アニメ視聴感想|『トロピカル~ジュ!プリキュア』斜めうえ勝手考察

[最終更新日] 2022.4.1

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© ABC-A・東映アニメーション / 公式サイトより

 『トロピカル~ジュ! プリキュア』を毎週楽しくリアルタイム視聴を継続していると、ぼんやりと提示された謎めいた部分が徐々に輪郭を持って深化していく様子を感じられて楽しい。ここでは、正解をカスってもいないかもしれない勝手な妄想的考察を視聴の感想を交えて展開したい。(全話鑑賞していますが、特に感想を持ったエピソードのみ書いています)

【注意! ストーリーに関するネタバレがあります】

目次

第46話(最終話)「トロピカれ!わたしたちの今!」感想

 見事な大団円である。美しく、立派で、それでいて笑いや楽しさだけではなく、困難を乗り越えた先にある喜びに満ちた人生観を描いた〝気高い喜劇〟といえるエンディングだと讃えたい。

記憶を吸い取る装置の真相

 まず、グランオーシャンの「記憶を吸い取る装置」(または「記憶消去装置」)の真相と実態について考える。記憶は「吸い取られて消された」のではなく、正確には「呼び覚まされないよう(決して思い出すことがないよう)アクセス制御されていた」と考えるべきではないか。

 人の脳内の記憶は改竄できても、人(人魚を含む)の想い、他人とのつながり、心の通い合った慈しみの気持ち、同情や共感といった根本的な「体験(の事実)」は消せない。記憶を吸い取る装置に可能なのは、人の脳の中の記憶そのものを吸い出して消すことではなく、その記憶を本人が「思い出せないようにする(想起不能)」ということではないかと考えられる。

 仮に「記憶を消す」ことが可能だとして、そもそも「記憶を消す」というのはどういうことなのか。「その出来事があった事実」は削除不可能だ(それが可能なのは「歴史改変」だ。「なかったことにする」のは時間操作系の技術となる)、脳内にある「その記憶」を「記憶する前の状態に戻す」なのだろうか。それとも「記憶していた部分を欠落させる」のだろうか。

 つまり「記憶」を「記録」と同等のもの、「記憶=脳内での記録」とする場合、その除去は物理的処置となる。だが「記憶」を「五感や身体のアクション、フィードバックとリアクションの複合体」と考える場合、記録に相当するような単純な実体はない。強いて言えば、特定の「時間」の属性情報で紐づけられた部分だけを抽出して「記憶」としているだけだ。

 いずれの場合でも、たとえば「記憶を消された人魚」は、記憶していた期間の自分の行動を思い出せない。思い出せない状態とは何か。たとえば泥酔した大人が記憶を無くすのは海馬がアルコールによって機能しなくなった状態だが、現象としてはそれに似ている。思い出そうとしたときに、自分の認識している時間経過の中に〝暗黒の空白地帯(ブラックアウト)〟が生じる。

 思い出せないというのは気持ちが悪い。人はアルコールを摂取すると「記憶を定着させる機能」がしだいに麻痺してくる。まず短期記憶を保持する前頭前野のキャパシティが下がり、直前のことがわからなくなる。次に海馬が機能しなくなってくると、短期記憶が長期記憶に送られなくなり、見たことや聞いたことが記憶されない状態となる。つまり、〝忘れた〟のではなく、最初から覚えていない。

 このプロセスを事後に変えることはできるのだろうか? 人は泥酔しても帰宅できる。これは頭頂葉の神経(ナビゲーションニューロン)が、過去に得ている情報と、目から入るリアルタイム情報を総合して体に指示を出すことで対処している。だから人は海馬が機能しなくても会話や帰宅くらいのことはできる。よって、泥酔者がどうやって帰ったかわからないが帰宅できている現象を生み出す。

 だが、多くの記憶を消去されても大した違和感を覚えず、日常生活を過ごせているとしたら、それは記憶の消去ではなく「記憶の改竄」がなされたと考えるべきだろう。だから記憶吸い出し装置は、対象に違和感を生じさせないレベルで、記憶をコピー&ペーストして繋ぎ合わせて辻褄合わせを行い、人間と接触した記憶を覆い隠している。つまり、思い出すことができない(想起できない)ように、記憶へのアクセスが生じる可能性の段階から排除する仕組みである。これはジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場する、都合の悪い記録を常に改竄し続ける組織「真理省」の業務を思い起こさせる。それは真実を隠し、組織(国家)にとって都合のいいことだけを市民へ与えるディストピアの象徴として悪名高い。

 しかしグランオーシャンの記憶吸い出し装置は「人間は先に死んでしまう。残された者(人魚)が寂しさに苦しんだ。過去を忘れたいという欲求を持ち、作った」というものであった。国家による情報統制とは異なる、ずいぶんセンチメンタルな自己コントロール技術だ。しかし技術的には共通である。

記憶吸い出し装置への接続は「思い出の中に閉じこもって生きたい」人魚への救済か

 では、まなつとローラが再会した際、記憶吸い出し装置が壊れたのはなぜなのか? これは、思い出さないよう機器がアクセス制御をしてはいたが、消された重大記憶の辻褄を合わせる「記憶を上書きする機能」が処理オーバーを起こした可能性が高い。この説でいくならば、機器は1回だけ記憶のクレンジング(アクセス制御処置)をするのではなく、継続的・持続的に対象者の記憶を操作し続けているという可能性がいえる。

 しかし人魚たちについては、グランオーシャンの中で記憶吸い出し装置は頭部を繋がれ、実際に記憶を吸い出されている(脳にそのための電気信号を送り続けている)かのように描写されていた。だが人間に対しては、虹色に消えていくトロピカルリングや関連した品々の消滅で視覚的に示されているように、機器への接続という処置は不要である。やる気パワーも無線方式で吸い出されているから、特定の電極的な機器を使わなくても脳を無線方式(リモート)で刺激可能なのだ。恐るべきテクノロジーである。

