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チャイコフスキーの家系図(祖先)|Ancestors of P. I. Tchaikovsky

2022.3.21

はじめに

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは音楽家であると同時に稀代の旅行家でもありました。ウラル山脈の麓の町で生まれ育ち、首都サンクトペテルブルクで教育を受け、のちにモスクワで音楽家として自立した以後もロシア国内を頻繁に移動しています。国外への旅も多く、特に繁く通ったのは妹の家族が暮らすウクライナでした。西欧にも幾度となく足を伸ばしており、まさに国際的な芸術家であったといえます。そして彼の祖先もまた旅する人々でした。このページでは、そうしたチャイコフスキーの祖先についての情報を整理、和訳しました。

●母方の家系
母の祖父の家系はフランスからドイツ、ドイツからロシアへと渡ってきた芸術家でした。一方で母方の祖母の家系に属する男性の多くが教会関係者であったためか、経歴や任地などの情報が資料に残されています。

●父方の家系
父方の祖先はウクライナのコサック兵です。北欧史の転換点である大北方戦争にも出征していたほか、祖父の代からはロシアに移って官吏や軍関係者、産業関連の仕事に従事しています。2代前に紳士録に載る家柄へと発展しますが、各地を転居していた記録が残されています。チャイコフスキーの家名(姓)は、父方の3代前(曽祖父)の姓が「カモメ」(チャイカ)であったことに由来します。地方名士として成功した2代前(祖父)がチャイコフスキー(「チャイカの一族」の意)を使い始め、定着しました。渡り鳥のカモメが由来であったことは、旅人チャイコフスキーにふさわしい家名だといえるでしょう。

●両親について
両親については資料も多く、書くべき事項の多い人物です。「人生と経歴」として新たに記事を書き起こし、本ページ後半に掲載しました。
(直リンク:母アレクサンドラの生涯父イリヤの生涯

●参考資料と出典について
情報はTchaikovsky-ResearchのCategory:Familyのページからリンクされている個々人のページを底本としています。父母の記事作成にあたっては他の既存記事も参照しています。特に父イリヤは工業発展との関わりが深いほか、母アレクサンドラはチャイコフスキーの人格形成に最も大きな影響を与えていることから、複数の記事を参考にしながら人物像の具体化を試みました。なお日本国内で刊行されている図書一覧はこちら。系図の表示部分は横方向にスクロールする仕組みになっています。html/cssでの系図作成にはhierarchy-viewをカスタマイズして利用しました。

●父称について
ロシア人の人名には、父の名前を引き継ぐ伝統があります。これを父称といいます。作曲家チャイコフスキーを例に取ると、「ピョートル」は彼の個人名ですが、「イリイチ」は彼の父がイリヤであることによる父称「イリヤの息子(イリイチ)」です。女性の場合は「イリヤの娘(イリイニチナ)」となります。父称は苗字(姓)ではありません。ミドルネームのように扱われますが、どちらかといえば名前の一部です。人前で呼びかける際は、名前+父称で呼びかける方が礼儀正しい(しかしやや堅苦しい)とされているそうですので、本記事でも敬意を持って作曲家ピョートル・イリイチ(P.I.)と呼ぶことにします。日本にも古い時代の「名乗り」には「何某なにがしの子、誰某だれそれ」といったパターンがあったことが思い返されます。日本ではこの名前の付け方は廃れましたが。

●その他
この家系図ではP.I.を起点として、下へ向かって祖先を遡っています。P.I.の兄弟姉妹を含む図は別途作成の予定です。兄弟たちも非常に興味深い人生を歩んでいます。参考資料(出典)として個別ページがある人物は該当ページへのリンクを記載しました。
チャイコフスキーのラテン文字表記「Tchaikovsky」は、資料によって「Chaykovsky」と表記されている場合が見られます。本ページでは原測として家名の「Чайков-」は「Tchaikov-」で統一しました。
Special thanks to authors and editors of Tchaikovsky-Research and Mr.zikosichi, creator of 'hierarchy-view' .

【系図は横スクロール。横位置表示を推奨】

作曲家
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
Pyotr Ilyich Tchaikovsky
(Пётр Ильич Чайковский)

1840年4月25日(新暦5月7日)、ヴイヤート県ヴォトキンスク生まれ。ヴォトキンスクはモスクワから東へ約600マイルのウラル山脈山麓の都市。


アレクサンドラ・アンドレーエヴナ・チャイコフスカヤ
Aleksandra Andreyevna Tchaikovskaya
(Александра Андреевна Чайковская)
Mother of the composer

1812年8月11日(旧暦7月30日)生。出生地はサンクトペテルブルク。
1854年6月25日(旧暦13日)にサンクト・ペテルブルクにてコレラに罹患し病没。
人生と経歴
肖像画はクリン博物館に壁掛けされているものです。

母方の祖母
エカテリーナ・ミハイロヴナ・アシエール
Yekaterina Mikhaylovna Assier
(Екатерина Михайловна Попова)
Maternal grandmother of the composer

