りこんだ。

「私は三人の部下を、お前は仲間を失ったのだぞ」

 エズィは黙ってしまった。

 沈黙が流れた。いや、沈黙など時間に喰わせてしまうほどにあり余っていて、今になって新しい沈黙が溢れ出して来ても、何か事態が変わる事などありはしないのだ。

「エズィ、結界を張ってくれ。少し休もう。ああ、あと魔法で現在地も調べてくれ」

 沈黙を押しのけるようにして、私はそう言って壁にもたれた。壁は冷たく、耳を当ててみてももう何の音も聞こえては来ない。ただ、黙り込んだ石壁と天井があるだけだった。

 カンテラはまだ保っているが、いつ火が尽きるとも限らない。

 そうだアルナノートたちの所にはもう火が無いのだ。

 松明の予備がまだあっただろうか。もはや覚えてもいない。

 湿り気のある空気と、床の上に漂う冷たい気配だけが辺りには充満している。他には何もありはしない。

 自分の心臓の音だけが、ここでは唯一、時を刻める確かなものなのだ。

 人と助け合う事が、人が人として存在する理由だ。独りで生きる者は、獣となんら変わらない。

 だのに、私はその義務を持つ三人を、 一瞬で失ってしまったのだ。

 エズィが、そして私自身がまだここにこうしていることが、ただ一つの幸いだ。

 しかし、生きて迷官を出ることを命じておいた者達をこのような形で置き去りにしてきたことが、もうそれについては、たとえ自分自身であっても触れてはいけない、しかし目を背けてもいけない、沈黙し続けるオベリスクのようにして私の心の中に、まるで荒野にそびえるかの様に屹立していた。

 いや、アルナノートやグレイスやテドリクソン達だけでなく、いったい何人もの仲間が、この暗黒の宮殿、そうワードナの死の宮殿の冷たい床に倒れたのだったか。

 もはや思い出すことさえ儘ならない。そもそも、この地下迷官とは何なのだ。かつての宮廷魔術師ワードナとは一体何者なのか、いつからこの迷宮はあったのか。王はなぜ私達のような大軍を、この暗い地下に押し込んだのか。王が盗まれた宝物とは何なのだ。そしてなぜ、私達は、これ程までに多くの仲間を失わなければならなかったのだろうか。

 もはや、屍すら陽の下へは帰らないのだ、彼らは。

 暗く冷たい闇の中で魔物の餌になるのだろうか。死んで喰われるというのはどういう感じなのだろうか。

 やはり死んでいても痛みを感じるのだろうか。自分の体が踏み付けられ、噛み砕かれて別の物へと変容していくのを感じているのだろうか。

 しかし、死人は喋りも呻きさえもしはしない。だから、分かりはしないのだ。

 死は最後に残された苦し紛れの無意識の選択なのだろうか。

 とは言え、心臓の停止程度では魔法によって立ち直ることは容易だから、死は、せいぜい歩きにくくなったり、物事への抵抗ができなくなったりという程度の不都合でしか無いのだ。ただの深い眠りと変わらない。死は暗闇の前では特に無力だ。

 生きていることも死んでいることも、手にした明かりの中の陰りの揺らめき、そのくらいの事でしかない。

 だからこそ、人は本当に魂が昇天し、文字通り身体が空っぽになってしまうまで、死者の側を離れないのだ。

 目を開ける事によって、私が連れ戻された現実は本当に現実なのだろうかと以前は疑っていた。そしてそのような疑いを持つ自分に対して、以前に感じていた微かな嫌悪感は、今ではすつかり無くなってしまっている事に気付いた。

 それ程までに、私は多くの事を失っていたのだろうか。戦乱によって千の仲間が倒れた時の弔いが、 一人の仲間を失ったと時のそれの千倍かというと、果たしてそうではなかったように思われる。それと同じような事なのだろうか。

 見上げるこの石壁のいくつもの深い傷は、ここでおそらくかなりの規模の戦闘が行われた事の証拠だ。壁は自身のその体に時間を、思い出を、刻ませているのだろうか。そしてこの瞬間も私を見下ろし、形には残らない私の記録を取り続けているに違い無い。

「現在地は分かったか」

 彼ら魔術師がどんな時でも決して手放さない、厚い魔術書に目を落していたエズィの耳が、小さく反応した。

 私は地図の束を取り出そうとした。

 ェズィは寄って来て、私がその束を取り出すのを待った。

「地下は九階、北東の……、この辺りのようです」

 その指は半欠けの地図の上の白い地帯に円を描いた。

「未調査の辺りか」

 地図を呪んだ。

「なぜ、九階の調査を完了させておかなかったのだろう」

 だが少なくともここが石壁の中でなかった幸運など、もう考えるには至らなかった。

「九階か」

 私は呟いた。自分にだけ言い聞かせるように。しかしその声は薄く立ち込める迷宮の闇にこだまし、消えていった。だのに、その声の気配だけは私の足下にじゃれ付いたままで、私を少々苛立たせた。

 闇はこれまで、何を食べて生き続けてきたのだろう。そうだった。命を食べてきたではないか。私は何を今さら考えようとしているのだ。既に多くの生命の灯火が闇に飲み込まれるその瞬間を見届けてきたではないか。

 もう何度、同じ事を考えただろう。変わることの無い石畳の上を歩き過ぎたせいで、もうそれが何度目なのかなど、分かりはしないのに。

 時間だけが流れていく。しかし、時間は一体どこを流れているのだ、どこへ向かって流れているのだ。心の中でか、それとも外でか。どの方向へ流れているのだ、右か、左か、それとも前か、後へか。未来という物が一体どの方角からやって来るのかさえ、実際人は知らないのだ。

 ……なぜ今そんなことを気にする必要が私にある。今必要なのは、頭でここから離れるようなそんなことではなくて、自分の足を使って歩き、そして生き残ることではないのか。私の使命は地図の束とともに、エズィを陽の当たる場所へと連れていくことではないのか。歩かなくては。足はまだ動いてくれるだろうか。立ち去らなくては。全身が石壁や床の一部になってしまわないうちに。

 腰に取り付けてある小さい革袋から干し肉を取り出し、 一つをエズィに放った。エズィは、それに気付くと肉を空中で受取り、口ヘと運んだ。それからもう一つ取りだし、私もかじりだした。

 エズィは何も言わなかったが、私は特に気に留めなかった。

 しばらくしてそれらを食べ切ると、私は立ち上がり、一枚のまだ白い羊皮紙を取り出し、まだインクの小壺にインクが残されているのを確認した。

 エズィにカンテラに油を注いでおくように言い、剣の位置を片手で確かめる。エズィもカンテラを揺しながら立ち上がった。

 立ち上がった私は足首を交互に軽く振った。そして物音の一つ一つをすら疎んじるかのように黙り続けている石畳の回廊の中で、たった少し前と同じように、自分が床を踏み締める足音と、剣の鞘が私の腰で小踊りしながら打ち鳴らす小さな手拍子の残響とを、また静かに蹴飛ばし始めていた。

 魔物の影を見たら逃げなければならなかった。太刀打ちはできない。だが二人でいることが何よりも心強かった。 一人が前を見てもう一人が後を見た。

 扉のたびに全神経を尖らせて耳を働かせる。何も聞こえない時ほど危険だと感じた。音がするという事はそこに怪物がいるという事の動かぬ証拠だ、だからこそ音の無い状態の時こそ注意するべきなのだ。

 その扉を調べたとき、その向こうから物音がした。

 エズィに背後を見ろと指示する。

 腐っている薄板を少し剥がした。

 中では火が灯っているのが見える。巨大な影が壁に揺らめいている。

 食事中の巨人のようだ。しばらく様子を見る事にし、深く息を吐いた。待たなければならない。

 巨人たちは下品の一言ではか片ずかない音を立てていた。鈍い音は何度も床や天井を跳ね回り、扉を突き抜け、私を見付けては誰にも届かない悲鳴を上げる。

 向う側を覗き見た。明かりの中に、積まれている物がある。

 人だ。

 人の死体が巨人どもに喰われている。血か体液か、吹き出したものが黒い影となって灯火の前に伸びていた。

 私を呼び掛ける光があった。鎧の金板が反射している。喰われているのは、確かに騎士達だった。私はそれが見間違いである事を願ったのに、本当は人ではなく何か人に似た姿をした化物の類である事をにわかに期待したのに、目はそれが本当に血の通う人間の業かと疑う程に無情な事実だけを伝えて来る。そして戦いで研ぎ澄まされた私の感覚は、認識した事実にいささかの着色もせず私に分からせる。