 では機器につながれている人魚とグランオーシャンの妖精は何だったのだろうか。ここで1つの仮説を思いつく。

 機器が必ずしも接続不要ならば、人間と接触した人魚たちを常時繋いでおく必要はない。繋がれているということは、実は真逆なのではないか。つまり機器に接続されている人魚たちは、「記憶の吸い出し中」なのではなく、目を閉じて記憶の中だけに生きている状態、言い換えるならば、機器に吸い出した記憶を脳へ送り続け、「人間と遊んだ記憶」を繰り返し体験しているのではないか。つまりずっと夢を見ている(見させられている)とも考えられる。

 これらの人魚は人間と接したの記憶を失いたくないがあまり、自ら機器に接続してグランオーシャンでの普通の生活を捨ててしまっている。「人間と接した記憶を消す掟」は、掟に従う代わりに機器に接続されて生きる選択の権利も与えられる可能性もある。つまりSF映画『マトリックス』における「赤いピル・青いピル」のどちらを選択するかと同じことが、「記憶を除去して現実を生きる・機器に接続されて思い出の中で生きる」の選択ではないか、ということだ。

 もっとグロテスクな世界観で言えばSFホラー映画の『イグジステンズ』のような、現実とは違う世界に脳(五感と記憶)で入り込んで生きている状態を選択もできる、ということだろう。過去に基づく代替現実に埋没するアイデアはSFに多い類型だ。仮想現実世界(虚構)や夢想(妄想・狂気)と現実の区別つかなくなっていくモチーフは、岡島二人のミステリー小説『クラインの壺』、映画化もされたパトリック・マグラア『スパイダー』など、多くの作品で題材となっている。

 しかしローラは「女王になる」という野心があるので、「繋がれて生きる」ことを決して選ばない。記憶吸い出しの処置をされることを選ぶ。しかし思い出を失う重大さは、1年の生活を通じて恐れの域に達していた。それでも先に吹っ切っていたまなつによって背中を押される。

 46話Bパートの後半で、まなつとローラがリップのことでお互いの名前を口走ってしまうのは、まさにこのアクセス制御をすり抜けてしまった状態であろう。まなつとローラのリップによる「思い出し」が、結果的に、記憶消去装置を出し抜くほど巧妙にできていたこと、こうした抜け穴が生じてしまうほど、まなつとローラの相互の接した記憶は濃厚かつ大量であったことの証左でもあろう。もちろん、「魔女の屋敷へ行け」と未来の自分に対して書き置きを残したローラも賢かった。

封じられた記憶への、強力なアクセスキー

 記憶へのアクセスが阻害されても、迂回して記憶に至る道があった。それはお互いの名前だったわけである。

「すごい! 人魚って本当にいたんだ! 私の名前は⋯⋯」(まなつ)
「あなたは私を知らないのね」(ローラ)
「えっ?」(まなつ)
「なら、私が探している人間ではないわ」(ローラ)
「誰かを探しているの?」(まなつ)
「ええ、友達を」(ローラ)
「へぇ、私と同じだ。なんか手がかりは?」(まなつ)
「これ(リップを取り出す)」(ローラ)
「あっ、私のリップ!」(まなつ)
「えっ?」(ローラ)
「なんでローラが持ってるの?」(まなつ)
「えっ?」(二人)
「なんでまなつが私の名前を知ってんのよ」(ローラ)
「えっ?」(二人) 


記憶吸い出し装置がクラッシュし、シャボンピクチャーが溢れ出す。

 このシークエンスは、まさに封じられた記憶へのアクセスが「名前」によってこじ開けられる隙があったことを示している。名前がわからない。しかし会話の中でリップをヒントに、名前がするりと記憶から出てくる。つまり、記憶吸い出し装置によって海馬を操作されても、二人の視覚と記憶が結びついた強固な長期記憶は、頭頂葉から指示を受けてするりと出てきてしまった。この条件反射的な行動は、泥酔者が帰宅できる本能的なものと似ている。たとえ記憶を吸い出されても、もっと深い記憶はアクセスキーさえあれば引き出せることの証明だ。魔女は、あとまわしにし続けたことで、それさえも失っていたが、ローラとまなつがそれを失うには、まだ日が浅過ぎた。

 そうした記憶へのアクセスは、アクアポットと連動していたことがシャボンピクチャーの写真が飛び出してくる演出で確定する。

 では記憶は解除されたのか? 二人が声を合わせて「トロピカってる〜!」ということから、これは上の条件反射的反応ではなく、記憶吸い出し装置の処理オーバーによる故障で、記憶は復活したと考えていいだろう。見つめ合った二人は、シャボンポクチャーを見ると同時に、記憶へのアクセス制御が崩壊して、思い出が一気になだれ込んでくる、震えるような感動を持ったに違いない。

記憶を消される≠忘れる

 バトラーはあとまわしの魔女の記憶(=海馬、=タツノオトシゴ、=バトラー)は魔女の思い出を一手に預かっており、あとまわしに続ける魔女に従った。だが、ローラとまなつの海馬(長期記憶)は、その想いの強さゆえに記憶吸い出し装置に反抗した。記憶吸い出し装置の故障と暴走は、グランオーシャンにとって前代未聞であったろう。

「私たちは忘れない⋯⋯もし記憶を消されても、絶対に忘れないよ」(まなつ、第46話)

 これは一見すると、矛盾したセリフである。まなつがアホな子として、論理的に破綻した主張をしているような印象を視聴者に与える。しかし「記憶を消す」を「記憶へのアクセスが妨害される」と読み替えるならば、「忘れる」とは別の次元のこととなる。探し物が見つからなくても失ってはいない状態と同じだ。つまり、「記憶を消されても忘れない」は、「たとえ思い出せなくても、出会ったことは変わらない」という意味で成立する。

「会えなくなってもずっと覚えているって、さびしいことなのかな」(みのり)
「さびしくない。忘れてしまう方がさびしい」(あすか)
「忘れちゃったら、さびしいこともわからないよ」(さんご)
たとえ会えなくなっても、ローラは一番大事な友達だよ」(まなつ)

