notes for thinking―考えるための備忘録
日本の歴史02 王権の誕生|P134(抗争と戦争の区別)|
人間が共同体を作り、テリトリーをもって生活する段階であれば、狩猟民であろうと農耕民であろうと、争いごとのない社会を想定する方が不自然だ。事実、世界の多くの狩猟民の間で集団による戦いは報告されている。
しかし、そうした「抗争」はごく日常的で些細な私事に端を発して、集団暴力へとエスカレートする場合がほとんどだ。彼らは個人や集団の名誉のために、そして軋轢の原因となった目前の問題解決のためだけに戦う。だから、そこでは常に準備され改良された専用の武器や防具は存在しない。当然、戦略とか防衛設備だって発達しない。つまり、戦いが組織的、体系的、計画的ではないのだ。私はこの点で、「抗争」と「戦争」を明確に分ける必要ああると思う。
戦争とは、ある共同体が自らの共同体を滅ぼさないように存続させるために、さらには経済的にも政治的にもより一層有利な生存条件を手に入れるために、外部へ向かって発動される、最も露骨で暴力的な権力の姿なのだ。戦争とは多かれ少なかれ侵略意志がともなうものだ、と私は考える。
だから戦争は、社会的条件と社会的通念が成熟し、武器、防具、施設などが揃った時に初めて勃発する。縄文人が平和主義者だったのではない。戦争が生まれる社会環境がまだ十分に整っていなかっただけだ。これらの要素は、水稲農耕とともに伝来したけれど、その条件が倭人社会に整ったのは、水田稲作が西日本に定着した弥生時代前期の後半期なのである。
2022.6.28
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