1778年10月19日(旧暦8日)サンクトペテルブルク生まれ。
1816年9月17日(旧暦5日)没。
サンクトペテルブルクのスモレンスコイ墓地に埋葬される
参考資料:TR
肖像画:クリン博物館蔵

母方の曾祖母
アンナ・ディミトリーエヴナ・ポポヴァ
Anna Dmitriyevna Popova 
(Анна Дмитриевна Рыковская)
Maternal great-grandmother of the composer

1752年頃の生まれ、1823年頃没。結婚前の名前はアンナ・ディミトリーエヴナ・リョコヴスカヤ
参考資料:T-R

母方の高祖母
エウフィミア・キルコヴナ・リュコヴスカヤ
Yevfimiya Kirkovna Rykovskaya
Евфимия Кирковна Иосифови
maternal Great-great grandmother of the composer

1727年生。経歴は不詳
結婚前の名前はエフフィーミヤ・キルコヴナ・イオシフォヴィチ
参考資料:T-R

母方の5代前
氏名不詳

maternal Great-great2-grandmother of the composer

高祖母の母。情報なし。

母方の5代前
キリク・イオシフォヴィチ
Kirik Iosifovich
(Кирик Иосифович)
maternal Great-great2-grandfather of the composer

聖職者
高祖母の父。1710年前後の生まれ。教会の執事職にあった。子供は1名。エヴフィミヤ(1727年生)
参考資料:T-R

母方の高祖父
ドミトリー・ヤコヴィエイヴィチ・リュコフスキー
Dmitry Yakovlevich Rykovsky
(Дмитрий Яковлевич Рыковский)

聖職者
1721年生、1757年没
司祭ヤコフ・リコフスキーの子として生まれる。1744年にサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー神学校を卒業する。助祭、司祭(1747年〜)、のちペトロハバロフスク大聖堂の執事として仕える。
少なくとも2名の子供があった。
ヤコヴ(1747年生)
アンナ(1752年頃生。作曲家P.I.の曽祖母)
参考資料:T-R

母方の曽祖父
ミハイル・イヴァノヴィチ・ポポフ
Mikhail Ivanovich Popov
(Дмитрий Яковлевич Рыковский)
Maternal great-grandfather of the composer

聖職者
イワン・ポポフ(1732頃-1783)とその妻タチアナ(1736頃-?)の長男として生まれる。
キエフ・アカデミー(1763-1769)とサンクト・ペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー神学校(1770-1774)で学ぶ。
1774年にサンクトペテルブルクのニコライエフスキー聖堂の助祭に、1790年に聖セルギエフ教会の助祭に任命された。
1774年6月12日、サンクトペテルブルクのサン・セルギエフ教会でアンナ・ドミトリエフナ・リコフスカヤ(1752頃-1823頃)と結婚。
1792年3月16・27日にサンクト・ペテルブルクで熱病のため死去し、同市のオトケンスキー墓地に埋葬された。

子供は5人。
ヴァーヴァラ(1776年生まれ)
エカテリーナ(1778-1816)作曲家P.I.の祖母
ニコライ(1779–1869)
マリア(1783年生)
セルゲイ(1785–1851)
参考資料:T-R

母方の高祖母
タチアナ・ペトロヴナ
Tatyana Petrovna

1736年頃生、没年不詳

母方の高祖父
イヴァン・イヴァノヴィチ・ポポフ
Ivan Ivanovich Popov
(Иван Иванович Попов)

聖職者
1732年頃生、1783年1月8/19日没。モスクワの聖ニキタ教会の助祭司を務めたのち、プロシア戦争(1757年〜1763年)にモスクワ歩兵第二連隊の兵士として出征し、キエフに駐留(1763年~1770年)。
1770年にサンクトペテルブルクの聖セルギエフ教会の司祭となり、結核で死去するまで在籍。
埋葬地はオクテンスキー墓地(サンクトペテルブルク)。 タチアナ・ペトロヴナとの結婚は1736年頃。

子供は3名。
ミハイル(1752年生、P.I.の曽祖父)
アグリッピナ(1756~1798年)
マルファ(1763年生まれ)
参考資料:T-R

母方の祖父
アンドレイ・ミハイロヴィチ・アシエール
Andrey Mikhaylovich Assier
(Андрей Михайлович Ассиер)
Maternal grandfather of the composer

ドイツ出身の語学教師・官吏
1778年12月26日、ドイツのザクセン州マイセンに生まれる。ミシェル・ヴィクトール・アシエールとその妻マリア・クリスティアナ・エレオノラの息子ミヒャエル・ハインリッヒ・マクシミリアン・アシエールとして生まれる。
1795年にロシアの将軍ピョートル・メリシノによって、サンクトペテルブルク軍事学校のドイツ語とフランス語の教師としてロシアに移住する。1800年、忠誠の誓いにより、ハインリッヒは正式に帝国の臣民となり、ロシア名を「アンドレイ・ミハイロビッチ・アシエール」とする。その後、税関や財政省の役人を務め、聖ウラジーミル勲章(第4級)、聖アンナ勲章(第2級)を授与された。