 彼女たちの一巡するセリフは本質を突いている。みのり・あすか・さんごは忘却を否定している。まなつだけが忘れることを受け入れ、忘却の先にある「友情という真実」だけを真っ直ぐ見ている。まなつだけは、劇の舞台上で、ローラとの別れを完全に体験済みだからだ。

 まなつは「一生覚えている」という。しかしローラは、人魚の寿命の長さによる残された者の寂しさを語っている。ここにはズレがある。まなつはいつか、ローラを残して先に老いて死ぬからだ。しかし想いは時間を超越するものだという、まなつとローラの結びつきとみるべきだ。その結びつきに負けたのが魔女であった。ローラは克服できるのだろうか。自分だけが生きながらえるという重さに。

実は気遣いの鬼、夏海まなつ

 本作の最後の感想として、主人公まなつについて考えたい。

 離島から来たまなつは、ギャグ対応ができるコメディ要員を兼ねるという独特な主人公だった。裏表がなく、底抜けに明るく、常に前向きであると感じられる。悩める主人公が多い昨今では珍しい、シンプルで古典的な主人公に思われた。

 そうしたまなつの性格(キャラクター性)は、もちろん彼女自身が生まれ持ち、育ってきた過程で得たものである。だが、彼女が意図的にそう「演じてきた」部分も少なからずある。つまり、まなつは描かれていたほど単純ではない。

 最終話の演劇のラストシーンで、まなつは「本音」をローラに伝える。まなつは、明るく陽気に振る舞っていたし、実際そういう面もある。だが本質的には「他者への配慮や気遣いが異様なほどできる」「自分の希望や本音を押し殺してでも、気にしていないように振る舞える」という性格をしている。

 それはなぜか。まなつが父と共有している「今一番大事なことをやろう」という哲学は、他者においてもそうであるべきという呪縛を彼女にしているからだ。

 まなつの両親は別居している。父は南乃島でスクーバのインストラクターをしている。母はあおぞら市の水族館職員をしている。両親は、それぞれの「やりたいこと」を今一番大事なことにした結果、別居を選択した。これがまなつの人格形成にどのような影響を与えただろうか。

 親は「今一番大事なこと」を語り、それぞれのやりたい仕事をやっている。まなつもその影響を受けた行動重視の生き方をしている。だが、そのまなつにとっての「大事なこと」がもし、「大切な人と離れ離れになりたくない」ならば、両親が一緒に生活していないことは、まなつはその大事なことを実現できない。それがどれだけ、まなつの心に影を落としているだろうか。両親は、だからまなつも自分のやりたいことをやるべきだという教育をしている。だが、叶わない願いを「やるべきだ」と言われても、できそうにない。

 つまり、まなつは両親がそれぞれ、やりたいことのために行動し、距離ができていくのを、ただ見ているしかできなかった。しかし「やりたいことをやる」思想が善であり、是であると染みついたまなつが、両親のやりたいことを否定して〝自分のために〟同じ場所で生活してほしいなどとは決して言えない。

夏海家の〝自立的個人主義〟

「今一番大事だと思う事をやる」。これは言い換えるならば、個人の権利と、自己実現への自由を至上の価値として尊重し、自立に基づく個人の尊厳をその自由の根拠とする思想だろう。私利私欲の充足と他利の尊重をバランスよく両立させて実現しようという考え方だ。利己主義ではなく、「お互いの生き方を尊重する人」を尊重する個人主義。優しさと思いやりに満ちた〝自律的〟な自己中心主義と言ってもいい。

 この思想を実行する上では、気遣いが不可欠となる。まなつが気遣いの鬼となったのは、両親のやりたいことと、自分の「こうあってほしい」が矛盾することにいつしか気づき、自分のワガママだと考えた一家同居の願望にフタをすることを覚えたからだ。

まなつ「お父さん、1人で大丈夫?」
大洋「ああ、心配するな! 俺はこの島でやりたい事があるからな! だから、まなつも!」
二人「今一番大事だと思う事をやれ!」

 第1話で交わされる、この何気ない導入部の会話。これは実は、以下のように行間を補足できる。

「お父さん、1人で大丈夫?」(まなつ)
→「私は本当は、できるならお母さんと3人で暮らしたい」

「ああ、心配するな! 俺はこの島でやりたい事があるからな!」(大洋)
→ここでのまなつの本心は「でも私のやりたいことは、2つの島に分かれていては実現しない」となる。

「だから、まなつも!」(大洋)
→ここで、まなつと両親、それぞれが別々の人格・個人として完全に精神的分離がなされている。大洋は、優しい個人主義者だ。さまざまな仕事や夢を経て、自分の生き方を発見している大人である。

『今一番大事だと思う事をやれ!』
→表面上の大事なことを実行しても、本心から1つ実現したい両親との生活は叶わない。まなつには成長に伴う諦めが同居している。
(後述するが、これが46話を経てローラの「私の夢を叶えるために帰らなきゃ」という言葉に応える「行かないで! 行かないでよローラ。帰るなんて言わないで」「私、ローラが一番大事なことをして欲しくて応援してるって決めたのに」に繋がってくる。)

 一緒に寝る、一緒にご飯を食べる。それが家庭の中で叶わなかったまなつなのだ。

 まなつは、けっしてお馬鹿さんではない。多数の選択肢の中から、優先度の低い選択肢を瞬時に弾き飛ばして、最善の意思決定(決断)をできる即決の能力を持っている。しかしそのときに「自分自身の願望」も選択肢に含まれている場合、自分自身の願望の優先度を下げる異様な気遣い力がある。まなつは明るく振る舞うが、他者を気遣ったうえでの優しい明るさだ。しかしその裏で、自分に対して厳し過ぎではないだろうか。

 だからこそ、他人にはあれほど「今一番大事なこと」を主張するが、まなつ自身は決して「私にとって今一番大事なこと」を表面的や即物的、あるいは刹那的にしか突き抜けられていない。たしかにトロピカってるという電波セリフで大事なことに集中しているように見えるし、迷いや戸惑いがある友達を誰よりも鼓舞している。だが彼女自身はあまり応援されていない。応援が不要なほど、すでに自由に生きていると思われている節もある。

