2026.3.28
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© FilmCow
【おことわり】この記事は本作を偶然知って一気見した筆者が「夜中に見たあのショートアニメは何だったんだ……」と取り憑かれ、翌朝から一気に書き上げたものです。内容の正確性には努めていますが解釈や認識に間違いがあれば、すべて筆者の責任です。また国内での本作の認知状況については十分に調査できていません。本作品の性質上、残虐描写が含まれています。あらかじめご了承ください。
・ 「カァァアール! 家の中に死体があるぞ!」──驚くほどゆるい不条理ギャグアニメ
・ ツッコミ役が離脱してしまう、予想を裏切ってくるシリーズ後半
・ 観客が神か? 作者が神か? ブラックユーモアの刺激のエスカレーション
・ 人類と文明を終わらせたその後。荒ぶる破壊神は救済されうるか?
・ 無か、転生か。残虐非道の限りを尽くした者の末路
・ カールの正体はラマの皮を被ったホモサピエンスか?
・ 裁かれる価値さえない、かもしれない存在
・ タロットの大アルカナで読むカールの運命
・ 殺戮者を制止できなかった善者ポール
・ 無惨に殺された人類の復讐は地球が行ったのか?
・ 「いい日だ、友よ。そうだろ? どこかではそのはずだ」──周回遅れで来たセカイ系
2009年に第1話が公開され、その異常性から知る人ぞ知る的カルト作品となった『Llamas with Hats』(ラマズ・ウィズ・ハッツ 直訳"帽子をかぶったラマたち"、Jason Steele監督、FilmCow 制作)は、シンプソンズなどの系譜の延長上にあるアメリカン・ブラックコメディのエッジの効いた極北だ。
登場人物、いや、登場ラマは2頭。カールとポール。あとは物言わぬ犠牲者たち。
カールは異常者で無自覚かつ無慈悲で一切の躊躇なく凄惨な事件を引き起こす。ポールは常識的な性格をしていて、カールの残虐な行いに対して「カァァァール!(Caaaaarl!)」と絶叫して非難する。
本作は1話完結で全12話。1話あたり約2分のショートフィルムだ。1話ごとに殺戮と破壊がエスカレートしていく悪趣味を地でいく展開だが、後半は絶望的な大破局後の世界とカール自身の精神崩壊が描かれる。そして2024年に「エピローグ」が公開され、12話の結末のその後が語られて全エピソードが閉じた。
筆者が本作を知ったのは、実は最近(本記事を執筆・公開する2日前の3月26日深夜)だ。Wikipediaに日本語ページもなく、日本語圏のSNSでネットミームになったようすも見られないので、ほぼ知られていない怪作といえる。
本作は全エピソードが公式配信されている。英語のみだが、自動翻訳で内容は十分に把握できる。むしろ内容を拾いきれなくても、トークに耳を傾けて欲しい。シュールな会話で成り立っているので、まずはこの2頭のラマの語り口調を聞くところからが、この作品を面白がるための入り口だ。
https://www.youtube.com/watch?v=olxXLDqDzcU
第1話の冒頭からしてこうだ。(拙訳。以下、本作の脚本翻訳は筆者による)
ポール「カール! 家の中に死体があるぞ!」
カール「あぁ、本当だね。どうやってここに来たんだろう?」
ポール「お前がやったんだろ、カール!」
カール「僕は人殺しなんかしないよ。そんなの僕の一番イヤなことだもん(I do not kill people. That is my least favorite thing to do.)」
だが真相は、カールが男の胸を37回刺し、さらにその手を食べてしまったと白状する。殺した理由も「来たから」。人肉食をした理由も「お腹がぺこぺこだったから(My stomach was making the rumbles that only hands would satisfy.)」。本作ではこのような不条理的なやりとりが続く。極めつけは、カールが殺して死にゆく人々の苦悶する声を「許しの音だよ(That is what forgiveness sounds like.)」とさらりと言ってのける。
一見するとユルすぎるキャラと的外れ過ぎる不条理系のセリフ、常軌を逸した殺戮現場という行動のギャップから公表直後からだんだんと話題になったらしい。