 そう、私の見たものは紛れも無く、かつての仲間たちの現在の姿だ。

 並んだ死体は、今という名の港に停泊し、次の航海に向けて待つ船の群れのように見えた。

 ただじっと時が来るまで黙っている様なそんな彼らの真下にだけ、時間というものが流れているのだ。この扉がそれを遮り、死体に求める以上の沈黙を私に強要しているのだ。いや彼らは望まれて黙っているのではない、自ら進んで口を噤んでいるのだ。

 それは、人が自らの死を他人に主張する際に最も簡単で、また一般的な方法のように思えてきた。

 自分の息使いだけがふと耳につくようになった。

 ……自分のだけだと?

 慌てて振り返った。

 エズィはそこにいた。いや、それは生身のエズィではなかった。石の像だった。

 エズィの石像から、抜け殻から漂う針のような鋭い気配が滲み出ていた。その向こうから大きな鼻息が聞こえた。牛のような鼻息。猪のように鼻を鳴らす音。今まで気付かなかった異臭がそこにはあった。

 動いてはいけない、そう経験が知らせる。心臓が早鐘のように鳴っている。

 以前に遭遇した事のある、鉄の牛の魔物だ。あの時はどのように戦ったのだったか。そうだ、並み居る戦士たちがその鉄鎧のようになっている皮(むしろ金属板と言うべきか)に飛び掛ったのだった。魔物は一度だけ火を吹き、しかしすぐに倒された。

 あの段階では、まだ大勢の部下がいて、体力と気力があった。だからただ薙ぎ払った多数の怪物の中の一匹として、私は記憶の倉庫に積み上げただけだった。

 その記憶の小箱を手繰り寄せ、四隅を引き裂いて、裏板を剥がそうにも、もはや何の手掛かりも得られなかった。

 だが、奴の力を今、見せ付けられたではないか。数多の伝説に登場する、人を石に変える邪視。鋼の皮膚を持つ持つ牛の姿をした魔物はその力を持っている。

 それが私のすぐ左、少し前まではこんな石像ではなかった者の向こうにいる。

 逃げなければ。しかしどうやって。何千もの問い掛けの前に、答えなど今さら出ては来ない、いや既に出尽くしているのだ。

 ただ、生きて帰らねば、と。

 衝動が身を突き上げた。足を伸ばさせた。

 邪視の鉄牛に背を向け、日の前の扉に手を掛けた。ゆっくりと。

 背後から、大きく鼻息をし、石畳を二度三度蹴る音が私の背を叩く 。

 轟きが迫ってくる。

 私は戸を一気に押し開き、広間に跳び込んだ。

 砕かれる音がした。

 振り返りはしなかった、エズィが砕け散ったのだと、その音が知らせる前から私はとっくに知っていた。

 広間に巨人が何人いたのかは分からなかった。数えている余裕など有る訳が無いのだ。

 向こうの壁に扉を見つけた。

 一目散に走った。扉までの間に倒れている騎士の一人が、その片腕を上げたように見えた。

 疾駆する馬上から藪を払うときのような速さでその騎士を抱き抱えて、また走った。

 激しい音がした。鉄牛が巨人に体当たりを食らわせたのだろう。

 私に迫っていた巨人が、急に向きを変えて行った。

 蹄が床を蹴る音に続けて起こった叫び声が、一瞬にして部屋の空気の全てを部屋の隅に押しやり、轟音を壁にめり込ませた。

 私は扉を蹴り開け、通路に踊り出た。抱えた騎士を背に背負い直そうとした。しかし振り返ったその瞬間、戸まで追いかけてきた巨人が何かを投げ付けてきた。押し飛ばされ、私はつんのめり、倒れた。

 だが寝ている余裕は無い。再び立上り、落した男を後ろ手に引くようにしながら走り出した。

 振り返らずに駆けた。突き当たりは扉。そこへ走り込む。やっと息を付くことができた。恐る恐る、いや、うすうす感付いてはいたが、左手で引っ張っていたものを見た。

 黒ずんだ血にまみれた籠手だった。中身のない、空っぽの籠手を私は握っていたのだった。

 右手のカンテラが小刻みに揺れ、金具が軋む。

 扉の向こうで、裂ける音や砕かれる音がした。しかし、それもすぐにカンテラの光りを連れて、遠退いていった。

 また歩きだした。だが緊張を解いた訳では無い。緊張感を失うことは、心を独り歩きさせるようなもの。ここでそれをすれば、それは命を捨てるのと同義だ。

 心は体に縛り付けておく他ない。翼を持つ者はここで剣を振ることはできない。そしてふとなぜか、こうして地底でさ迷い続ける事が自分に与えられた使命であるかのように感じ始めている自分がいた。

 新旧の地図が一致し始めた。

 この先に、第二陣の部隊が造った昇降機があるはずだ。

 その昇降機は人間が使う事ができるように設置された物で、その仕掛けは化物の類が簡単に使う事はできない。

 その昇降機を用いれば、この九階から一気に四階まで上がる事ができる。しかし十階には通ってはいない。

 というのも、昇降機の真下には十階の通路はないらしく、床を掘ろうにも十階の回廊は見えてこず、岩盤に行き当たったらしい。だから昇降機の終点は九階になっている。

 八階から九階へ至る階段はその後になって埋めて潰した。この九階、そして十階に巣くう悪魔や竜や巨人といった最も恐ろ

しい魔物が上層へ上がる事のできないように。だから、足で地下九階へ降りるには、この昇降機を使うしか手は無い。

 もうじきそこに着くはずだ。

 だが、着いてしかしどうするのだという感情が膨らんできた。

 生きなければ、と思っていた頃がひどく遠くにある事のように思えてきた。本当にそんな事を考えていたという記憶さえも霞んで見える。今ではただ頭を掻くだけだった。

 迷宮の制圧の為に差し向けられた私達第五陣の部隊も、もはや全滅したのだろうか。たった今この地下九階を歩いているのは、私と、そして空腹を抱えた怪物共だけなのではないのだろうかという気がしてならない。

 自分の心が滅入ってしまっていて、様々な考えが取り留めのないものでしかなくなってきている。これまでの時間の意味に、きちんとした答えが見出せるまでは、倒れるわけにはいかないと呟いてみてから眼前に広がる暗闇を見た。

 この暗闇も、すつかり見馴れたものだ。実際この場には暗がりしかないとは言え、飽きもせず、よく見続けられたものだ。いや、暗間に飽きて耐えられなくなるような者は、真っ先に石畳の床から起き上がれなくなった者達だったか。

 少なくとも自分はそうではないと分かつているからこそ、ここまで来れたのだったに過ぎない。

 この生への執着が、ただひとつの、地上への道の通行証。そして同時に、私の最後の鎧なのだ。

 この一歩が続く限り、その次の一歩は示され続ける。

 だから一寸先の暗闇を突き破ってまた新しい闇が眼前に立ち込めても、この足を踏み出し続けてさえいれば、ただそれで良いのだ。

 そしてそこには、開き直ってずかずかと迷宮を闊歩する自分の姿がある。

 石畳の一枚一枚に刻み込まれた、幾百人もの上帝軍の勇士達の心が、再び広大な荒野へと帰る日はあるのだろうか。いや、あろうがなかろうが、いつだってそう、彼らは帰ってくるではないか。私が生き延びさえすれば、私の心へ。私はその心を抱えて光の下で想いを放てばいいのだ。それならば、テドリクソンもアルナノートもエズィも、そしてまだまだ大勢の仲間達も、各々それぞれの足で歩むことが出来るではないか。