 事実、その天真爛漫さによる突破力は群を抜いている。だが、迷わないわけではないし、忍耐力がないわけでもない。むしろ強い忍耐力があるし、それを噯(おくび)にも出さないようにしている。視聴者はコメディ化された演出によって、まなつの内面の重さの平衡を保っている。

 その「言わない忍耐」から溢れてしまった本音が出るのが最終話だ。心情、本音、素直なまなつ自身が制御不能になって溢れてしまった。しかし言わずにはいられない。だが言っても解決しないし、むしろローラの迷惑になるかもしれない、自分勝手なわがままと承知の上で、今だけ言わせてもらった状態といえる。

 その直前にローラは斜め上を見上げて劇中のセリフを語る。「だけど私は帰らなきゃ。私の夢を叶えるために帰らなきゃ」。そうローラは設定されたセリフを演技しているようでもありつつ、これが彼女の(一緒にいたいという想いと同居している)矛盾を自覚した想いからの脱却、逡巡からの解放、究極的にいえば解脱に近い悟りを得ている。

 だから演劇の舞台上で、まなつは「トロピカってる」を言えなくなって、噛んで、うわずった小声で言い直してしまう。

「行かないで! 行かないでよローラ!」は、まなつが両親にでさえ言わなかった、言えなかったことだ。まなつには、各自の「大事なこと」の前に自分が口出すべきではないという価値観が染み込んでいる。「行かないで」は全力で言えた最初で最後の本音だったのだ。「帰るだなんて、言わないでよローラ」。しかしまなつはすぐに気づく。気遣いの鬼が帰ってきた。「私、ローラが一番大事なことをしてほしくて、応援してるって決めてたのに」と嗚咽が止まらない。

 ローラができることは「ありがう、まなつ」と伝えることだけ。それ以外にはない。だからこそ、仲良しの歌をアカペラのユニゾンで歌いだしても、それに参加できず、舞台の書き割りを倒して台無しにしてしまう。この笑劇展開も、これは1年かけて準備されたオチなのだ。「感動のシーンなのに、笑いが巻き起こってしまったわよ」(ローラ)、「問題ない。これが私たちの物語だから」(みのり)。そう、これがトロプリなのだ。

 「オーライ、ここから立て直しましょう」(ローラ)。人魚であることを暴露し、風紀委員長の伏線を回収しながら喜劇として決着をつけるのもトロプリならではだ。

〝忘れても自分の言葉で話せばいい。それが私たちの物語〟

 まなつにとっての自己認識は、現状を何も変えられないし変えるべきでない、自分の余計な一言によって変わってしまっても困るが、変わって欲しい気持ちもある。相手の「今一番大事なこと」に割り込むことは無粋だと、まなつは誰よりもよく知っている。最終話は明るさと暗さ、天に昇るほどの軽妙さと深刻な重さとが分離不能な状態になって同居している。

『化物語』シリーズSeason 2を見ていた人は、「つばさタイガー」のクライマックスシーンを思い出してほしい。好きな人がいる人を好きになってしまっている。それらの人間関係を知っている。知っているが、言わずにはいられない。伝えずにはおけず、思い描いた素敵な幻想を持ちつつも、「ごめんな」と振って欲しいとも思っている。

 強い願望はあるが、その熱は自分を内側から燃やして焦がしてしまう。最後に漏れ出るのは、本当に最後の最後、金輪際出ることないSOSなのだ。最終話のまなつのセリフも、まさにそれだった。

「何が大事かは自分で決める! 今一番大事な事は⋯⋯。大事な事は!」(第1話)。このセリフとともに、まなつはプリキュアに変身する。

 最終話でも、「私はローラが今一番大事だと思うことをやってほしい」と部員の前で堂々と宣言し、演劇のラストシーンについて「仲良く暮らしました」を「女王になるために自分の国に帰っていきました」に変更したいというローラからの提案を、ローラの決意および回答と受け取っている。「ローラがそう決めたなら」と。

 だから、他人の決定を覆すようなことはいけない。それがまなつの価値観であり、粋な精神なのだ。

 最終話は、笑いの喜劇、別れの悲劇、再会の喜劇で成り立っている。そうした乱高下を実現した稀有な作品、トロピカル〜ジュプリキュア、本当に素晴らしかった。「忘れても自分の言葉で話せばいい。それが私たちの物語だから」(みのり、46話)

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第45話「やる気大決戦! 輝け!トロピカルパラダイス!」感想

トロプリの本質

 トロプリの本質は勧善懲悪ではなく日常系部活モノである。前作ヒープリにおいてビョーゲンズとの闘争は、敵方の親玉であるネオキングビョーゲンを打倒することで完結した。スタプリも紆余曲折あったのちの最終決戦を経て、大人になった仲間たちとの再会が待っていた。この点でそもそも直近の前2作とは構造そのものが異なる。

 トロプリで「成長後の姿」が最終回で扱われるのかどうかは、グランオーシャンの掟の問題つまりローラの記憶の処遇をどう扱うか次第だ。「今一番大事ななことをやろう」を貫いてきたトロプリにとって、まず一番大事なことはトロフェスの実行である。その先のことは、トロフェスが終わってから考えることだ。もしトロプリメンバーが地上を見ていて、その災厄の直撃している様子を知ってしまったら、その優先順位は変わったかもしれない。だが45話開始時点で海底にいて、トロプリメンバーは異常気象について知る由もない。よって、彼女たちにとって、トロフェスが最優先事項であることは変わらない。

 トロプリが終わってしまうことは、あおぞら市の生活やイベントを楽しんできてたこの一年間の日常が終わりを告げることだ。物語の中の人物は引き続き彼らのあおぞら市での人生を生き続けるだろうが、視聴者は愛すべきこの街から去らなければならない。寂しい。終わってほしくない。楽しいこの日々が続いてほしいという気持ちがこれほど強い4クール作品があっただろうか。