※以下、最終話までのネタバレを含みます。
本作はカールの異常行動と殺戮で冷笑的なウケを取るというブラックユーモアの典型だ。実にアメリカ的な内容でもある。第1話の犠牲者は1人の男。だが、あっという間に犠牲者は拡大し、豪華客船を沈め(第2話)、町を焼き尽くし(第3話)、さらに核兵器らしき大量破壊兵器を使用して都市を丸ごと吹き飛ばしたうえで人面の皮を誕生日の飾り付けにする(第3話)するといったように膨らんでいく。2話目でカールが客船から乗客が脱出できないようにしている説明を嬉々としてするあたりからドン引きで、もう笑えないだろう。笑うにしても引き攣りながらの笑いかもしれない。だが本作を見通すには「無茶しやがって…」と苦笑いしながら見られるメンタルが必要だ。不条理、不謹慎、悪趣味と三拍子揃った稀有なブラックユーモア作品である。
だが本作は5話以降、徐々に不条理的破壊(殺戮)からポールの離脱とカールの自己崩壊へと様相が変わっていく。これをブラックユーモア(ギャグ)から悲劇への転換と捉えるか、不条理劇の深化と捉えるかは解釈の別れるところだ。だが作中での事実として、ポールはカールに対して愛想を尽かしてしまう。
ポールがカールを抑制する「ブレーキ係(リミッター)」だったと解釈する手もあるが、実質的カールの暴挙はエスカレートしている。ポールはカールを事後に非難はするが、破壊そのものを止める力を持っていない。11話でカールは世界を破局へと陥れるが、滅亡世界でポールはもう生きていない。
ポールが去ったあとのエピソードでは、カールはポールの仮面(これも実にチープで、縁日の「お面」のおもちゃ程度のものだ)を作り、一人二役で会話する。カール自身は破壊と虐殺を自らの「芸術(Art)」と表現し、ポールの反応を求め続けていたのである。
ポールの仮面は、カールの意識の投影である。11話で「仕事を完遂しろ(Finish your work)」とカールに命じるが、これはカール自身の破壊衝動そのものである。一方、カールはポールの仮面があることで、ポールを身近に感じている。もちろんこれは幻覚・幻影・幻想であり、孤立からの逃避にすぎない。
一方で本作は、シリーズ企画として視聴者の反応をリアルタイムに感じながら制作が進んだとされる。これは結果的に、制作者と視聴者の関係性が、ポールとカールの関係に作用するメタ的な構造を生み出している。
たとえば、カールを制作者自身と仮定すると、過激な表現を追求するクリエイターとなり、ポールはその過激表現にやや引きながらも付き合っていえる視聴者の姿と重なる。視聴者がブラックユーモアがグロテスクでスプラッターであることを分かりつつ、それでもより刺激的なものを求めてしまう。それに応えるように、制作者は前作よりもより過激な内容を描いてしまう。
だがポール(観客の関心)が消滅すると、どうなってしまうだろう。カール(作品)も存在理由を失う。これは最終話でポールの遺骸をカールが発見することによって表現された。過激化・先鋭化し続けたことで視聴者を失ってしまったクリエイターの末路がカールである。カールも作中で、破壊するものがもはやなくなってしまった。最後に破壊できるのは自分自身のみである。地球や宇宙そのものを爆破することはできなかったが、これがシリーズ終了そのものという構造になっている。
ポールは何のメタファー(隠喩)か。視聴者はカールの残虐行為を見て笑い(ブラックユーモアだから、まずは笑って消費しなくてはならない)、刺激を求めて作品を視聴(コンテンツを消費)し続けるが飽きれば去っていく観客であろう。ならばカールは視聴者の潜在ニーズ(あるいは視聴者を惹きつけるために)先鋭化・過激化して最後に自滅する作家(クリエイター)のメタファーとなる。本作をそうした短絡的消費のネット文化への皮肉という解釈もできる。時代が変わっても、人は古代ローマの剣闘士試合に興奮するのと変わりないということか。
カールは飛び降り自殺を決行するとき、ついにポールの名前を叫びながら落下していく。自分の存在理由、破壊活動の肯定理由を失い、精神が崩壊したカールが最後まで縋(すが)ったのはポールであった。カールはポールただ一人(一頭)に構ってほしい、認められたい、相手にされたいという歪(いびつ)な承認欲求の結晶なのである。