1800年にエカテリーナ・ポポヴァと結婚する。子供は5人。
ミハイル(1802年生、没年不詳)
エカテリーナ(1805-1882)
ニコライ(1809年生、没年不詳)
アンドレイ(1811年生、没年不詳)
アレクサンドラ(1812-1854)作曲家P.Iの母
1816年の妻の死後、アマリア・グリゴリエーヴナ・ゴーゲルを妻とする。
後妻との子供は2人が判明している。
エリザヴェータ(1823年生、没年不詳)
パーヴェル(1824年生、没年不詳)
1835年7月5日(旧暦6月23日)にサンクトペテルブルクにて没。
参考資料:T-R
肖像画:クリン博物館蔵

母方の曽祖母
マリア・クリスティーナ・エレオノラ・ウィティンク
Maria Christina Eleonora Witting
Maternal grandmother of the composer

1746年または1747年の生まれ。1811年にドレスデンにて没。

母方の曽祖父
ミシェル・ヴィクトール・アシエール
Michel Victor Acier
maternal great-grandfather of the composer

フランス出身の彫刻家。チャイコフスキーの芸術家としてのルーツ。
1736年8月6日、ヴェルサイユ生まれ。
パリの王立アカデミー(現在の「王立絵画彫刻アカデミー」)で学ぶ。1759年、学内にて彫刻のグランプリを争うが成功には至らなかった。
ミシェルは小規模の造形芸術に特に秀でていたが、芸術家としての将来が約束されているわけではなかった。
1764年にザクセンへ移り、マイセンの磁器工芸家の造形師として引退まで15年を過ごす。ザクセンが経済危機に陥って彫刻芸術への支援を打ち切ると、アシエールはフリードリヒ大王が建築の計画で国外の彫刻家を求めているとの情報を得てプロイセンへ移住する。
1783年、現在のポーランド南西、シレジアのボーラウにて、プロイセン王国のクルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン元帥の英雄的な死(1757年5月6日)を描いた大理石製のオー・レリーフ(高浮き彫り:立体的な表現を高めた浮き彫り)を製作する。1787年にプロイセンの芸術アカデミーの名誉メンバーとなる。
1799年、ドレスデンにて没。

子供は6人。
・マリア・テレジア・イグナチア(1768年10月3日、ドレスデンにて洗礼。1830年6月18日没。1784年に作曲家であり上級音楽監督のヨーゼフ・シュースター(1748-1812)と結婚。1813年にザクセン王国の大臣ゲオルク・アウグスト・ヴォン・マントウフェル男爵(1765–1842)と再婚)
・イオアネス・バプティスタ・カルルス・ヴィクトール・イグナティウス(1771年6月8日にドレスデンにて洗礼)
・ヨハン・クリスティアン・ヴィクトール(1773年10月11日、マイセンに生まれる)
・マリア・ソフィア・アウグスタ・アマリア(1775年8月7日、マイセンに生まれる。1820年以降に没)
・ミヒャエル・ハインリヒ・マクシミリアン(1778年12月26日、マイセンに生まれる。1835年7月5日(旧暦6月23日)サンクトペテルブルクにて没。ロシアにおいてアンドレイ・アシエールとして知られる。作曲家P.I.の母方の祖父。
・マリア・ヨゼファ・ヘンリエッタ(1781年6月25日、ドレスデンにて洗礼。1782年5月8日にドレスデンにて没) 参考資料:T-R

母方の高祖母
マリア・クロード
Maria Claude

詳細不明

母方の高祖父
ヴィクトール・アシエール
Victor Acier

詳細不明


イリヤ・ペトロヴィチ・チャイコフスキー
Ilya Petrovich Tchaikovsky
(Илья Петрович Чайковский)
Father of the composer

鉱業技術者、経営者、鉱山学と工学の大学教授
当時のロシアにおいて第一線で活躍していた鉱物採掘と鉱業・鉱山開発の技術者。冶金・製鉄技術、工学および鉱山に関する法律の専門家。
1795年7月31日(旧暦20日)生。出生地はヴィヤートカに近いスロボドスコイ。
1880年1月21日(旧暦9日)、サンクトペテルブルクにて没。
人生と経歴
肖像画:クリン博物館蔵

父方の祖母
アナスタシア・ステパノヴナ・ポソコヴァ
Anastasiya Stepanovna Posokhova

詳細不明

父方の曽祖母
氏名不詳

詳細不明

父方の曽祖父
ステパン・ポソコフ
Stepan Posokhov

詳細不明

父方の祖父
ピョートル・フョードロヴィチ・チャイコフスキー
Pyotr Fyodorovich Tchaikovsky
(Пётр Фёдорович Чайковски)
Paternal grandfather of the composer