 その日はだが、いつ訪れるのだろうか。それとも、もう通り過ぎてしまったのだろうか。たとえ知る事が出来ないとしても、感じることくらいならば、ただ、どうにか……。

 昇降機がこの先にあるはずだ。

 地図に眼を落すのが数歩ごとになった。

 だが気を抜いて歩く事は決してできない。ここでは伝説の怪物を目の当たりにする事に何の苦労も必要ないのだから。扉を開けば、幾多の神話や伝説や物語が生きたままの姿で待ち構えているのだから。竜は言うに及ばず、巨人や鬼や悪魔などと呼ばれる連中が、劇場の大仕掛けではなく、竜殺し、巨人殺しの英雄たちを見下ろしたその目と共に姿を現し、禍々しい視線で貫いてくる。

 子供の頃、教会の教義の中の言葉には魔物を退散させる力があるのだと教えられ、刷り込まれたものだ。だが、あいにくこの地下迷宮の化け物どもは、 一応冷静になって現実的に考えてみれば分かる事だが、人間の言葉を解せるはずがない。せいぜい顔を歪ませ、これから楽しむ殺戮を想像するのか、薄汚く笑って腕を振り上げる。それで終わり。

 そう、それで終わりなのだ。死は一瞬の後に、その運命にある者を羽交い締めにする。

 地図を見た。これによるとこの扉の向う側に四階まで通じる昇降機があるはずだ。

 しかし、普段詰めているはずの兵の姿がなく、話し声もない。

 取っ手に左手を掛け、右手には剣を握り、押し開けた。

 戸は滑るように何の抵抗もなく開いた。

 嗅ぎ慣れた異臭がした。

 血の匂いが右手に力を込めさせ、全身を強張らせる。

 昇降機のその部屋では、壁の灯火が煙と共に血臭を立ち上らせていた。動く者は誰もいなかった。無惨にも引きちぎられた肉体が散らばっていた。どの腕とどの胴が対になっているのかすら最早とうてい分かりそうにはない。もの凄い力に蹂躙された跡が、氷河の避け目のように点在している。ただそれが石壁にも人の、否、人だった肉の塊について、ここで起きた事実を伝え、それを想像する事を容易くしている。

 大股で昇降機に入った。機械がどの様な仕組みを持っているのかは私には分からないが、箱は二つあり、片方が上がればもう一方は下がるという仕組みになっているらしい。内側に取り付けられている出っ張りを叩くようにして押す。これで四階を指定したことになる。そしてレバーを押し上げた。

 がくんという振動がして箱は揺れだした。乗る度に内臓が冬の大波に揺すられているような感じを受ける。

 壁に伸びていた血痕が昇降機との境で途切れている事の意味を考えると背筋が寒くなる。何の予測も立ちはしなかった。だが、四階で何かが起きているであろう直感は、ありのままに理解する。

 四階の昇降場のすぐ近くには討伐隊の駐屯地で、同時に前線基地となっている広間がある。そこには常時、数十名規模の騎士団が駐屯している。

 今では自分の経験すら否定したい心境にあった。すべての暗い予測を振り切って行きたくなったが私の中の引っかかりが、それを引き止めてしまっていた。

 暫くして振動が止んだ。私は目を開けた。

 静かだった。私は間違って更なる地下へ潜ってしまったのだろうかという錯覚を振り払いながら昇降機の格子を上げた。

 暗かった。

 明かりが灯されて壁に掛けられているだろうという期待は裏切られた。目に飛び込んできたのは、泥を纏った豚のように黒くにじんだ煤に被われた大きな松明だけだった。

 カンテラを掲げてみると、下層と同じ空気が湧き上がった。兵士達、この昇降場の兵士達の中に、いまこの生還者に声を掛けてくる者はなく、そして壁には無言の爪跡が私の視線を逸らすようにして走っていた。

 小走りに駐屯地の広間の扉に手を掛けた。躊躇いが私の脳裏に幻を降ろし、脚に寒気を与え、腕から力を奪った。だが勢いを殺ぐには到底至らない。

 人間は目と言う針穴からしか物を見てはいないものだが、その部屋の光景は、与えられていた使命をまっとうするには十分過ぎた。臭いも気配も凍りついた。

 弱々しく、壁の松明が灯っていた。二本だけ、いや三本だ。死体の中に影が浮かび上がり、また影の中に死体が浮かび上がった。

 臭いはもう、私を取り巻かなかった。

 カンテラを向けた先に、一際大きい影が現れた。高い天井の半分近くまである暗い存在が視界に入ってきた。

 幾本もの剣や槍が突き刺ささったその姿は動かなかった。その周りに群がり、折り重なっている武装した者達も動かなかった。ただ皆切り出された石柱のように静かだった。

 真横に存在を感じた。私はとっさに振り向いた。立つていた。微動せずにいた。立ったまま、剣の柄を両手で握り占めたまま、凍りついていた兵士だ。

 カンテラを持ち上げて大きな姿を睨み付けた。無数の溝がその皮膚には刻まれ、肌は昼の雪山のように青白く、角と顔は光りの中で暗く深い深淵のような彫りを見せていた。

 私の頭は左右に振られる事さえ、既に忘れられていた。気がつけば口の中に言葉は無く、ただ壁にもたれ、物思いに沈んでさえいるようにも見えるそれにだけ全視線を注いでいた。

 大悪魔……。

 やっとの事で胃から湧き上がってきた言葉は、たったその一言だけだった。震える脚を踏み出した。幾千の雄叫びや叫び、火や冷気が空間を切り裂く音が私を取り囲んでいるような気がしてならない。

 すぐ左で剣の振り降ろされる音がした。慌ててカンテラを向けても、血と肉片とカンテラの金具が立てたすばやく動かされた事に対するか細い抗議しか、そこにはなかった。

 背後で呪文の味唱が響いた。脚を大きく回転させ、そこにあった闇を薙ぎ倒した、しかし何も、誰もいはしなかった。

 剣も声も錯覚だった。

 迷宮の中で起こった惨劇は、ここの空気に充満して今なおこだましているように思える。ここがもし野戦場だったならば、彼らの魂も無事天へ昇る事もできただろう。なのに、ここでは……。

 もう一度カンテラを掲げその大きな姿を明かりの中に捕らえてみたが、闇の使者は身じろぎひとつしそうには無かった。その足元に倒れている一人の騎士に私は気付き、駆け寄った。その旧友、騎士として取り立てられる前の見習の頃からの戦友だ。彼の手に握られている、刃の欠けた剣が、ひしゃげている胸当てが、もう彼がここではない場所に漂っていると、私に冷たい気配をよこしてきた。

 私はその瞼を閉じてやった。そっと膝まずき、もしかすると、とてつもなく場違いかもしれない祈りの文句を呟いていたのかもしれなかった。

 もしこの勇敢な親友の戦士とその身近にいた仲間達の死が邪悪な魔術師の卑劣な罠によってではなく、光りの宿敵ともいえる大悪魔よってもたらされたものともなれば、勇者として戦いそして倒れた事に、彼らはただ一片の悔いもないだろうと私は思う。

 私は体の奥深くから湧き上がる感情を、その水門にて堰き止めようとはしなかった。しかし、もはやそれほど多く溢れ出してはこなかった。幾度と無く起きてきた事の前に、私の心の水門は、より堅く閉ざすようになっていた。私が再び立ち上がるのに、さして時間も掛からなかった。

 以前はあった怒りの灯火さえ、今ではその小さい火種を残してとうに燃え尽きていて、広間を再び見渡してみても、何だか自分もこの部屋の一部になってしまった様な感覚が拭えそうにはない。

 私なぞこの石畳の一枚に過ぎず、ここでの出来事に声を立てる事も、何かを思う権利もないような気がした。そんな重い気配が私を押さえ付け続けていた。

 行こう。ここももうじきに溢れだす虫や小物の怪物等に片付けられ、すべては何事も無かったかのように再度迷宮の隅のただの無言の闇に帰るのだ。私がすべき事もできる事も、もう遥か以前から、ここには何もありはしないのだ。