そう考えるとカール(作家)は、ポール(視聴者)を引き留めて離したくない作家の承認欲求を象徴するのか? そこに一定の事実はあるかもしれないが、筆者としては作者は「これが(作者自身にとって)面白いだろうと思う」といった純粋な動機の割合が高く、「これがウケる(ウケたい)」といった動機の割合は低いのではないかと考える。そこには実作者と、プロデューサーの違いがある。実作者は「自分にとっての面白さ」をなくした時、作家としては存在しなくなり、消費者(視聴者)におもねるだけの存在となり、作品のクオリティが歪み始める。カールと作者を同一に考え過ぎない方がよい。
もう一つの解釈できるのは、ポールは存在せず、カールの内心の幻影にすぎないという見方だ。いわゆるイマジナリーフレンドである。ポールはいつも何も行動しない。カールに話しかけるだけである。だからポールはカールの良心として、カールを制する役割を持っていたという考えだ。だからポールが立ち去って以降、カールは精神的な安定を失い、自己崩壊を始める。
しかしこのアイデアは筆者にはやや受け入れにくい。本作はもちろんフィクションに過ぎないが、しかし描写された登場人物(登場ラマ)の「片方は(作中で)実在するが、片方は実在しない」というには、作中でのリアリティを失うからだ。ポールが実在しない仮説が成り立つならば、カールの殺戮と破壊もカールの中の妄想に過ぎなかったかもしれない、ということにつながるからだ。作中のリアリティを担保するならば、描かれたものは作中で実在していると考えるべきだ。
最終話の幕引きはそれだけであるから、実に不条理作品としてありがちな、あっけない幕切れである。
第5話以降を本作の「後半」と位置付けるならば、後半の内容は単なるブラックユーモアから、形而上的な謎めいた話になっていく。
カールは「全能だが道徳や倫理のない、荒ぶる神(あるいは悪鬼)」なのか。ならばポールはこの荒ぶる神を止めようとする人間側の代表者なのか。カールは世界を破壊できる力を持っておきながら、たった一人の観客であるポールに構ってもらうためだけに破壊を続ける。これは神というより、全能の赤ちゃんである。
では、カールは「破壊そのものを実行する虚無」なのか。カールは何をやっても意味がないので、すべて壊していく。カールは宗教が提示する救済の教義や救いそのものの意味を冷笑してやまない。
だが2024年にエピローグが公開されて結末への解釈は大きく変わることになる。
カールの死の直前、あるいは死ぬ過程で見た幻覚、もしくは死の直後の状況のいずれか判然としないが、カールは償いと悟りに近い感覚を得る。
カールは身投げする。カールは破壊と虐殺を、「芸術」「事故」として肯定あるいは正当化してきた。だが死の淵に立ってようやく、自身を根本的に壊れた存在であり、他の生命と共存不可能と認める。
カールはポールに許しを求め、戻ってきてほしいと願うが、自分の寂しさを埋め合わせるための利己的欲求であることにも気づく。ここで起きたカールの変化は、「自身からポールの解放」を選択したことだ。
君(ポール)が幸せになる方法は僕が君のそばにいないことだという結論にカールはようやく達する。カールはここへきて、ついにポールという執着物から自分を引き離すことができた。全12話の本編全体に匹敵する長さのエピローグの最終盤で、カールはドングリとして転生することを選ぶ。
カールがどのように殺戮や破壊を実行したのかは直接描写されず、不条理として扱われている。しかしカールは、ドングリへ転生することで、その力(全能性)を放棄する。ドングリは芽となり樹となった。もうカールに何かを破壊することはできず、ただただ、一本の樹として再生していく世界を見守ることだけに徹する。
カールは救済されたのか? 作者のジェイソン・スティール監督は「カールの物語に終止符を打つ」という意思を持って、この長いエピローグを発表したと見られる。エピローグは後付けのものではなく、拡散してしまったであろう本作への解釈議論を終わらせる意図もあったであろう。
最終話の時点では不条理な悲劇だった本作に、カールが自分の執着を手放し、承認欲求という呪いを自ら解き、世界を再生へと進ませるという新たな物語付けがなされた。