 あすか先輩が卒業してもOGとして登場してほしいし、まなつとさんごが2年生になり、新1年生を迎えた2年目のトロピカル部の活動を見たかった。「あすか先輩がいなくなると寂しくなるね」(さんご)、「しかしまた新入部員が入ってくるさ」(あすか)のシーンがいつか具現化されることを願う。次回作の放送が始まっても、毎週最後の数十秒間だけ「今週のトロピカル部」としてミニコーナーを挟み込んでくれないだろうか。いや、贅沢は言うまい。

欲求の消失は死を意味する

 さて、第45話を振り返る。

 バトラーは魔女の「破壊という存在理由(そのように生まれてしまった)」を勝手に引き継いだ。だが、彼が悪へと堕落したのかと言われると、少々そうとも言い切れない部分がある。魔女がプリキュアとの決着をあとまわしにし続けたがために、魔女に心酔していたバトラーは、いわば巻き添えを食った形でもあったからだ。

 回想のみに登場していた魔女の作った破壊の僕、コワスンダーを最終決戦にてバトラーが初めて召喚したのも、「やる気パワーの収集さえ完了すれば、魔女が世界の破壊を再開するのでバトラーがコワスンダーを持って地上へ侵攻する必要がなかった」ためだろうと推測できる。バトラーは、依然としてやる気パワーの収集と愚者の棺の解放に固執し続けていた。あくまでバトラーにとっては、魔女が世界を破壊し尽くすことが願いなのであった。また、コワスンダーの召喚は、触手のような手でトロプリメンバーのやる気パワーを吸い取る案だったのだろう。

 「もうやめとけよ」(チョンギーレ)、「魔女さまはそんなこと望んでないと思うわ」(ヌメリー)というセリフの通り、三幹部の思わぬ離反に加え、「奪われるほどのやる気を持っていなかった」(チョンギーレ)という発言にローラともども視聴者も驚いただろう。だが、なるほど、やる気がなければヤラネーダの光線は効かない。ということは、人間は多かれ少なかれ、必ずやる気を持っていることになる。

 やる気パワーを奪われた者が倒れてしまうのは、やる気(意欲)の喪失というコメディ的演出に思えたが、実際は生存や生命に関わる基本的欲求(生理的欲求)さえ強奪される強力な機能であったことが逆説的に証明された。やる気、いやもっと単純に「すべての欲求」を喪失した人間がどのような末路を辿るのかは、漫画『ダンジョン飯』でも描かれている。(ダンジョン飯についてはこちら

 そして意外なことに、バトラーは三幹部を騙していたことがエルダの突然のセリフから明らかになる。「願いが叶うなんて嘘をついてさ」(エルダ)に対し、「裏切るなんてずるいことは大人のすること」(バトラー)と論点をずらしてくる。このずるい論点ずらしが癪に触ったのでもあるだろうが、「いまこれが、エルダの一番やりたいことだから」(エルダ)とトロピカルパクトをまなつにパスする。

 「まあ、いいでしょう」はバトラーの口癖だ。多少の予定変更には動じない。なぜなら彼にとって世界の滅亡は規定路線であり、多少の寄り道があっても結果(世界が終わる)に変わりはないという思考の現れでもある。

愚者の棺の来歴の謎

 いくつかの疑問がいまだに解消されない。

 約200年前(劇中では「何百年前」と繰り返し言われる)に起きた魔女の地上侵攻およびキュアオアシスとの決着のつかなかった戦いの時点では、魔女とバトラーは愚者の棺を所有していなかった。当時のグランオーシャンの女王(赤髪の女王)は百合子似の人魚にトロピカルパクトを与え、アウネーテ(=キュアオアシス)を見出し、強い戦力を得た。だが魔女はその後、自身の屋敷に引きこもってしまっていた。その後のグランオーシャン女王の対応は描かれていない。

1)グランオーシャンはなぜ魔女の地上侵攻を阻止しなければならなかったのか。その理由がわからない。

 200年前に起きた魔女の地上侵攻の際、グランオーシャンに危害があった描写はない。グランオーシャンが地上を守る義理はないはずだ。人魚と人間の干渉を禁じているほどなのだから。よって、なぜプリキュアが必要だったのかが不明だ。

 しかもその戦いの後、魔女は屋敷に引きこもり長い時間が経過した。キュアオアシスは魔女を想う魂だけの存在となった。危害は去ったはずだが、魔女との友情を信じてその身を案じていたオアシスからのコンタクトを、グランオーシャンの現女王は維持していた。

 しかしその間に、愚者の棺を持ち出した「ならず者」の事件が発生する。

2)現女王のメルジーヌ自身がプリキュアになろうと試みた理由もわからない。

 なぜ前例(キュアオアシス)にならって、地上へのプリキュア探索を行わなかったのか。時間が足りなかったからであろうか。前例を無視して自らがプリキュアになろうとした女王がほかにもいたのだろうか。あるいは、プリキュアになったことのある人魚が過去にも存在し、メルジーヌ女王はその前例を参考にして自分もプリキュアになれると考えたのか? その時点で、メルジーヌ女王はキュアオアシスを知っていたのかどうかもわからない。

3)さらに、なぜ、ならず者は愚者の棺を手放したのか、あるいはバトラーが奪ったのか。

 バトラーがどのようにして愚者の棺を手に入れたのかは描かれていない。もしくは、バトラーが何らかの方法で入手しており、黒い影をまとった姿をして「ならず者」に変装してメルジーヌへ接近したのか。ならず者は女王の主観的な表現であるため、ならず者自身が名乗った言葉ではないだろう。

4)愚者の棺はどこからきたのか。一定量のやる気パワーを吸収すると世界を破滅させられるという情報をバトラーはどこで仕入れたのか。

 パワーが充填された愚者の棺は黒い渦を立ち上らさせて異常気象を引き起こしている。これは魔女の想像していた「永遠のあとまわし」を直接的に実現させる道具ではない。間接的には、世界を破滅させればキュアオアシスとの決着も当然不要になるので、永遠のあとまわしは叶うともいえるが、それは結果に対する解釈の違いでしかない。魔女がどういうイメージで「永遠のあとまわしが実現する」と考えていたのかはやや曖昧だ。魔女が忘れてしまった〝何か〟を明日へあとまわしし続けることを永久に続けられる。バトラーが魔女にそう思い込ませたのか。