医師、地方名士。チャイコフスキーという家名が公式記録に記載された最初の人物。上流階級に生きるP.Iの直接的ルーツ。
1745年に生まれる。ポルタヴァ(現在はウクライナ国内)に近いニコラエフカ(現在はロシア国内)に生まれる。フョードル・アファナシェヴィチ・チャイカとその妻アンナの次男。

キエフの神学校にて学ぶ。後にサンクトペテルブルクにて医術の訓練を受ける。1770年から1777年にかけて陸軍の軍医助手として、ロシア中西部のペルミ地方クングールにて医務官となる。1782年にヴイヤートカに移転する。ロシア皇帝エカテリーナ2世による、領地を持たない地方名士を含む貴族名簿に記載される。ロシア貴族学校(貴族男子寄宿舎学校。無料のため貧しい貴族が帝国に奉仕するための支援として位置付けられる学校)に3年間所属する。
1789年にヴイヤートカ市議会の一員となる。1795年にグラゾフの後任としてスロボドスコイ市長に就任し、聖ヴラディーミル(第4級)を受勲する。

1776年にアナスタシア・ステパノヴナ・ポソコヴァと結婚する。
子供は11人。
ヴァシリー(1777年生)
エヴドキヤ(1780年生)
エカテリーナ(1783年生)
イヴァン(1785年生)
アレクサンドラ(1786年生)
ピョートル(1789–1871)
アンナ(1790年生、幼少期に没)
マリア(1792年生、幼少期に没)
ヴラディーミル(1793–1850)
イリヤ(1795–1880)作曲家P.Iの父
オリンピアーダ(1801–1874)
参考資料:T-R

父方の曽祖母
アンナ・チャイチカ
Anna Chaychikha

詳細不明

父方の曽祖父
フョードル・アファナシエヴィチ・チャイカ
Fyodor Afanasyevich Chayka
(Фёдор Афанасьевич Чайка)
Paternal great-grandfather of the composer

ウクライナ・コサック
チャイコフスキーの家名の源流、チャイカの苗字はこの人物の系譜による。チャイカは「カモメ」の意味(特に、カモメの種の中でも大型のオオカモメは、ウクライナの水辺でも多くみられる)。

1695年にポルタヴァ(現在はウクライナ国内)に近いニコラエフカ(現在はロシア国内)に生まれる。
父はアファナジー・チャイカとされるが確認できないため本家系図では省略した。
コサックとして、オメルニツスキー師団のミルゴロドスキー連隊に所属した。評伝によるとフョードルは1709年7月9日(旧暦6月27日)の「ポルタヴァの戦い」においては、ピョートル大帝の軍で戦ったとされる。だが、生年から計算すると若干14歳だったことになる。
アンナ(1717年生)と結婚する。
1767年没。

子供は5名。
ダニロ(1738年生)
ピョートル(1745年生、作曲家P.Iの祖父)
ミハイロ(1748年生)
マトヴェイ(1750年生)
アレクセイ(1760年生)
参考資料:T-R


アレクサンドラ・アンドレーエヴナ・チャイコフスカヤ

Aleksandra Andreyevna Tchaikovskaya
(Александра Андреевна Чайковская)

作曲家P.Iの母 / Mother of the Composer アレクサンドラ・アンドレーエヴナの次女も同名のアレクサンドラ(・イリイチナ・チャイコフスカヤ/婚後:ダヴィドワ)のため、混同しないよう注意が必要。

●1812年8月11日(旧暦7月30日)生。出生地はサンクトペテルブルク。旧姓アレクサンドラ・アンドレーエヴナ・アシエール。
●1854年6月25日(旧暦13日)にサンクト・ペテルブルクにて没。

一家の中心人物|知性と教養と芸術センス

 サンクトペテルブルクの税関吏アンドレイ・ミハイロヴィチ・アシエールと、エカテリーナ・ミハイロヴナ・アシエール(旧姓ポポワ)の第5子(次女)として、アレクサンドラ・アンドレーエヴナは生まれた。

 アレクサンドラが6歳の時に母が他界。その後、父アンドレイは、アレクサンドラを女子孤児院(後の「女子愛国院(Патриотический институт、1822改組、1918閉鎖)」に入学させる。この学校はフランスによるロシア侵攻(1812年)で死亡した将兵の遺児の養育と教育を目的とする慈善活動として発足したが、しだいに発展し、最先端のおしゃれな女学校となっていた。ロシア文壇の重要人物で、詩人・文学評論家のピョートル・アレクサンドロヴィチ・プレトニョフらが教授陣を務めており、当時としては高度な教育を提供する教育機関でもあった。プレトニョフは、プーシキンとも親交があり、『エフゲニー・オネーギン』を献呈されている。

 学校では言語や文学のほか、算数、地理、歴史を学ぶ。アレクサンドラ・アンドレーエヴナはピアノが上手く、聴き手を心地よくさせる歌声を持っているなど、音楽の才能にも秀でていた。21歳でイリヤ・ペトロヴィチ・チャイコフスキーと結婚。