そうなると、カールは「既存の文明を終わらせる仕事をした者」という解釈が再度立ち上がってくる。本作をどう読み解くかについての第2巻が始まってしまった。
まず考えられるのは、輪廻転生として「植物からやりなおすことにした」という展開である。カルマ(業)の輪から抜け出る、あるいは「最終的な自己犠牲を経ての再生」を想起させる。執着と自我を捨て、他人に酸素や木陰(安らぎ)を提供できる1本の木になることは、魂の浄化とも解釈可能だ。
カールがどうしてこれほど万能に近い力を持っているのかは、本作における最大の謎だが、「カールは万能の破壊神である」という前提で考えることが肝心だ。カールは四つ足動物(ラマ)が人間を37回刺して刺殺したり、豪華客船を沈めたり、核兵器を使用したり、時空を切り裂いてみたり、肉竜(ミートドラゴン)なる悪趣味な異形の怪物を創造したりといった圧倒的な力を持っている。「カールには、それができる」という事実だけがあり「なぜできるのか?」を問うことは、「神はなぜ万能なのか?」と問うことと同じだ。この「なぜ」には答えがない。カールはなぜ万能なのか? その回答は「カールだからだ」としか言えない。作品において作者は万能の存在である。それと同様だ。だが作中のリアリティという束縛が、作者を制御する。リアリティを失ったとき、作者は「何でもあり」の地獄に落ちる。
カールは遊び(彼は「芸術」という)にしか力を使わない。しかし彼の芸術は破壊と殺戮である。ルールにも道徳にも縛られず、悪行ではなく、死と生をもてあそんで「粘土のように変形させる作業(遊び)」でいるにすぎない。
カールが苦痛を感じるのは退屈だ。だから絶えず破壊して自分を刺激し続け、ポールの反応を確かめる。ポールの反応こそが実のところ退屈しのぎのものであり、破壊そのものが目的ではない。だがポールが去ったことで、破壊しても反応(ポールの声)は得られなくなり、破壊が加速していく。カールがポールを自作自演し始めるのは、作者が自ら観客を兼ねて「客席からのウケ」を自分でやり始める惨めな姿を描いている。
カールにとってポールの存在は何なのか。観客であり評価者であり、自分を定義してくれる存在だ。エピローグによると、カールとポールは草原で出会った。カールにとって、自分に話しかけてくれた存在であり、カールはポールと出会ったことで「カールという自己」を認識できた。ゆえにカールにとって、ポールが絶対的な存在(評価者)と位置付けられてしまい、無条件での執着が始まったともいえる。
第1話での最初の殺人から、「人間を殺すとポールが面白い反応をする」ということに味をしめ、カールは一気に破壊と殺戮の力を行使し始める。カールにとってポールのフィードバック(反応)がすべてであり、破壊に躊躇はない。破壊そのものを面白がっているのでもなく、めちゃくちゃな行為の結果としてポールの困惑と「カァァァァル!」の声だけが、カールにとっての報酬なのだ。
本作後半、カールはポールを失う。カールはポールの仮面を使って自らポールを演じ始めることが、代替の報酬系で何とか自分を誤魔化している証拠だ。
全能の神がいたずらをして精神病質的に振る舞うのに対し、エピローグを通じて語られるのは無への収斂と諦観だ。カールは暴れ回った自己崩壊へ至ったのち、ようやく自己を認知して解脱へと進み始める。
カールはMetanoia(悔い改め)の境地に至ったのか。それとも自己消滅と循環に入ったのか。地獄的世界観を、死者(亡者)に責め苦を与える「罰」のための場と考える思想と、神の愛(恩寵)から完全に隔絶された孤独を与えて苛(さいな)ませる場とする思想がある。カールは全能だったが、だれとも繋がれない絶望に至った。クリエイターが「俺Tueeeee!」状態で興奮していても、誰にも見向きもされないようなものだ。「神に背き、自らを神とした者」の末路がカールである。
カールはエピローグで、自分(カール)からポールを解放するために自分が消えることを選ぶ。これは自己犠牲(Self-sacrifice)的な思いつきだ。罪人は、あやまちを犯した自己を死なせて、新たに生まれ変わる必要があるという考え方は仏教的輪廻転生思想の専売特許ではない。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、もし死ねば、豊かな実を結ぶ」(ヨハネによる福音書 12章24節)の教えもキリスト教にはある。カールがドングリへの転生を選ぶのは、一粒の麦として死ぬことと同じだ。カールはここでようやく自我を捨て、聖なる沈黙に入り、死ぬ。罪は浄化されうる(浄化される、との断言はしない)。