 バトラーは「プリキュアとの決着は(魔女には)忘れたままにさせておき、魔女のやる気を取り戻して世界を破壊してもらう」ために行動していたことがシンプルにわかる。魔女の再起に失敗した場合でも、世界の破壊を実行するための保険(次善策、プランB)として愚者の棺を準備したとも思えるし、魔女の破壊活動を援護する兵器として愚者の棺を使うつもりだったのかと思われる。

 愚者の棺を解放すると天変地異が起こり、地上を物理的に破壊する。解放するには生命体から、大量の生命エネルギー(やる気)を奪う。生き物を死滅させたうえで破壊を引き起こす愚者の棺は実に極悪な装置である。一体誰が、何の目的でこんな危険なモノを作ったのだろうか。

5)バトラーが何らかの手段で入手した愚者の棺にやる気パワーを注入して世界を破滅させる「プランB」を用意したのは、トロプリはグランオーシャンの住民のやる気パワーが奪われる前のこの1年程度前のことであると推察する。

 魔女が再起しない可能性を考慮して、魔女をも欺くことや、自らの手で世界の破滅を行うことをバトラーが決意したのは、実はごく最近(実行開始は1年前、準備期間は愚者の棺を入手後から)だったのだと思われる。

 となると、やはり愚者の棺の入手経路が問題となる。女王は回想として「ならず者がどこで手に入れたのか(は、わからない)」と語っており、これが説明される機会は本編では得られなかった。引き続き考察を深めたい。

破壊神 VS. 五人の勇者+三幹部の加勢

 チョンギーレの決めポーズは完全にロボットアニメの決めポーズのそれであるし、オープニング映像でしか登場していなかったエルダのビーム(エビビッ!)もついに本編で使われ、しかもそれがプリキュアに加勢する形で登場したのも胸が熱くなる展開だ。



オープニングより



画面内にも「エビビッ」の文字が見える

 ここからの、いわば〝破壊神〟となったバトラーとの最終バトルを担当した作画チームがどのような方々なのかの分析と検証は他の有識者大友諸兄に解説の場を譲るが、あまりに面白いカットが多かったので、何点か振り返ってみたい。


破壊神となったバトラー


サマーが通過した直後におてんとサマーストライクの太陽と星が描かれている


ペケバリアが発動した瞬間に画面に「ペケ」が描かれている


パパイアの光線発射シーンのうち最もダイナミックに感じられる。もちろんバトラーの目を直撃している

 マゼンタ色の光線が差し込まれるフラミンゴの攻撃シーンはもはや、かつてのGAINAX(『天元突破グレンラガン』等)や、トリガー(『キルラキル』等)の世界観であろう。テニス選手ではなく女子プロレスラーの世界観に見える。


筋骨隆々な腕で巨岩を投げてバトラーの肩に物理攻撃を仕掛けている

 ラメールの急降下爆撃的なニードロップは破壊力抜群だ。絶対トドメを差そうという気迫がすごい。


ラメールは上から、サマーは下からバトラーを同時に攻撃している


サマーのアッパーカットには太陽のエフェクトがつき、ラメールには星(ヒトデ?)のエフェクトがつく。つまり両者の攻撃は上下からのハイスピード挟み撃ちだったのだ

 ここまでの攻撃ですでに十分痛そうであろう。しかしこあとの「いくよ! みんな」(サマー)からのマリンビートダイナミックが通用せず、「それでは反撃するとしましょう」(バトラー)で召喚されたジンベエザメが粉砕されたことには驚いた。

 合体必殺技が効かなかったにも関わらず、各自の初期技を連続で繰り出す演出は嬉しい。初期技が忘れられていないことが気持ち良い。

 もちろんこのときのコーラルは覚醒後の五連ペケバリアを使う。ラメールの前に滑り込む時点ですでに両手の指をすべて交差させている。ここでのペケバリアは手前側から順次出現する演出がなされている。強化バリアが粉砕されることでバトラーのパンチ力が表現されているのでわかりやすい。バリアが破られた瞬間のコーラルの表情は非常に繊細かつ丁寧、しかも美しく描かれているので、録画された大友はぜひコマ送りで鑑賞いただきたい。


バリアを出す前の指の組み方は、さんごが覚醒した第39話と同じ

 おてんとサマーストライクとぶっとびフラミンゴスマッシュはバトラーに弾き返され、ぱんぱかパパイアショットは発射前に殴り飛ばされてしまった。そのうえで、海底の岩盤を割ってしまうバトラーさんの物理破壊はもはや、あの〝東宝の大怪獣〟を凌駕⋯⋯は言い過ぎだが、それに匹敵し、勝るとも劣らない破壊力を有しているのではないか。


「一筋の光も届かない海の底で朽ち果てるがいい」(バトラー)のセリフの後、パパイアの光線が照射される展開も脚本の妙技だ。ここで「こういうライト、劇で使おうよ」(サマー)のセリフはすばらしい。100点! 海底でもトロフェスのことを忘れない彼女たちの会話からもトロプリの本質がなんであるかが思い返される。それまでのあまりに激しい戦闘ゆえに、日常パートのことを失念していた私は恥いるばかりだ。

 海底のシーンはBGMなしでパパイアの光線の効果音のみだが、「こんなところで終わりにしない」(サマー)から始まる音楽がまた一段と熱くなる。冒頭で述べたように、トロプリは悪を倒す作品ではなく、トロピカっている日常を描く作品なのだ。見る側も円陣の一員となって手を重ねているような気持ちになる。

 ストリングスによるミニマルなフレーズに乗せてトランペットが高らかに咆え、フルートが力強い意志を表し、チャイム(チューブラーベルズ)まで鳴らされる荘厳な音楽。カタルシスであり、最高のクライマックスが、いま来ようとしている……!

フィーバー!