 こうした知性と教養、機転、芸術的センスに加え、作曲家P.Iの芸術的感性を育み、チャイコフスキー一家の文化的基盤を築いた愛情深い人物でもあった。P.Iの幼少期の教育を担ったフランス人家庭教師ファンニ・デュルバフをサンクトペテルブルクで見出し、ヴォトキンスクへ連れ帰ったのもこの母の偉大な貢献といえる。

 P.Iの思い出の中の母は、背が高めで、肉付きもよく、整った容姿、とても美しい小柄な手を持つ女性だった。P.Iはその手を「ずっとキスしていたい手」と形容している。ドレスから漂うパルマすみれの香りをP.Iは生涯覚えていた。早すぎた病没によって、それまで彼女が与え続けた母性はP.Iの精神の中で永遠の道徳性と神聖性を帯びたものへ変化したと考えられる。

 P.Iの末弟(双子)モデストは「黄色いアカシアの茂みに囲まれて、女性の腕の中に座っている」ことを人生で最も古い記憶、4歳のときの思い出として書き残している。「お母さん」と呼ばれ、他の人とは区別されている黒髪の大柄な女性に彼は強い愛情を持っていたと回想している。

家庭と教育|子供たちの人格形成への影響

 アレクサンドラ・アンドレーエヴナは、子供たちにロシアの諺でもある「Терпение и труд всё перетрут(根気(忍耐)強く、ちょっとずつ努力する)」を繰り返し教え続けた。その過程で具体的には、大きな糸玉から細い糸を作っていく作業などをやらせ、子供たちの人格形成をしていった。 彼女自身は針仕事が得意であった。特に刺繍を趣味としており、精細なクロスステッチが施された暖炉の掛け布は現在もヴォトキンスクのチャイコフスキーの家博物館で見ることができる。

 1846年に前妻との間の長女ジナイーダが、サンクトペテルブルクの寄宿学校(貴族や富裕家庭の女子のための教育機関)からヴォトキンスクに戻ってくると、息子たちを今度はサンクトペテルブルクの学校へ進学させる準備を進める。その際、アレクサンドラ・アンドレーエヴナは、家族が離れ離れで生活することを望まなかった。一家揃ってのサンクトペテルブルクへの移住を夫に願い、その希望を叶えた。

 なお、ファンニ・デュルバフはヴォトキンスクに残って地元の有力者の家庭にて教師を継続し、1852年にフランスへ帰国。長兄ニコライと次男P.Iの幼少期の文字の練習のノートを保管していたのはデュルバフであった。デュルバフは教師として、ニコライとP.Iの才能を見抜いており、少なくとも二人のどちらかは有名な人物になるだろうと予感していた。チャイコフスキー一家とも文通を続けた。後任家庭教師だったリージヤとも手紙をやりとりし、チャイコフスキー一家の様子を聞いている(1849年の手紙など)。ただしデュルバフはP.Iがあまりに音楽に夢中になることを諌めていたが、アレクサンドラは音楽が勉強の害になることはないと考え、P.Iが勉強後ならばピアノに向かうのを制限はしなかった。デュルバフはフランス語を日常的に使い、ロシア語はほとんど使えず、楽器演奏もできなかった人物であった。

 サンクトペテルブルクを去ってアラパエフスクでの生活が始まると、新たな家庭教師アナスタシア・ペトロヴナ・ペトロヴァを見つけ、迎え入れた。この家庭教師は孤児出身、ニコライエフスキー孤児院を卒業した若い教師だったが、ロシア語、ドイツ語、フランス語に加え、それぞれの文学作品を勉強していたほか、踊り、音楽、絵画も習得している優秀な家庭教師だった。ニコライエフスキー孤児院は卒業者に家庭教師、学校教師、乳母の資格を与えて生活の自立を支援していた。ピアノ演奏もでき、P.Iと連弾もできた。14歳の時の作品「アナスタシアのワルツ」はこの家庭教師に捧げた小品である。

家族との日々|サンクトペテルブルクとアラパエフスク

 1850年、双子のモデストとアナトリーを出産。双子には看護師と乳母が2人ずつ付いていたため、チャイコフスキー一家には女性と子供たちで合計20人近くが共同生活をしていた。この1850年のイリヤ・ペトロヴィチの55歳の誕生日(7月31日(旧暦20日)には、エカテリンブルクから楽団と合唱団が招かれ、民謡が披露されるなど、特に盛大であった。

 クリスマスや復活祭などの日には、一家で祝う行事が催され、ジナイーダが演劇の脚本や衣装、演出などを手がけて主役を務めた。上述の1850年のイリヤの誕生日には、家族だけでなく、会社の関係者や楽団も含めた大所帯でピクニックに出かけ、ボート遊びや音楽演奏、踊りなどを楽しんでいる。P.Iはその日がいかに楽しかったかをデュルバフに手紙で報せている。特にクリスマスの行事とツリー(クリスマスツリー)は、一家にとって団結のシンボルでもあった。