ポールは、カールにとって律法でもあった。ポールが去ったことで、カールは対話のための言葉さえ失い、内的には自己完結する存在となった。だから破壊だけがエスカレートしていく。それ以前から破壊は回を重ねるごとに残虐さを増していたが、ポールの反応がなくなることで、破壊が自己目的化していく。
ドングリは言葉を持たず、思想も持たない。意思も知性も捨てて自然の調和の一部へと戻るのは、「放蕩息子の帰還」という宗教説話の展開に近い。
カールという個人が自我を持ったのは、ポールの反応が面白かったからだ。だがカールの罪がここから始まる。自我(エゴ)が肥大化して世界は破壊され、自我の消滅にしか救済がないという結論に到達しているのが本作だ。これはおそらく欧米の視聴者にとっても、「自己消滅によって幕を引く」という結末は、悲劇的と捉えられるだろう。清らかな幕引きとしてカタルシスを持って見られるのではないかと思う。
さて、ここまでカール=万能の荒ぶる神、ポール=憐れな隣人という図式に固定して見てきた。筆者は書きながら、逆の発想も思いついた。
それはポールこそが神で、カールは科学技術を無邪気に扱った人類という比喩である。ポールはたびたびカールを叱責し、何をしているのかと問う。だがカールはその問いをはぐらかし、誤魔化し、茶化し、意味不明の回答をする。だがポールを沈黙する神あるいは自然の摂理そのものとみなすならば、物語はこれまでの見方とは逆転し、各ピースは驚くほどうまく重なる。
カールを人類の成れの果て、知恵の実の過剰摂取による未来人類と考えるアイデアだ。来訪者を殺害し、都市を破壊し、時空を操作し、生命を改造する科学技術は部分的には人類は達成している。より高度化していくことは間違いないだろう。カールに悪意がないように、人類の科学技術の発展にも悪意はない。無邪気な善意と好奇心であろう。効率的に虐殺できるのも、倫理より成果を優先していく姿と重なる。
技術は倫理を持たない。「できる(可能)」それ自体が発展の推進力だ。結果(その技術の使用の結果)への責任も持たない。「なぜ殺すのか?」という理由をカールが持っておらず、「芸術のため」といって造物のための過程として躊躇なく殺すし、他者が作ってきたものを壊す。
ポールは警告をする。だが去ってゆく。ポールは言葉(ロゴス)で介入する。これは歴史的に人類に律法や道徳を与えた神の姿と重なる。だがポールはカールを見捨てる。これは裁きである。第5話以降、ポールはカールに愛想を尽かして、姿を隠し、言葉も与えなくなる。神の沈黙である。
神の不在となった人類は、自分の強力な力──暴力を制御できなくなる。大破局によって、世界は荒廃し、人類文明は灰燼に帰す。
人類の死のあと、何があるか。エピローグは人類の滅亡と自然の回帰と容易に解釈される。カールとポールが出会ったのは、いつかの草原であった。原始社会の中で人類は神に気付いた。他者と出会い、対話が始まった瞬間だといえる。
エピローグで文明社会を焼き尽くしたあと、最後にカールはラマであることをやめた。カールが人類ならば、人類もヒトであることをやめ、傲慢な知性も捨て、自然の一部に戻った。発展からの破綻、内部崩壊と滅亡。これがポールがカールに与えた罰であり、地球というエコシステムにおける唯一の残った調和である。実にニヒリズム的で、エコロジカルな結末だ。
ポールの不在以後、カールは仮面を使ってポールを自作自演する。ポールを渇望しても、代わりの神を自演する哀れな存在へと堕落していく。エピローグで語られる草原での出会いも、果たしてどこまで真相であったか。ポールは幻影として表現されており、カールの捏造した記憶の可能性も否めない。
カールは独り言を言いながら、身勝手に世界を破壊して無関係な人類を皆殺しにし、一人で絶望して死んでいったことになる。まさにブラックコメディの局地だ。
カールは、なぜそれほどまでに無敵の全能を持っているのか。人類はなぜカールを抹殺して残虐行為を止めようとしないのか。あるいはそれに失敗したのか。