 戦友たちに背を向け、歩き出した。暗いところに住み着く小さな虫が、かさかさという音を立てて私の持つ光りから逃げて行く。その中の一匹が血の溜りの池にはまり溺れている。もがいても前には進まず、なおもがく。私は剣を引き抜くと、切っ先でその甲虫の尻を押し、池から這い出させてやった。虫は血を引きずりながら跡だけを残して暗がりに消えていった。

 辺りはまた無音に返った。ただ私の足音と鎧の摺れあう音だけが、置き去りにされたかのような惨めさと共に、後に残されていた。

 この四階には一階へとつながる昇降機があり、それは四階と 九階間をつなぐそれからわずか数十歩ばかり離れた所に設置されている。そしてその通路に平行する壁一枚を挟んだ場所がこの広間だ。

 重い左腕を扉に伸ばし、ねっとりとした空気の中、指を進めて取っ手に向かわせる。

 焼け焦げた壁も、ある時は帯状に、またある時は斑点状に続く血痕もそこで尽きていた。

 俯いたまま後ろ手に扉を閉じ、立ち止まった。顔を上げてもそこに浮かぶのはこのカンテラの明かりに照らされて、ぼんやりと揺れる石壁だけだ。そんな想いが私の首を抑えつけてしまう。

 歩きだしてみても、もはや腰の剣は小踊りをしなければ、はしゃぎ声を上げることもなかった。ただ虚無に憑かれたかのように呆け、かたかたと生気なくぶら下がっているだけだった。

 カンテラが暗闇と明るみの立場を瞬時に入れ替え、石畳が順番に淡く照らし出されてくる。その入れ替えの中に、呻き声が紛れているのに気が付いた。

 歩みを止め、耳をそばだてる。遠い場所ではない。

 暗闇で出来た薄い紗の幕のすぐ裏側だ。

 ほのかな想いが心に染み出して来て、それが流水の勢いに押されるように足を速めさせた。

 一際大きい呻き声と、さっきは気が付かなかった荒い息、それに小枝が床を擦っているような音が足元に転がってきた。カンテラを腕高く掲げると、そこにいた。男が壁際にしゃがみ込んでいる。彼に覆いかぶさるようにして、歯を鳴らしている大型の甲虫の頭部へ短刀を突き立てている。

 私はとっさに剣を抜き、切っ先をその巨大な甲虫に向け構える。足下に置いたカンテラの光を背に受け、薄茶色の腹の汚い光沢を私は、黒々とした自分の影で覆った。

 次の瞬間、私の影はその男の足の上に静かに寝そベっていた。

 魔術によって狂わされた虫は再度私に迫ったが、私はその悪臭の塊を剣で一刀の元に切り捨てた。

 私の影が再び床に寝転がった時には、逃げ去っていった虫の体液だけが、まるで引き延ばされた海草のように暗闇の向こうへと続いていた。

 肩で息をしているその若い兵へ駆け寄ると、小刻みに動く肩を揺さぶった。

「しっかりしろ」

 若い兵は薄目を開けて私を見た。その目はふとした安堵に出会ったかのようで、焦点こそはっきりと定まってはいないが、自分の生命が淡い死の淵から引き戻された事を認めているようだった。

 もう一度小さく呻いて、その男はよろよろと立ち上がった。そして壁にもたれながら私に腕を伸ばしてきた。私は無言でその腕を肩に回して体重を預かると、右手にカンテラをぶら下げ、左腕で男を支えながら歩いた。

 男は意識があるのかないのか、朦朧としている様子だった。しかしそれでいて、その負傷した脚を交互にゆっくりと繰り出して歩いている。

 揺れるカンテラの明かりは、強風の木立のように私達の影を揺してはまた石畳の上に新しい闇を落す。

 カンテラが、金具の錆び付きはじめの頃の独特の軋む音を立てている。私にはその音が、暗がりに潜んで私達を眺め、会話をしている小物の妖怪か何かの声のように感じ始めていた。その音の一定の刻みの規則性のなさが、より一層、私を貶めていくように感じる。しばらくして、きいきい言うその音が、でたらめに起きるのではなく実は私の呼吸と歩みに合わせている事に気付いた。

 私が立ち止まる度にカンテラも動きを止め、灯火も途端に無口になる。歩みとの関連に気付いていなかった私は、だからカンテラの軋みの音について、灯火が一人で喋り散らかしているように感じていたのだ。そして、だからこそ肩の男の荒い息も甲冑の石畳を叩く音も、同じ迷宮の中にいる者として、どこか親しみを持って近くにあると感じられたのだ。

 なのに歩みを止めると全て沈黙の中に走り去ってしまい、足下には虚無的な吐息しか残されていない。

 私はそんな気配を自分より背後に残して去りたいと感じていた。決して追い付かせまいと、いつの間にか自分も息を弾ませて歩いていた。

 男が突然足をもつれさせ、前へとつんのめった。私もバランスを崩しかけたが、右足を即座に突き出して踏ん張り、二人共が転ぶのを防いだ。その若い男の首筋に浮かんでは流れていた汗は石の床に垂れて、染みを作った。

 しかしそれも石畳の表面を流れていく時間によって削り取られてしまうのだろう。

 男を壁にもたれるようにして座らせた。休憩が必要だ。

 いくらか話を聞き出してもいいだろう。あの駐屯していた騎士団を壊滅に追い込んだ、あの大悪魔の様子や、私の友人たちの勇ましかったであろう戦いぶりなど、知らなければならない事は山程もあった。最も、その山が私の心の中でいかなる規模を占めるのかは、私自身にも果たしてよくは分かっていないのだが。この青年騎士はあの修羅場から来たのだ。もし誰かが彼は仲間を捨てて逃げ出したのだと言っても、どうして彼を責められる。誰も彼を責める事など出来はしないのだ。あそこに残った彼らとは、ただ単に勇気の種類が違っただけなのだ。あの戦いで命を落した者達を責める事は出来ない。否、むしろ彼等の方が私達以上に良くこの事を理解しているに違いないだろう。むしろ後から話を聞く部外者である私達の方こそ最も重要な事の本質を見落としてしまいがちになるのだから。ただ、これが私の自己弁護では無いと言い切る事も、私には、ほんの少しも出来はしないのだが。これが生還者として言い訳か。

 カンテラの光に驚いたらしい小さい虫達が、その目の痛みを避けるために闇を求めて急ぎ足で消えて行く。連中は私達が光を目指すのと同様にして暗がりを目指すのだろう。昼の明かりの下に生まれた私達と夕闇の隅に生まれたこの小さい虫達と、どこに違いがある。明かりが無いお陰で余計な物を見ずにいて、ただ感じる事が出来る物が真実だとして生きているこの小さい奴等の方が、私達よりも、よっぽど純粋な生き方をしているのではないか。闇の中を微かに流れる気配だけを頼りにして生きている事実の中に、私達が追いつくことの出来ない大き過ぎる何かがある気がしてならない。

 しかし果たしてそれが一体どういう物なのかは、実際どうでもよい事なのだろう。そんな事は軍人である私の考えるべき事ではない。騎士団の方針に提案する必要もない。ただ宮廷の詩人や隠遁の賢者等が書にでもまとめれば良いのだ。その場にいる者である私達が挑むべき事は、ただ、この、たった今繰り広げられている戦いから生きて帰る事だけでしかなく、未来の戦いを思い浮かべる事ではない。ただそれだけなのだ。

 前進し、立ちはだかる障害物を打ち倒し、またある時には逃げるという名の前進する事だけなのだ。本当にただそれだけなのだ。

 後ろを振り返ってみたが、もう死者の戦歌は聞こえてはこなかった。旧友の振り落す剣が空を切る音も、焼け爛れた喉を掻きむしりながらも止めない呪文の詠唱も、もうすでに遥か遠くに退いてしまっていた。いつの間にか、私達を取り囲んでいるのは沈黙し続ける暗闇だけになってしまっていた事に、私はようやく気が付いた。