 と、来たところでのエッシャーの騙し絵のごとくの連続するピンクの象と空色のジンベエザメ。「5つの力、世界にドカンとトロピカれ」で、円陣は5人がそれぞれの手を繋いだ大きな円を描く。フィルムスコアリングでピッタリ合わせたのかと思えるBGMの完成度! そして5つの指輪が虹色に弾け――。ここまで来て度肝を抜かれ続けた視聴者は多いにちがいない。だが、そのインパクトをさらに上書き(上塗り)してきたサンバの「プリキュアスーパートロピカルパラダイス」のフィーバーには、もはや〝騒然となった〟としか形容できない。

 キュアオアシスかと思いきや、実はエンドロールを見ると「トロピカルパラダイス」と表記されている。よって昇天したオアシスその人ではなく、あくまでリングによって具現化されたトロプリ5名の合体技だと判断できる。〝具現化された巨大な女神が鉄槌を下すという超必殺技を使う先輩〟と映画で共演したことで覚えたのだろうか、と勘繰ってしまうのであった。

 「はいはいはいはい」×3で迫ってくる「トロピカルパラダイス」のお腹(というか、おヘソ)で吹き飛ばされたのみならず、蚊を潰すように両手でペシャンコにされてしまったバトラーくん(あえてクン付けで呼ぼう)。南無南無⋯⋯。


「トロピカルパラダイス」

ボス打倒後の後始末

 同僚から見捨てられずに「もういいだろ」(チョンギーレ)と声をかけられた。それにも関わらず、制止を無視して愚者の棺に自らのやる気パワーを捧げたバトラーくん。もはや堕ちるところまで堕ちたか⋯⋯と思わずには入れれないバトラーくんだが、まあ、ここまでやらないと彼もケジメがつかないだろう。もちろん後段で「世界の破壊とかもうどうでもいいです」(バトラー)と萎(な)えて萎(しお)れた姿を見ると、視聴者も彼を許してしまうかもしれないが。終盤でサマーの指先で消えてしまったバトラーのやる気が最終話に再登場するなどの伏線となっているかどうかが気になるところだ。

 ボス敵を倒しても、世界の破滅は止まらず、さらに物語が展開していく演出にはハラハラドキドキ。近年、こうした天変地異の演出はセンシティブだ。直近で類似の(実際の場面を彷彿とさせる)シーンがあると差し替えや放送延期などが起こりうる。トロプリでは豪雨による嵐がその表現となっていたが、今後、こうした演出は減ってしまうかもしれない。

 そこに危機一髪で到着したのが修理の完了したアクアポットを届けにきたメルジーヌ女王であった。くるるんがここで運び屋を担ってくれるなどの活躍を予想したが、そんなことは起こらなかった。特に何かの役に立つわけでなく、じっと不安そうに待っているだけのくるるんは、いつものくるるんのままでとてもよかった。

 グランオーシャンは、いわば海中移動要塞だった。そもそもアクアポットは1つしかないのか、予備がないことも気になる。そもそも修理できるということにも驚いた。誰が修理したのだろう。女王自身がメカニックなのか。

 ところで「やる気パワーウルトラースーパーアメージングカムバーック」はラメールのアドリブなのだろうか。この場面の表情のコミカルさと状況の深刻さの妙な相性の良さもトロプリらしさだ。アクアポットがやる気パワーを取り戻す仕組みや、これまで登場していた「色」もどういう原理なのかも未解明の謎だと思われる。

 厚い雲が急速に晴れていく場面のハープとストリングス主体の音楽もすばらしい。グランオーシャンが海面へ急浮上しても、深海の生物たちは大丈夫なのだろうかと心配してしまったが、特殊な泡の中にあるから水圧などの問題も大丈夫なのだろう。

 平林まふね館長の「広大な海には、まだまだ私たちの知らないこともあるんでしょう」は、懐の深さを感じる重要なセリフだ。水族館の館長ともなると、経営的・財務的なマネジメントと同時に人心掌握などのスキルも求められるが、なによりやはり科学者としての姿勢を忘れてはならないのだろう。トロプリにおける大切なグランドマザーであり、登場人物を導くオオババ様がまふね館長なのだろうと思う。

そして「物語」へと戻る

 Bパートのトロピカ卒業フェスティバルこそが、トロプリの真髄だ。物語上はローラの決断が本当のクライマックスだ。みのりは脚本の結末を書き換えず「いまのまま、みんなで仲良くいつまでも一緒に暮らしました」(みのり)で決めたと語る。これも最終話で触れられるのだろうか。

 まなつ母とさんご母が揃って登場したときには、ふたりは両親ともども仲良しになっていたのかと知って驚いた。まなつが南乃島からあおぞら市に来た時は、母しかこの街に知り合いはいなかった。1年が経つのは早いものだ。同級生とその家族はもちろん、すっかり街にも溶け込んでいる。

あまりに残酷。次回への引き

 「グランオーシャンを守った功績により、あなたを正式に次期女王に指名します」(メルジーヌ女王)とのことで、グランオーシャンの王位継承制度が出自ではなく、譲位によるものだと明らかになった。

 しかし忘れてはならない。その功績は、人間世界との接点で得たもの。記憶の問題は依然として解決していない。もしローラが人間と関わった記憶が消去されてしまうなら、彼女はどうやって自分が女王になったのか、その経緯も理由もわからなくなってしまう。記憶消去という残酷な掟が藪の中の毒蛇のように、ここでもまた首をもたげてくる。

 「女王の座を辞退して、ずっと人間の世界に留まるのもよいでしょう。ローラ、決めるのはあなたです」(女王)。ああ、なんと残酷な展開なのか。

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第44話 魔女の一番大事なこと

 物語はついに大きな区切りを迎えた。

1)黒い竜巻と終末的演出

 やる気パワーを蓄積していた球状のツボの口の部分を愚者の棺に差し込むと、やる気パワーが愚者の棺に充填されていく。その充填に合わせて、地上では紫がかかった黒い竜巻のようなものが黒雲へ向かって伸びている。