 P.Iが法律学校への入学のためにアラパエフスクからサンクトペテルブルクへ出立したとき、アレクンサンドラ・アンドレーエヴナはジナイーダや長女アレクサンドラを連れてP.Iに同行し、ジナイーダの家に滞在した。P.Iが首都での新しい生活に慣れ、別離による寂しさを理解するための時間を与えようと工夫したのである。

 母がアラパエフスクに帰る日のP.Iの様子を、ニコライは次のように書き残した。「母にしがみついた彼(P.I)には、慰めも、早く戻るという約束も効き目がなかった。聞き分けもなくなり、無我夢中になって母と自分が一体であるかのように振る舞うので、乱暴に引き離すしかなかった。ようやく彼を離すことはできたが、馬車が動き出すとまた狂ったような叫び声をあげて馬車を追いかけ、踏み板や取手など、掴めそうなところには何でもしがみついて止めようとした。彼は生涯、その日のことを忘れないだろう⋯」。30年後、P.Iはこの日のこのことを「馬車が去り、視界から消えたときの狂おしいほどの絶望」と回想している。P.Iは母に会えない寂しさ、会いたさ、苦悩を繰り返し手紙に記している。

 アレクサンドラ・アンドレーエヴナはP.Iの辛さを考えると、身が引き裂かれる思いであった。彼女は夫に辞職と移住を頼み込み、1852年に一家全員でサンクトペテルブルクへ移ることを決心させた。5月には、一家はネヴァ川の河口に近い分流の大ネフカ川に注ぐチェナイア・レチカ(「黒川」の意、全長約8kmほどの川)沿いの一軒家を借りて生活を始める。P.Iは生き生きとし、幸せを取り戻した。P.Iの私生活上の幸福の源流は、母アレクサンドラの愛情であった。

コレラによる急逝|P.Iの生涯最大の悲劇

 一家は1853年9月、「ピョートル大帝の夏の庭園」からフォンタンカ川を挟んだ反対側、P.Iの学校にも近いソリヤノイ通り6番地の集合住宅に移る。ジナイーダは結婚し、その時の家庭教師のリージヤも婚約しているなど、一家の暮らしは順調だった。

 1854年、サンクトペテルブルクにコレラが流行する。アレクサンドラ・アンドレーエヴナも感染して病に臥した。医師の懸命な治療によって家族は希望を得て、一時、病状が好転したかに見えた。容態が3日間にわたって安定していたので入浴したが、6月25日(旧暦13日)の夕方、苦悶の表情を浮かべるようになり始め、家族に別れを告げる間も無く息を引き取った。42歳だった。埋葬地はスモレンスク墓地。

 彼女の死後、夫もコレラに感染したが幸いにもイリヤは快復した。P.Iにとって、母の死は人生最大の悲劇であった。この後、23年後にフォンメック夫人へ宛てた手紙でも、P.Iは母を慕う気持ちを綴っている(1878年)。彼にとって母以上の女性はおらず、母の歩いた地面さえも崇拝するほどというのは大袈裟ではなく、母の面影を永遠の理想としていたことが窺える。

母との見えない絆|ナイチンゲールの歌

 リストの翻訳、バラキエフやグリンカによるピアノ編曲版でも知られるアレクサンドル・アリャビエフ(1787-1851)の歌曲「ナイチンゲール(Соловей)」(1827初演、1843出版)は、P.Iにとって母の歌声と重なって聴こえる歌であった。P.Iは涙なしにこの歌を聞けなかったと述懐している。

 なおアリャビエフの歌はディーリヴィク(アントン・アントノヴィチ・ディーリヴィク男爵。ロシアの詩人・作家、1798-1831)が作詞しているが、P.IのOp.60 No. 4はプーシキンの詩を基にしている。

 ロシア民謡におけるナイチンゲールは、自由な鳥、親しい友人、翼を持つ忠実な大使、優しさと愛情の象徴とされる。しかしこのナイチンゲールには、悲運によって引き裂かれた人々を結びつける、目に見えない絆の象徴と別れの歌といった意味も重なっている。

参考資料

https://ok.ru/tsibilavairyna/topic/68519162541419, 2022/3/19閲覧
https://en.tchaikovsky-research.net/pages/Aleksandra_Tchaikovskaya, 2022/3/19閲覧
http://chaiklib.permculture.ru/мать-композитора.aspx, 2022/3/19閲覧
http://www.tchaikov.ru/mother.html, 2022/3/19閲覧

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イリヤ・ペトロヴィチ・チャイコフスキー

Ilya Petrovich Tchaikovsky
(Илья Петрович Чайковский)

作曲家P.Iの父 / Father of the Composer イリヤは、当時のロシアにおいて第一線で活躍していた鉱物採掘・鉱山技術、冶金、製鉄技術、工学、鉱山に関する法律の専門家である。