 全てはこの闇の向こうに吸い込まれてしまったのだろうか。だから私はこの暗がりを抑えつけ、また踏みつけしながら進んでいるのだ。そうして彼らの魂の燃え殻を持ち帰ろうと歩んでいるのだ。

 私が生き続けている事。この歩みの中で足跡を残していく事ができれば、それを追ってくれる誰かに会えるに違いないと思う。

 そしてこの一歩一歩によって、地上の人達が私を闇からの使者に仕立てあげていくのだとしても、私が引き連れて帰る死者の霊と、闇の残りかすと、悲劇と勇ましい心との混沌を、光の降り満ちる地へと連れていく事さえ成せれば、ただそれで良いのだ。

 だから何も戸惑う事はない。真っ直に歩いていけば本当にそれだけで良いのだと、私は思う。

 男が呻いた。

「少し休もう」

 私が声を駆けた。だがきっと実際はこの若者のためではなく、自分に言い聞かせるために口からこばれ落ちたのに違いない。それでもこの場には、いずれにせよこの言葉が正しい。いやもっと安直に言うと、単純にふさわしいのだと思う。

 私の肩から半分滑り落ちるようにして、青年は壁にもたれた。私は彼から二歩程離れた所に立った。

「少し休んで、落ち着いたらいくらか話してくれないか」

 私はそう言うと腕を組んだり、足の位置をずらしたり、通路の左右に目をやったりしながら黙って待った。

「まずは、お礼をさせていただきたく存じます。私は駐屯兵団クーネイル分隊のコーマス・イルグザークであります。……お助けいただいておりながら、恐縮なのですが、一つ、お答えいただけないでしょうか」

 恐らく私は不思議そうな顔をしていたのだろうか、それとも苛立ちか疲労かを露にしていたのだろうか、その青年騎士コーマスの目は不安も安心をも通り越したかのような虚脱感に満ちた視線を私の背後の暗がりに泳がせていた。

「別に構わないが、何か」

 私が尻すぼみに言うと、コーマスは一瞬何か躊躇った雰囲気を加えまた目を伏せた。そして首全体うつむかせ、話始めた。

「……なぜ、私をお助けになられたのですか」

 口ごもる私を前にコーマスは続ける。

「ぼんやりと、考えていました。巨大な虫から助けられた時は、助かった、虫の腹に収まるのだけは何とかしたい、と。しかし助けていただいた場所からここまでの間、実は何度も何度も、置いて行かないでくれ、俺も連れていってくれと友の呼ぶ声がして、背後から私の肩やら足やらを掴んでは引っ張るのです」

 コーマスはもと来た道を一瞥してから続けた。

「しまいには、おまえ一人だけ逃がすものかとか引き擦り戻してやるとか……」

 私は腕組みを解き、コーマスの前にしゃがみ込んで聞いた。

「今も、その声はするのか」

 コーマスはまた通路に降ろされている暗い幕の先を一瞬だけ見てから、床に目を落した。

「いえ、今は。ただ……」

私はコーマスの目を覗き込んだ。

「ただ、何だ」

 いつの間にか、コーマスは、はっきりとその闇という幕を押し上げてその奥を、彼の歩いてきた道筋を、そして彼が牽きずって来た物の全てを恐る恐る、眺めているように思えた。

「ただ、このままでは彼らを置き去りにしていくのと同じではないかと。自分だけこうして逃げ出して来た事が、彼らの亡霊の慰めには到底なりえないのです。彼らが私を決して許してくれず、私に二度と陽の目を見せまいと私をここにさ迷わせ続けるのではないかと感じるのです」

 私はコーマスの言葉を肩に手を置く事で遮り意識の混濁から引き戻した。

「お前はクーネイルの部下だったな」

 コーマスは日だけで小さく頷いた。

「実は私も彼には以前よく世話になった。あいつには沢山借りがあったんだ。今でもあいつに生かしてもらっているようなものだ。西部戦役で敵に山ごと包囲された時の事さ、それ以降あいつの口癖になったんだ、とりあえずは生きろ、ただし死ぬ時は本気で死ね、そして誰かが本気で死のうとしている時はそいつのためにとりあえず生きろ、というやつさ。聞いた事あるか」

 私は今更何を言っているのだ。しかし自間に答える余裕は直ちに奪われた。

「でも、それを言ってしまったら、本当に逃げ出した事を認めてしまう事になるのでは」

 私をはっきりと見上げ、コーマスは言い放った。

「残された我々がそう考えなくて済むようにクーネイルは言ったんだろうが、分からんのか」

 言ってしまってから、はっとした。そして私の言葉は辺りを跳ね回り、足の間をすり抜け、耳にまとわりつきながらその場に何とか留まろうとしてさえしていた。私の耳に貼り付いたその言葉は、例に漏れず時間の流れに飲まれて次第にか細くなり、消えていった。

 静けさの向こうで、遠ざかっていくらしい怪物の低い唸り声だけがそこには残されていた。

 不意に、虚ろな目で座りこ込んでぶつぶつと石畳の目を数えてはそのまま冷たくなった者や、具合が悪いのかと思っていたら突然奇声を上げ剣を振り回し闇の中に走り去って行った者達をその名と共に幾人も思い出した。そして何より、地下十階に残してしまったアルナノートとテドリクソンの事を思い、私は壁に寄り掛った。

 私がさっきまで立っていた位置に置かれているカンテラがコーマスをばんやりと浮かび上がらせていた。彼の目にも、私は同じように映っているのだろうか。

「……だとしたら、本当はどんなに辛いか」

 そう呟いた私の言葉はそのまま私の足下に落ち、次第に小さく弾みながらコーマスの足下へ転がって行った。それを彼が拾ったからなのか、コーマスが顔を上げ、言った。

「なぜ私は逃げ果せる事が出来たのでしょうか」

 私はここまでこうして歩いてきた自分を思いながら、コーマスに近づいてしゃがみ込んだ。人は本当は喉から声を出してはいないのではないかと錯覚するような声が自分の口から漏れた。その呟きに、私は少なからず驚きながら自分の声を聞いた。

「私に分かる事は、生き残ろうという意志と、その意思を私に託してくれた者達がいたという事だろうか」

 コーマスが顔を上げた瞬間からそこに張り付いていた、沈鬱な瞳を覆い隠そうとする表情は動かなかった。

「私には、その様な意志が始めからあったとは、とても思えません。ただ怖くなって逃げ出しただけなのです」

 俯いたコーマスの目は、垂れ下がった前髪によって見えなかった。

 私は思い付くままに任せ、言葉を続けた。

「その意志は、恐らく偶然与えられる物なのではないだろうか。事実、私自身、ここにいて、こうしている事が偶然の連続以外の何物でもないのだから。様々な偶然の積み重ねが私に生きる意志を起こさせたのだと思う。だから、もしかしたらお前を助けたのが私でない他の誰かであっても、全く不思議は無いし、その誰かが、たまたま運良く生き残った私であっただけの事だろうと思う」

 したを向いたままコーマスが何かを呟いた。その小さな言葉は私の足下まで転がってきたがそこで泡のように弾けて消え、私はその言葉を聞き取れなかった。しかしそれは何と言ったのではなく、ただ一言漏らしただけのようだった。

「運……」

 コーマスが顔を上げた。その目には押さえ込まれた不安と、新し萌した強い意思とが交錯していた。

「私は、運が良かったという事なのでしょうか」

 私の脳裏に別れの挨拶を、ほんの砂の一握り程の言葉も交わせなかった仲間達の顔が次々と浮かんでは消えた。

 そんな彼らの表情に、私は言葉を詰まらせた。しかしそれは不思議と私に力を与えてくれた。

「そうだろうな、私が思う限りは」

 心からそう思っている自分がそこにはいた。すでに迷いは無かった。

 間もなく一階へ繋がる昇降機へ辿り着いた。

 互いに無言のまま昇降機に乗り込む。守衛の兵士の姿は見えなかったが気にも止めなかった。

 腹の底へ届く音が一度だけ響いた。不快だがもう慣れたその揺れが私たちを取り巻いた。

 コーマス・イルグザークは目を閉じて壁に寄り掛り、体をその揺れに任せているようだ。脚の傷が深いのか、声こそは発しないものの、苦痛を耐えようとする様子が寄せた眉と目元から伝って来た。