視聴者はもっと過激(=面白い)展開を期待し、望みがちだ。監督はそれに応えた。カールにもっと強い破滅の力を与えたのは、紛れもなく視聴者という神であったとしたらどうだろう。監督はそれに応えてカールに力を与えた、その意味で視聴者こそが神であった。監督は、神権の執行者のようにして、カールに実際の力を付与したといえるだろう。だがポール(倫理)が去ったことで、動画は徐々に視聴者の関心を失い、カールも存在意義を失った。
エピローグにポールとカールの出会いは描かれるが、ポール自身はまったく登場しない。倫理が不在となり、技術は崩壊したあと、神は沈黙した。カールは常にポールのツッコミを期待し、ポールの不在以後もポールの反応を渇望し続けていた。カールは神が自分に許しならば許しを、断罪ならば断罪を期待したのであろうが、その望みも叶わない。カールの甘えは無視された。
ポールが神ならば、ポールの不在と沈黙は、カールに対して裁かれる価値も許される価値もないという拒絶として機能する。
そうなると、カールが選択したドングリへの転生は救済とは思えなくなってくる。カールという存在の強制終了であり、神はカールを最後まで無視した。カールという自我と意識が勝手に自滅し消え去るままにしていたともいえる。言葉(ロゴス)をなくした存在が、物体に化して終わった。自然の再生は、人類やカールの意志とは関係なく循環しているに過ぎないという解釈だ。
植物は強い。そして強(したた)かだ。地球上で、人類よりも長く繁栄してきたのだから、植物の生存戦略と生き残りへの知恵としぶとさは、人類のような「地球生命の後輩」の比ではない。神が植物を優先したのか人類とカールをともに滅ぼそうと画策したのかは考えすぎだろう。そこにドラマ性はなく、当然の帰結ということだ。
カールの叫びに対して、最終話もエピローグでもポールは何も応えない。ポール自身はすでに死して遺骸となっているだけだ。人間(あるいはカール)がどれほど悲劇的であろうと、自然世界(ポール)は物語としてそれを受け取らない。虚無主義であり、関心を示さない。仮にポールがその物語や押し付けられたとしても、ポールはそれを忘れてしまうだろう。
消滅によって、カールは敗北したのか。それとも解放されたのか。敗北したことで解放されたともいえるし、白黒つく決着さえ、もうなかったのかもしれない。
その証拠と言えるのが、ジェイソン・スティール監督自身のRedditでの回答(*)だ。スティール氏が当初考えていたオチは、第5話でカールが地球を爆破して終わるというものであった。しかし第4話公開後に、ファンが「次は地球が爆発するだろう」と予測してしまったために「予測できる展開はカールらしくない」と考えて当初の第5話を破棄した。そして始まった「後半の展開」こそが、カールが精神的に崩壊していく悲劇であった。
* https://www.reddit.com/r/IAmA/comments/49prlm/i_am_jason_steele_creator_of_charlie_the_unicorn/
内容は一気にダークな方向へと転換したが、スティール氏は本作をコメディだと一貫して主張している。猟奇的で凄惨な出来事を淡々と、しかしテンション高めに主張し続ける構造そのものが、不条理劇として「笑い」を引くはずだという考えである。
本論はふたたび、象徴としての解釈論へ戻る。タロットカードの大アルカナは、こうした物語を象徴化して並べることに適している。
「愚者」として現れたカールは、初めから力を持つ「魔術師」であり「皇帝」「教皇」であった。暴走する「戦車」となって、もはや「力」を制御できない。大アルカナの暗黒面を高速で駆け抜けた愚者であった。
カールは死体の山の頂きにいた。だが空を見上げて足元を見ていない。無垢の狂気であり、万能感に酔いしれたままでいた。何でも生み出せるし、すべてを破壊できる力を持ち、破壊だけを行う自分の王朝を作り出した。破壊を芸術と嘯(うそぶ)くカールは、戦車の暗黒面を体現して突き抜けていった。
大アルカナの順で言えば、ポールが去ったことで、「運命の輪」が回り出す。孤立は「悪魔」となり、仮面による自作自演で自らを虜にした。11話で世界を滅ぼし、12話でポールの遺骸を発見するに至り、ついに破壊神カールの神殿は「塔」のごとく崩落する。瓦礫と死体の塔であったから、もろく崩れ去っていく。空虚であった。