●1795年7月31日(旧暦20日)生。出生地はヴイヤートカに近いスロボドスコイ。
●1880年1月21日(旧暦9日)、サンクトペテルブルクにて没。

出生と幼少期|鉱業での貢献を志す

 1795年7月31日(旧暦20日)生まれ。出生地はヴィヤートカに近いスロボドスコイ。ピョートル・フョードロヴィチ・チャイコフスキーとその妻アナスタシアの5男として生まれる。

 兄弟たちは軍人となっていたが、1808年にヴィヤートカの小学校を卒業したばかりのイリヤは母に連れられてイジェフスクの工場を訪問し、そこで働き始めることになる。科学者としてロシアの鉱山工学の第一人者でもあったアンドレイ・デリャービンが工場長を務めていたその工場で、イリヤは工場業務の基礎を学ぶ。仕事を習い始めの役職としては最下層の2等鉱山技術者であったが、書類の複写係を与えられた。この係は鉱山に関する書類を扱うため、記録や報告内容に日常的に接することができ、知識を蓄えるのに最適な役職だった。そうした中、イリヤは鉱業や冶金技術の分野で国(社会)に貢献したいという思いを強くしていった。

 1810年、デリャービンはサンクトペテルブルクの鉱山と塩務の部署から呼ばれ、鉱山に関する士官候補生の養成の責任者を任される。これが現在のサンクトペテルブルク国立鉱山大学になる(日本語資料では鉱業大学の表記も見られる)。鉱山大学は本来、貴族や将校の子弟を受け入れて教育する機関であったが、デリャービンは優秀な助手であったイリヤを忘れてはいなかった。鉱山学、鉱物科学、化学に関心を持っているその青年、イリヤに士官候補生になる誘いを掛けた。

青年期|ロシアの鉱業技術の発展と共に歩む

 1817年、22歳のときにサンクトペテルブルクの鉱山大学を銀メダル授与の好成績で卒業する。1818年から1821年までは測量技術長を補佐する鉱山技師としてペルミの鉄工所で働く。鉱物採掘に関する高度な専門知識を持つ技術者であり、一般の肉体労働者とは異なる。1821年から1831年までの期間は、エカテリンブルク地方の鉄工所や岩塩採掘所にて、技術的な権威を持つ役職にあった。地方裁判所の決定を無効化できるほどの権限も持っていた。

 1824年にはノヴゴロド県で岩塩鉱床と鉱泉に関する地質学的調査を実施し、溶存鉱物質等を高濃度で含む天然水に関する論文を鉱業学の専門誌に発表した。このときの調査には、ロシア初の掘削技術が導入されている。論文の寄稿はその後、12年間にわたって精力的に続いた。

 30歳の1825年には、鉱山大学の研究センターにて、採掘と岩塩に関する問題を扱う科学委員会のメンバーにもなっており、鉱業に関する統計学や法学の授業も受け持っていた。

 しかしイリヤが重視していたのは研究所での昇進よりも、国をより豊かにする成果に直結する、生産現場での技術指導だった。そのために青年時代のイリヤはロシアの発展のために国内の各地を飛び回る科学者兼技術者として活躍していた。

 1831年から1837年の間は、北極海の一部である白海に面したオネジスキーにて塩鉱山の管理者を務めるのは、そのようなイリヤの情熱によるものだ。

 プライベート面では、少し遡るが1827年9月23日(旧暦11日)にマリヤ・カルロヴナ・カイザーと結婚し、作曲家P.Iの異母姉にあたるジナイーダ(1829-1878)が誕生している。しかし結婚生活は短く、1831年にマリヤ・カルロヴナが他界する。2年後の1833年10月13日に、イリヤはアレクサンドラ・アシエール(1812-1854)と結婚する。

壮年期|成功と誇り

 ネオジスキーからカムスコ・ヴォトキンスクに移り、同地の製鉄工所の所長に就任したのは1837年である。この地位は1848年まで務める。

 ヴォトキンスク工場は、当時のロシアにとって重要な国家事業の1つである。イリヤ自身も工場長の職位を「皇帝陛下の勅令を受けた鉱業科学技術組織の推薦により託された大任」と見なしていた。

 当時の冶金技術は伝統的なものから、科学に基づく最新手法へ置き換わろうとする、時代の転換点にあった。イリヤは職人技術に支えられた塊鉄炉から、攪拌精錬法への転換を行い、当時最新だった錬鉄の製造技術を現場に取り入れることに成功した。この方法は電気炉製鋼に移行する20世紀まで現役であった。

 1843年になるとイリヤは、ガス攪拌炉を導入し、燃料費を半分に節約するといった技術革新も起こす。ロシアの専門家たちは、ヴォトキンスク工場の鉄はフランスやドイツ製の鉄よりも品質と経済性で優れていると賞賛している。1845年にヴォルガ河の支流カマ河に浮かんだ商船「アシュハバド」は、公称40馬力、当時のロシアにおける最初期の蒸気機関船の1隻であった(第2次世界大戦中に沈没した商船とは同名の別船)。同種の蒸気機関船には、作曲家P.I も8歳の時に乗船したことがある。手紙に「船には美しいキャビンがあって素晴らしいのですが、スピードが遅すぎて、1時間かかっても2ベルスタしか進まないのです」(ロシアの距離の単位。1ベルスタ=1.067km)と書いている。なお、江戸幕府に蒸気機関の実物を見せたプチャーチン来航は1853年である。