 だが声を掛けてはいけないという気がしてならない。

 この場の空気の流れを乱す事は決して許されないと感じる。ここでは互いに口を閉ざしたまま、空気をかき乱すことなく、ただ時の流れと共に、自らも流されなければならないという気配だ。そんな何でも無いような義務を忍ぶように守っている。その膠着した時間を打ち破れない自分がいた。

 もしここにどんな歌の巧みな者や、芸の達者な者を連れて来たとしても、また喋る事を生き甲斐にしているような婦人達を呼んで来たとしても、その意欲をすべて失ってしまい、ただ薄くなった存在感の影になって壁に吸い込まれてしまうだろう。いや、人だけではない。きっと鳥や犬を連れ込んだとしても、隅で小さくなって震えているかも知れない。そんな空気がここには立ち込め、支配している。

 しかしこの支配を、今は解こうと思わない。

 支配を脱しようと暴れてもいいだろうが、心の裡に既に築かれてしまっている壁を剥き出しにしたままで互いに向かいあっても気分が良いものとは思えない。むしろこの漂う空気と気配が薄い霧となって、静かにそれらを覆い隠してしまっている方が良いのではないだろうか。

 ここでは、本当の意味で自分を守る最後の鎧はその心の壁なのだから。

 それをむざむざと露骨に現したり壊したりする必要は全く無い。

 だから今は、この不愉快な振動に身を預けてしまう事が今の私達に残された唯一の可能な事なのだと思う。

 私は果たしてこのような所で一体何をしていたのだろうか。陽の光も、もう長いこと浴びていない気がするが、今は不思議とそれらが懐かしいなどとは到底思えそうにはない。私が切り倒した魔物は実際何体だったのだろう、途中までは数えていたのだが、その数も始めから数えていたわけではない気がする。

 全ては真昼間の夢のような物なのだろうか。しかし醒めない夢などありはしない。この繰り返す悪夢が現実なのだという事を、私は当の昔から知っているのだ。

 だが、目を逸らし、しばしの間だけ、別の世界を見つめる事は許されている気がする。本当の意味での現実を肌で感じた事のある者ならば、むしろこのような御託云々の以前に、本能的にそうした心の避難所を持っているに違いない。だから、そうした別の世界は、ただの甘い夢想ではなく、限りなく遠い憧れとして存在しているのだ。彼らが垣間見たその憧景を、私は今やっと感じる事が出来た気がする。

 迷宮に潜り込んでから、この瞬間までの間の事を私は細切れにしか思い出せなくなっているのに気がついた。

 忘れまいとしていたその結果がこれだった。

 だが、思い出そのものに何の価値があるのか。それらはこの昇降機の揺れの中で、私の肩から次々とこぼれ落ち、どこかへ転がっていくだけなのだ。そしてもし、落ちた後に私からはぐれまいと足下にしがみ付くものがあるとしても、しかし私はきっと気付かずに踏み着け、蹴り飛ばしてしまうだろう。そしていずれ皆去っていくに違いない。

 先ほどから感じ始めたこの、ほのかな懐かしさは何なのだろう。どこからとも無く湧き上がるそれは私を包み込んでいき、どこまでも広がっていくかのように感じられる。

 迷宮に入ったのは、百二十名からなるワードナ討伐隊の第五陣としてだ。最初の三回の作戦がことごとく失敗し、最大級の準備と兵力で挑んだ第四回が迷宮最奥のワードナにまで辿り着いた数名を除いて壊滅したという報せの翌日に倒伐隊第五陣は編成された。

 私達は次々と狭い回廊を進んでいった。四階には程無く到着し、駐屯の騎士団から情報を受け取ったり、人員を交替したりした。そしてまた前進した。当然、百二十名の大人数が一度に昇降機に乗り切れるわけが無い。そこで部隊は分散されてしまった。

 なぜ九階で再編成しなかったのか。そしてなぜそんな後続部隊を置いての小人数に分割されたまま十階に押し込んでいったのか。かつての生存者の言葉は指揮官の耳には届いてはおらず、若い兵達はワードナの首にぶら下がる報奨に目が眩んでいた。

 その地下十階へ至る階段だった所を埋めてやっと人一人が通れる程度の抜け穴にしてしまったのも、最下層の魔物を上げないためであると同時に、将たる指揮官の無策をさらに助長させる結果になってしまっただけだった。だから百名の部隊を統率するはずの将軍閣下がたったの十数名の部下しか引き連れてはいなかったのだ。

 そして暗闇から姿を現した魔物を前に、城内で貴族連中と王にへつらう経験しかしたことの無い奴らや、まだろくな訓練も受けていない大勢の新兵達は狭い空間を逆手にとって有利に戦うこともできず、ただ右往左往するだけではなかったか。

おそらく、少しでもまともに戦えたのは、西部遠征から帰ったばかりの私達だけだったのだろう。

 しかし私達は仲間をあまりにも大勢失い過ぎた。作戦はそもそも始めからとうに失敗していたのだ。

 狭いこの場所で直接統制が取れるのはせいぜい片手の人数だけだ。そしてその統制された部隊同士を連携させて波状攻撃をかける。これが正攻法だと断言できる。実際私の部下はしまいには五人で戦っていたではないか。

 だが……私はその五人をも失ったのだが……。

 目を開けて、右手側にいるコーマスを見た。座り込み、目を閉じている。肩が小さく上下しているところから見るに寝入ったのだろうか。

 将軍閣下は果たしてワードナのもとへ辿り着けただろうか。それとも、もっと手前で竜か悪魔かに引き千切られたのだろうか。もし辿り着く事が出来たとしよう。最初の火炎の魔法は親衛隊が盾となって防いでくれる。だが、それに続くであろう凍結の呪文に、ただの肉塊に過ぎない男が耐えられるものか。戦いはおそらく、ほんの一瞬迷宮の空気を揺らす程度の間で終わるだろう。

 上帝陛下からワードナが盗みだしたという品が、果たしてどのような物なのかは、私には想像もできないが、相手はそれだけの能力を持つ策士だという事だ。

 冷静に感じ、考えれば何もかも予測出来た事ではないか。しかし地下十階では、私でさえ狂人となり果て、無益な突撃を繰り返した。

 そしてそれらの結果、すなわち折り重なった死への責任という鉛が私の胸中を埋めた。私の歩みも一歩ごとに石床に沈み込んでいくような錯覚を起こさせる。

 しかしそれでも私は歩き続けなければならない。たとえ脚を牽きずってだとしても。

10

 小刻みな振動が一瞬止まったかと思うと、 一度だけ大きい揺れが来て昇降機は停止した。

 格子の先に新しい通路が現われた。

 持ち上げたカンテラを向ける。その格子の向こうに豚の鼻を持つ醜い怪物が数匹、頭を寄せあっていた。こちらの様子には気付かず、下品な音を立てもぞもぞと動いていることから、夢中で食事をしているのだとすぐに分かった。

 コーマスはすでに剣の柄に手を掛けていた。私は目配せして制止した。

 私は音を立てないように注意して数歩、格子側へ進んだ。もっとも連中が私の足音を気付くかどうかは別だ。そしてゆっくりと剣を抜く。舌なめずりするかのような音が、鞘の口からこぼれ落ちた。