「星」「月」「太陽」は時間の経過を示す。「審判」を下してくれるとカールが期待したポールは沈黙している。ポールに諌められることでしか、カールは存在できなかった。1頭のラマという個をステ、カールはドングリになり「世界」の一部となった。ここで気を付けておきたいのは、エピローグで明らかなように、ポールは月で象徴されている点である。
カールは「世界」へ到達したことで、ハッピーエンドとなったのか? 否、自然の一部となったが、無になった。ハッピーもアンハッピーもない、ただの結末だ。個として執着(自我=エゴ)が消滅して実存としてあるべき場所に納まっただけだ。カールは全能を持っていながら、愛や善や統治には使わなかった。ただただ自己の快楽(破壊)とポールの反応(承認とさえ言えないような悪戯で)を得るために使ったのであった。
カールの最後の選択が、罪を受け入れ、自分の意思・自我を神に明け渡したものであったならば、それは贖罪に近い。この場合、自我の消滅ではなく、主(神)の中で新しく生きることであろう。エゴを「主の愛を映す器」へと転換(帰依・服従)していく壮大なプロセスが本作という理解となる。
カールは結局、1個のドングリ(種)になることで、最終的に宇宙へと最も接近したのだとすれば、さまざまな宗教の提示する平安を得る到達点に至ったといえる。エゴを捨てて、より大きな秩序の中に納まるということだ。これは、現代社会が宿痾のように感じられている過剰な承認欲求社会・自己主張社会に対する、作者からのメッセージと捉えるのは行き過ぎた見方だろうか。
スティール氏によると、カールは自己を変えることができなかった、だが他者から離れることはできるという苦い現実認識(自覚)へ至るまでを描くことに決めたという。カールというキャラクターの魂の終着点が、エピローグ制作の発端であったと想像に難くない。
ポールという存在は、カールを正すことも救うこともできなかった。ただ隣にいて語っただけであった。ポールは仏教でいうところの善知識(ぜんぢしき:正しい道へ導き、真実に目覚めさせる友、仏縁に導く人)のような存在であったが奇跡は起こらない。カールは変わらなかった。世界が滅びる前に、ポールはカールに付き合い続けたが、途中で離脱してしまった。それはカールを「突き放した」とも言える。
もしポールがカールに愛想をつかして去ったのではなく、あえて突き放すことで最終的な破壊を経て、ドングリになる未来を見通していたのだとしたらどうか。カールは救いようのない大悪人であるが、ポールに見放されたことでカールは自身の救いようのなさをエピローグで悟ったとも言える。
ポールがカールを見離さずに叱り続けていたら、カールは甘えた大量殺人者の意識から変わらなかっただろう。それは他責の念の塊である。自責の念に気付くようにガイドラインを引いたのがポールだったとも言える。これも一種の無言のまま突き放す愛の形であったと言える。
カールによるポールの自作自演(仮面の演技)はエピローグで終わる。ポールは自分と異なる存在だとようやくここで理解する。両者は相入れないのだと。ということはこれは、救済ではなく、刑の宣告でもある。「悪趣味なブラックユーモア」で開幕した本作が、「静かで倫理的な反省と消滅」で結んだという構造そのものが、本作の最大のブラックユーモアである。
しかし本作において、最も報われないのは無惨な死を迎えた人類の側だ。彼らこそ救われなければならない。ならばカールは救済されたのではなく、因果応報として2度と身動きの取れず声も出せないどんぐりへと収監されたとも考えられる。ポールは友人としてでなく、カールに殺された無実の人々の代表者であった。文明社会は破壊されたが、これ以上、この星を破壊させないために地球はカールを封印したとも見られる。
殺された側の人類にとって、カールは理解不能な大災厄であった。対話も成立せず(これはポールが試みて失敗した)、復讐も裁きもできず、この作品ではカールと対立する存在もない。加害者のカールだけが、勝手に自己完結して終幕となってしまうのである。
ならばカールは地球の意思だったのか。地球上に蔓延った人類を消滅させるために地球がカールを派遣したというのはあり得るし、仮に地球ではなく神がカールを「回収・封印」のために最後にドングリを派遣したのだとしても、無念の被害者の救済にはならない。