 ヴォトキンスク工場長を務めた12年間で、この工場は銀に換算して44万7千ルーブルを国庫に収めることに成功した。つまり黒字化である。生産と技術革新を同時並行で進めていったことが、その成功を後押しした。その功績により、イリヤはサンクトペテルブルクにて、聖スタニスラウス3等勲章と聖アンナ2等勲章を授与される。

 イリヤは当時を次のように回想している。「ヴォトキンス工場で実施したことはすべて、私の中で正当な誇りと、自分の義務を誠実に果たした役人だけが感じられる、非の打ちどころのない誇りになっています」。

 1848年に、イリヤは准将(あるいは工兵大佐)の地位を得て、ヴォトキンスク工場長を辞任する。家族と共にモスクワに移ったのち、新たな任地を求めてサンクトペテルブルクに移住した。しかしどちらの都市でもイリヤは期待した職を得ることはできず、1849年5月に家族とともにウラル地方のアラパエフスクへ移り、同地とニジェ・ネビャンスキーにある私設工場(資産家が経営している工場)で管理者に就任した。期間は1849年から1858年であるが、この期間はエンジニアとしてではなく、工場のマネージャーとしての職務を果たした。

晩年|後進指導で発展に尽くす

 1853年にサンクトペテルブルクに戻るが、1854年は妻をコレラで亡くす悲劇の年となった。貯蓄も底を付き、年金生活が続く。次女アレクサンドラを女学校から戻したほか、イリヤはP.Iと共に家族全員でモデストとアナトリーの養育を行なっている。妻の死によって、彼ら家族の結束はより強くなった。

 1858年10月10日には鉱山研究所(後のサンクトペテルブルク国立鉱山大学)の所長に任命されて鉱山に関する法律を講義したほか、1828年創設のサンクトペテルブルク工科大学の発展にも貢献し、同大学の教授も務めた。また、引退前の1861年には聖ウラディーミル3等勲章を授与されている。

 1865年、イリヤは70歳を迎えていたが、36歳の未亡人のエリザヴェータ・ミハイロヴナ・アレクサンドロヴァ・リッポルト(1829-1910)と3度目の結婚をしている。

音楽|プロ音楽家を志望する息子への支援

 イリヤは音楽を好み、彼自身もフルートを演奏してアマチュア・コンサートに参加するほどの腕前であった。今日のフルートの定番であるベーム式の金属製フルートは1847年に発表されているため、イリヤが演奏したのはモーツァルトから古典派にかけての時代の木管フルートであっただろう。子供たちにも音楽への関心を促したが、音楽は人生の楽しみ、伴侶であって、音楽を職業にすることまでは薦めていなかった。

 同様にイリヤは、P.Iが法務省職員として安定的に生活することを望んでいた。だがP.Iが役所を辞めてプロの音楽家を目指そうとしたときも強固には反対せず、精神的・経済的な支援を続けた。P.Iを指導していたピアノ教師に、P.Iが音楽家としてやっていけそうかどうか、才能の程度について問合せたこともある(そのときのピアノ教師の答えは――P.Iの伝記本によく登場するエピソードなので割愛する)。

 1880年1月21日(旧暦9日)、サンクトペテルブルクにて没。

 子供は合計で8人。
 ジナイーダ(最初の妻との娘、1829-1878)
 以後、2人目の妻との子供たち。
 エカテリーナ(出生後まもなく死亡)
 ニコライ(1838–1911)
 ピョートル(1840–1893):作曲家P.I.
 アレクサンドラ(1841–1891)
 イッポーリト(1850–1915)
 アナトリー(1850–1915)
 モデスト(1850–1916)

参考資料

https://forpost-sz.ru/en/a/2021-02-21/tchaikovskys-family-engineers-except-pyotr-ilyich, 2022/3/20閲覧
https://ru.wikipedia.org/wiki/Чайковский,_Илья_Петрович, 2022/3/20閲覧
https://ru.wikipedia.org/wiki/Пудлингование, 2022/3/20閲覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/攪拌精錬法, 2022/3/20閲覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/電気炉製鋼法, 2022/3/20閲覧
https://en.wikipedia.org/wiki/SS_Ashkhabad, 2022/3/20閲覧
https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_the_Great_St._Petersburg_Polytechnic_University, 2022/3/20閲覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/サンクトペテルブルク工科大学, 2022/3/20閲覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/サンクトペテルブルク国立鉱山大学, 2022/3/20閲覧
MONUMENT TO ANDREY DERYABIN, 2022/3/20閲覧
The Mining Museum(サンクトペテルブルグ鉱業博物館), 2022/3/20閲覧

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text and translation by ozakikazuyuki | * contact@ozakikazuyuki.com