 鉄格子の間から一番手前にいた怪物に切先を向け、狙いを定めた。

 右腕を引き、力を溜め、一気にその背に刃を突き立てた。カンテラの反射は数歩先の暗がりを切り割き、剣は大地を打つ稲妻さながらに光ったた。

 肉に剣がめり込む不快な音に続き、怪物は大きく飛び上がるように撥ね上がり、横に倒れた。

 剣を引き抜き、格子の内側へ戻し、構え直す。

突然の出来事に人型の怪物達は混乱に陥った。叫び声を上げ皆立ち上がる。隣の怪物に襲い掛り爪を立てる者。食い物を掻き集めながら狼狽する者。そして、私達に気付く者。

 一体が私達に気づくと他の連中もそれにならってこちらを見た。間髪入れずに豚人間共は私達めがけて走りだした。しかし皆、格子にぶち当たって引っ繰り返った。だがすぐに立ち上がっては格子を掴んだり叩いたりして大声を上げた。

 私はじっと狙いを定めると、その中の一体に剣突を喰らわせる。

 返り血が私の鎧と床を汚した。その怪物の口元に次の一撃を繰り出した。怪物はどうと倒れた。

コーマスも別の一体の腹へ、一撃を与えたところだった。

 一瞬しんと静まり返った後、豚人間達は一日散に迷宮の闇の中に走り去っていった。

 いや違う、その倒された怪物の脇にうずくまっている怪物が一頭いた。

 突きの姿勢で剣を構えたが、距離が足りない。私はレバーを押し上げ格子を開き、昇降機を出た。その魔物は私達が側を通り抜けても、身構える事もなければ顔を上げる事もなかった。ただすすり泣きが回廊の床を薄く覆っているだけだった。

 私はある時一人の賢人から聞いた言葉を思い出した。静寂は空間を支配などしない、ただそこに立ち篭めているだけなのだ、と。

 地下十階とは違う空気、地下九階とも違う気配が地下一階にはある。

 希望は、かつて肌に突き刺さるような重圧によって私の胸のうちで膨らんでは弾けしていたのに、ここでは私の中の希望や期待や諦めや絶望は皆、影を潜めてしまっていた。

 暗闇から暗闇へ、何かが走り去っていく。それに対して気に留める必要もなくなっている。より深い階層では、それらはすべて罠であった。しかし、この階ではただ暗闇を好む小動物が走り回っているだけだと考えておく事ができる。このことが私達の精神にどれだけ大きい影響を与えるのかを考える余裕さえ生まれている。

 生還者と呼ばれた者達は、皆一様にこの感覚を味わったのだろうか。

 相変わらず沈黙は続いた。

11

 不意に現われた扉に忍び足で近付き耳をあてても何も聞こえてはこなかった。

 剣を構えたまま蹴り開ける。

 何もいるはずはない。どんな魔物もいるはずはないのだ。

 あるのは、せいぜい自己主張の激しい静けさだけなのだ。

 遥か地底にあったような、死の匂いを満たし押し黙った沈鬱な空気でも、張り詰めた沈黙でもない。何かへの期待を胸中に繁茂させるような、ざわついた静けさだ。

 私は、にわかに落ち着かな気にさせられているのを素直に認めざるをえない。そういう気配が辺りには充満し続けていた。

 突然、狼か犬のような叫び声が耳に飛び込んできた。

 数歩先の曲がり角から殺気が漂ってくる。

 立ち止まり、武器を構える。コーマスも腰にくくり着けられている短刀を手探りで確認しつつ、長剣を持ち直した。

 回廊の向こうから、叫びや唸り声が織り重なるように次々と現われては更に奥へと消えていった。続いて金属のぶつかり合う音。次第に悲鳴に似た叫びが混ざり始め、刃物が肉を裂く音が連続した。犬の唸る様な声はまた大きくなり、金属音は更に響いた。

 曲がり角の暗闇から目の前に突然、犬の頭部を持つ怪物が倒れ込んだ。

 その角から新手が現れ、倒れたその者の上に素早く伸し掛かり、手にした短剣が一閃した。

 もはや何の感情も湧いてはこない。聞き慣れた音が迷宮の壁にこだましても、ただ呼び覚される記憶はその魔物の急所はどこで、どうすることでいかに手早く倒すことができるかだけだった。

 断末魔の叫びが、辺りに満ちていた他のすべての音に噛り付き、喰い破った。

「化け物同士の諍いか」

 コーマスが呟いた言葉だけが、その中で空気を突き抜けて私の耳に飛び込んだ。

 怪物が驚くほど首をゆっくりと回し、こちらに目を向けた。私は剣の柄を握り直し、間合いを取った。

 首だけをこちらに向け、背を丸めたまま、魔物は立ち上がった。その目には怪しい光を灯している。否、あれはただのカンテラの反射だ。動物が光に反応しているだけの事だ。

 私は右側の壁にすり寄った。怪物は左へ回った。手にしている短剣の切っ先から、よく見れば赤みがかっていたかも知れない、ぬめりを感じさせる黒い液体が糸を引いて垂れ、床に影の様な染みを作った。私は怪物から目を離さずに、カンテラをゆっくり床に置いた。

 再び立ち上がり、コーマスに目配せをした。

 魔物が後ろ足に力を込めて跳ねた。

 剣を繰り出し、渾身の力で突いた。しかし外れた。

 だが相手の位置は目で追っている。素早く左足を踏み込み、また突いた。魔物は意外に俊敏で、上体を反らして避けた。私の二撃目は、わずかにその毛を刈っただけだった。

 魔物は一気に目の前まで詰めて来て、大きく開けた口から涎を飛ばしながら短剣を振り上げた。

私はむしろ、右足で床を蹴り、相手に飛び込むように肩から体当たりを喰らわせた。

 犬面を引きつらせて尻もちを突いたその妖怪をめがけて、私は剣を大きく旋回させて振り降ろした。

 刃は肉の間に分け入って骨に噛みつ付く。更に奥ヘ潜り込もうとする刃を引き戻し、今度は垂直に突き込んだ。

 コーマスが走り込み、体を起こそうとしていた所を踏みつけ、長剣で首を突いた。

 狂える神の戯れに生まれたのか、暴走した遥か古代の魔法の産物なのか、地下迷宮の一階でその姿を見かけるこの異形の化物は二三度小さく痙攣した後動かなくなった。

 回廊は静まり返っていた。もう物音も唸り声もしなかった。

 ただ目の前に転がっている二つのまだ生暖かい死体を見下して見据えてみても、その黒い眼球には凝縮された深い暗がりがあるだけだった。

「残りは逃げたのですかね」

 コーマスが言った。

「どうやらそうらしい」

 私が言った。

 剣を大きく振って刃に付着した血や肉片を飛ばし、鞘に納めた。

 石畳の上に倒れた者に、何の未練も感慨もありはしなかった。そして、再び歩きだした。

 その角が本当に最後の曲がり角だと気付いたのは、その直後だった。流れてくる臭いに、もう血の雰囲気は無く、心の内側から強い懐かしさが染み出してきた。

 同時にコーマスの顔に浮かび上がっていた異常な玉の汗に、私は初めて気がついた。意志という背もたれに支えられ、辛うじて彼は立っていた。なぜもっと早く気付かなかったのか。コーマスは、何かの毒に冒されているという事に。

 地下に潜ってから今まで、私の小さな太陽となって照らしてくれたカンテラの明かりの中に複雑な思いが交錯し、影をその顔に刻み込んでいる。

 喉まで出かかった言葉は口まで達する事なく、唇から空気の渦がこばれ落ちただけだった。

 コーマスに近付き、肩に手を置いた。普通に歩いて近づいたはずが、私はおそらく、よろめいて進んだのだろう。奇妙な重い不安によって文字通り足を取られたのだと思った。

「何か……」

 青ずんだ眼を不思議そうに傾けてコーマスは私を見返した。

 私は一度だけ縦とも横とも分からない方向へ首を振り、コーマスの肩に掛けた手を降ろした。コーマスはしかしその直角に曲がる回廊の先を見詰めていた。

「行きましょうか」

 すでに足を繰り出しながら、コーマスが言った。私は無言でその後に付いて歩き、角を曲がる時真横に並んだ。

 もうその通路には、かつて嗅いだ迷宮らしい臭いは微かしか含まれてはいなかった。

 どんなに口と鼻とを大きく開いて息を吸い込んだとしても、あるいは耳を澄まして闇を凝視したとしても、決して地の底に漂う腐臭も、絶え間なく耳孔に残って止まない呻きや唸りも、照り返しす血や体液のぬめりが染みを作っている回廊も、もう私の前に現われることはないのだ。