カールはまったく自由な個人であった。他者の利権を踏み躙って、自己の衝動(空腹を満たす、芸術作品を作る、好奇心の赴くままに行動する)を追求している、誰にも何にも縛られない自由である。他者への共感を完全に喪失している、共感なき自由主義者の成れの果てだ。
一方、娯楽の世界でも「暴力が描かれるが死んだり傷ついたりすることがない(スラップスティック:ドタバタ劇)」のコメディは伝統的なジャンルだ。日本でもどつき漫才は、必ずしも相手を痛めつけるために叩くのではない。
しかし本作では「暴力を描く。相手は本当に死ぬ」という方向へとスラップスティックを反転させた構造をとっている。アニメなのに、本当に死んでいく。
しかし本作はポールとカールの2頭のラマの他愛のない話だ。そこに全人類の命運が関わってきて、そして文明社会は滅亡してしまう。正直にいって、日本の視聴者は1990年代にこれらを経験済みだ。いわゆる「セカイ系」である。
カールの暴走、ポールの死、世界の破滅を描くことで監督が突きつけるのは「これが君たち視聴者の望んだ結末か?」という問題定義だ。世界の終わりがポールとカール、2頭の自意識の崩壊と同期している。カールが世界を壊すのは、ポールの関心を惹き続けるための幼稚な行動でしかなかった。世界の破滅とカールの心の寂しさが同期されているスケール感の不一致は、セカイ系に通じるものが大きい。
壊した世界を放置して、主人公は精神世界へ逃げ込んでしまう。そうした物語としての不整合を解決させずに、カールの魂のその後だけが語られるのも非常に小説的だ。
カールとポールを1人2役で演じたスティール監督の自作自演も、メタ的にそこに加味されてくる。安上がりだが、安直でも安易でも安っぽくもない。それが本作を魅力的に仕上げている。
本作はそうした内容をブラックユーモアという外装を施した上で、低予算で不気味な軽妙さを演出している点で、「記号化」されたホラーでもある。出オチギャグが、約15年を掛けて存在論的悲劇へと変貌した過程には、スティール監督の内面的な狂気とクリエイターとしての矜持がないまぜになって確立されているようにも思う。
一方、日本では本作に先立つこと、ネット配信の定着する前のDVD全盛期の頃から、かわいらしい見た目のキャラクターが残虐な事件を起こしたり、起こされたりする作家性の強いショートムービーが登場していた。Llamas with Hatsが、日本のこうしたアニメファン層の間で知られなかったのも、本作が入り込む余地がなかったからだろう。
ポールとカールは、この作品を後から(全話完結してから)視聴した我々にとって警告なのか、それとも祈りなのか。エピローグの最終盤、12分50秒でカールは罪の象徴とも思える血を吹き出し続ける肉の塊に潰され、ぺしゃんこになる。そこに現れるのが例のどんぐりだ。
「いい日だ、友よ。そうだろ? どこかでは、そのはずだ(It's a beautiful day, friend. Is it? Somewhere it is.)」
どんぐりとの対話の終わりにカールはどんぐりを握りつぶし、しかし悪態をつきながら、最終的にポールの死を思い出す。彼の最後の独白はこうだ。
「He's dead. And It's my fault I did...
... Paul, I hope you're having a better time than I am really mean that I think I'm lost.
Paul, I don't think things are going to work out for me. but you've still got a chance this as long as you stay away from ...me or I stay away from you.」
(彼は死んだ。そう、僕のせいなんだ……
……ポール、君が僕よりずっと楽しい時間を過ごしていることを願っている。本当にそう願っているんだ。僕はもう、自分を見失ってしまった気がする。
ポール、僕にはもう、うまくいかないと思う。でも、君にはまだチャンスがある。君が……僕から離れていれば、あるいは僕が君から離れていれば、の話だけど。)
おわり