 一歩、また一歩と進むうちに胸が微かに高鳴り、熱くなるのが感じられる。昼と夜ではなく、絶望と希望とで区切りとした一日を、もう何千年も過ごした。その終焉が今、私の眼前に近づきつつある。私はその終わりの瞬間の声なき招きに導かれるように歩いている。そしてその導きは、じれったそうに幾度となくこちらを振り返り、私の手を引いているのが、はっきりと感じられる。

 いや、私は今、実際に手を引かれているのだ。口元が笑い始めている自分に気付いた。

 想像の彼方にあった地上。出口への想いを何度も心の中に埋めてしまおうとして、その度に諦めきれなかった過去の自分自身に今だけ少し感謝をしながら、一歩一歩進んだ。

 迷宮の階段の一段目を踏んだあの瞬間から、どれ位経ったのだろう。この地下に広がる呪われた回廊に倒れていった勇者達の人数と、同じだけの数の季節が地上では巡り、また変わりしたのだろうか。魂と時間の前には、金塊や宝石の輝きも萎れ枯れ果てる。実感の無かったある老賢者の言葉がここでは、私の心の中にその巨大な錨を下していた。だが、私はいつまでその錨を忘れずにいられ、流されずにいられるか分からない。感情と理性とで組み上げられた本音で考えても、その自信はない。

 そして他の誰にもこの事を分かってもらうなど出来はしない。これはこの地獄の茨の茂みを自ら素手で掻き分けて進み、焼ける石の上を歩んだ者同士でなければ理解する事も出来ない。同情でも何でもない、真の意味で共有した者だけができる、労りに違いないのだと思う。

 無数の扉を越え、迷い道を通り、今、遂に最後から二番目の階段、地上と地下との境目となる小広間へつながる短い階段が現われた。

「コーマス、後一息だ」

 半歩後を歩いているコーマスを振り返って言った。

 急がなければ。小さく頷いたコーマスの瞳には生気がなくなりかけている。さっきからただ一つ、体の芯に微かに残る意志の力にしがみ付くのみで、コーマスは辛うじてその魂の尾を手放さずにいる。

 急がなければ。早くこの若者を寺院へ運び込み、解毒の治療を施さなければ。

 私がその階段に足を掛けた時、コーマスは前のめりの姿勢で倒れた。とっさに腕を伸ばし、私は彼を支えると、彼の腕を私の肩へと回し、担ぐようにして一気に階段を上った。階段は右方向へに曲がりながら続いた。

 小広間に駆け込んだ私の頬にぶつかって来たものがあった。それは次から次へと私の全身に当り、あるものは弾け、またあるものは私の体をすり抜けていった。

 濃い何か、途方もなく古い記憶を呼び覚まし、懐古感の彼方へと私を連れ去ろうとするそれは、夢にまで思い続けた外気だった。

 冷たい、しかし地下十階の冷たさとは驚く程異なるその冷気は、地上への出口へ続く、正面の階段から降りてきていた。あたかも、山から下って来た川が平野で三角洲を作るようにして流れ込み、床を這い、静かに渦巻いている。その階段下のわずかな空間に、光がもつれあっている。

 雪だ。雪がある。

 光そのものが固形化したかのような雪。雪が入り込んでいて、各段の脇にうっすらと積もっているのだ。

「コーマス、もうじきに、地上だ」

 それが本当にコーマスに向けられた言葉なのか、自分の内側の深い自己に向けられた言葉だったのか、到底私には分からない。

 立ち篭める冷気の中を泳いで、その小広間を横切って進んだ。吐く息の白さが、一息ごとに濃くなる。

 そのわずか十数歩の距離に、私は夕暮れに家路へつく子の思いを見た。

 もう氷となって潰れている雪片に足を掛け、最初の一段に爪先を乗せた。

 見上げる事は出来ず、微かに耳に当る雪と、踏み付ける雪の音が、私を時間の深い澱みから浮かび上がらせてくれた。

 階段の隅に積もっている雪が増えていった。そしてその吹き溜りが最も大きくなったその瞬間に、階段は、壁は、血臭と腐臭、そして無残に引き千切られた希望や想い、絶望も、全て尽きた。

12

 ちらちらと振り落ちる雪の最後の一片が今、大地に辿り着くのを見届けた。

 私はもう随分と長い間した事のなかった動作、首を反らせて頭上を見上げる事をした。

 雲が流れていく。

 雪が止んだのだ。

 雲は互いに織り重なり、押し合い、寄り合いながら大気の中に分け入って流れた。

 私は呆然とその雲と風とを眺めながら、もうこの自分の立っている場所がさっきまでとは違う世界なのだと感じた。

 もう戻る事はない。

 小さい呻き声が右脇から聞こえた。コーマスがゆっくりと面を上げ、眼を細めるのが横眼に見えた。

 霞がかったリルガミンの城と周囲に広がる城壁と、高く突き出た都の尖塔が幾本か見えた。

 さらなるその向こうに裾野を広げ、右手から左手ヘ抜ける山々が黒々と浮かび上っていた。大地から雲へと連なる巨きな存在として。

 その雲の峰は、交互に入れ替わり立ち替わりして、動いていた。

 沸き立ち、また沈みながら、巨大な鳥が灰色と白との入り交じった羽をはばたかせているかのように雲塊は舞い、進んでいく。

 記憶の崖の上にあったあの雲に酷似している。……冬の終わりに近い日々に決まって現われる風と雲だ。古びた油絵を見ているような、そんな気持ちに近い感情が私の背骨から頭へと昇ってきた。

 私はその時、剣の刃渡り程の細い雲の裂け目にある青い空に気付いた。

 光りだ。

 一瞬、淡く白く輝く、暖かく、優しい光に包まれた。

 ついその眩しさに、右手を庇にして目を覆った。辺りが、まばらにある雪のためか、白くぼんやりとしている。光と手で、遠景は覆い隠された。

 誰かが呼んでいる。耳に慣れた声だ。幾つもの声が私を取り囲み、人の存在感だけが大勢、背後から迫って来て、脇を通り過ぎていった。

 私は動けず、その古い声にだけ耳を澄ましていた。

 静かなざわめきの中、陽の光は乳自色に溶けて、ぼんやりとした明るさを持っていた。

 人の気配が私を振り返りながら通り過ぎて行く。懐かしい気配は皆、行ってしまつた。

 私は庇にしていた手を、その背中に向け伸ばし、言葉を発してみようとはしたが、それらは全て空振りに終わった。私は足を踏み出す事が出来なかった。陽の光が再び私の目を眩ませた……。

 その光は一瞬であり、しかし長くも感じた。遠くの山並みや巨石を組んで築かれた城壁が光の中から再び現われた。

 ちょうど陽はまた厚く織り合う雲間に沈んでいこうとしていた。

 その雲間も今、閉じる。

 去っていった旧友達の言葉が、声が、転がるガラス玉のように私の周りに散っていた。

 私はその言葉達をしっかりと抱き締めて、また歩き出した。

 私は数十メートル先の騎士団の小屋までの道程を、潰れ、互いに交じり、そして更なる上からの力に耐えながらひっそりと黙して息づいている雪を踏み固めながら、私の肩で小さく呼吸しているコーマスを連れて進んだ。

 一歩、また一歩、歩く速さで体の中の凝り固まった全ての物を、少しづつほぐして吐き出す。私の想いは自く立ち昇る息となって、雲を目指して還っていく。しかし私はもう振り仰いでそれを見上げようとはしなかった。体の奥から溢れ出る物を止める事も決してなかった。目元でそれは凍ることなく、私の体温とともに湯気となった。

 ただ何もかもを、自分の踏み締める雪が立てる、小さな唄の断片に似た微かな音と声にだけ、信じる事の全てを任せながら、私は、ただ、歩み続けた。

(完)

(98・9・21 午前11時23分)