 バトラーは愚者の棺にやる気パワーを充填している最中、愚者の棺の解放が直接的に世界を破滅させるものであるかのように語っている。だが実際には途中経過である魔女が永遠の命を得、破壊活動を再開するというプロセスの説明が省略されている。バトラーにとってそれは待望のことであり、歓喜と期待に溢れた演技がすばらいしい。キュアサマーがツボを破壊すると、わずかなやる気パワーが飛び散ってしまう様子が描かれる。

 三幹部は「世界を滅ぼす」という魔女とバトラーの目論見は聞かされていなかった。

 サマーは魔女に対して「何をそんなにあとまわしにしたいの」と問う。ツボを壊されて激昂していた魔女だったがサマーの言葉に頭を抱えて悩み始め、もはや戦意さえも感じない。サマーはむしろ、魔女の様子に憐れみの混じった動揺を隠せず、その隙を突かれてチョンギーレヤラネーダの一撃を受けたことで変身が解除される。エルダの機転は実質的に反抗・裏切り行為であったが、バトラーはそれを特に強く咎めない。

2)女王から聞かされ、ローラがメンバーへ話した情報は「あとまわしの魔女は何百年もの昔、破壊の魔女と呼ばれる存在だった」


French Foot Artillery painting, Of the Napoleonic wars., era

 ローラは「何百年」と表現するが、回想で描かれる破壊の魔女と人類の戦闘の様子はナポレオン時代頃の兵装に見える。よって、実際には200年ほど前である。これは42話で描かれた回想と時代的には一致する。女王が語った「何百年」は誇張である。ただ、人魚たちの時間感覚では200年を何百年と表現してしまうのかもしれない。

3)破壊の魔女の目的はこの世を滅ぼすこと。誰にも理解できないが、「ただそのように生まれてしまっただけ」という女王の説明

 魔女自身も洞窟から海へ還るシーンで「この世界を破壊するために生まれてきた」と独白する。つまり魔女は、人類や地上へのなんらかの恨みや侵略的意図、反撃的な行動などがあるのではなく、自然災害の一種のような存在とみて良いだろう。台風や地震は意思を持って人や町を襲っているのではなく、地球環境におけるひとつの事象にすぎない。破壊の魔女は、ゴジラのように「水爆実験で生まれた」などの悲劇的背景を持っているのではない。極めて純粋な攻撃性だけの存在なのであった。

4)あとまわしの魔女があとまわしにしてきたのは、プリキュアとの決戦の日

 再会した友達が敵同士あった悲劇。たった一人の友達と本当の友として結ばれる願い。それが魔女の願いであったが、それは決着を先延ばしにすることで、どちらが倒れる結末をも先送りしてきた。何百年(推定200年)に渡ったあとまわしによって魔女は老化し、記憶も薄れてしまった。

 プリキュアとの決着をあとまわしにしたが、人魚の時間感覚では人間の寿命がどれほどなのかまでは意識が及ばなかったのかもしれない。あるいは時間が経ちすぎたなかで、すでにどれくらいの時間が経ったのかもわからなくなったとも思われる。バトラーはただ一人だけ、魔女の忠僕として生き残り、当時の真相を知る者となった。

 バトラーはなぜ、キュアオアシスがすでに他界しているであろうことを伏せ、魔女を地上へとけしかけなかったのだろう。バトラーもすでに魔女に失望していたのだろうか。キュアオアシスなきいま、地上での魔女の破壊活動を阻止できる存在はもはや少ないはずだ(いや、すでに大砲に撃退されているが)。

 グランオーシャンからやる気を根こそぎ奪った経緯がますますわからない。魔女にやる気を取り戻させ、地上侵攻(世界の破滅)を実現したかったのか。魔女に「永遠のあとまわし」というフレーズを刷り込んだのは、バトラーだったのだろうか。しかしバトラーは一貫して魔女の忠僕であり、自らが魔女の地位に着こうというそぶりは見せない。引き続き情報収集と考察を要する。

 記憶が蘇った魔女に対してバトラーは「あの少女はもうこの世にはいないのです。思い出してください魔女様。あなたのあるべき姿を」と力強くいう。バトラーは、どうしたら魔女がキュアオアシスへの執着を諦めるかを考え続けていたのだろう。その結果として、時間がそれを解決すると踏んでいたのであれば、バトラーもまた、あとまわしにしてきたツケを自ら払うことになってしまったともいえる。

5)伝説のプリキュア(先代のプリキュア)はキュアオアシス。本名アウネーテ

 アウネーテ(Agnete)はAgnethe、Agneta、Agnethaなどと綴られることもある人名で、スカンジナビア地域に多い。英語ではアグネス。由来はギリシャ語で「純潔」や「神聖」を意味する「ハグネー」から来ている。同名の人物としてローマ時代の殉教者、聖アグネスがいる。「アナ」や「アン」などの名前と似ているが、こちらはヘブライ語で「ハンナ(神は我を気に入り賜う)」に由来するので異なる。

 アウネーテもデンマークの童話のひとつ「アウネーテと人魚(デンマーク:Agnete og Havmanden、英:Agnete and the merman)」から名前が取られているようだ。デンマークには海にまつわる伝説が多く、アウネーテの伝説もその一つである。コペンハーゲンの運河にはこの童話にちなむ銅像が設置されている。

 その物語にはいくつかのバリエーションがあるものの、大筋はこうだ。あるときアウネーテは人魚の男と出会う。アウネーテにはすでに子供がいたが、アウネーテは人魚から「子供と別れて海で暮らさないか」と誘われる。アウネーテは海へ行き、人魚との子供ももうけて海中での生活に順応していく。海での暮らしが続いていたあるとき、アウネーテの耳に教会の鐘の音が聞こえてきた。陸へ上がって教会へ入ろうとすると、聖人像が動き、アウネーテに背を向けてしまう。アウネーテが恐る恐る教会へ入ると、中には彼女の母がいた。アウネーテは海での生活について話したのち、改心して再び人間の村で生活するようになる。人魚たちはしきりにアウネーテに海に戻って欲しいと懇願するが、聞き入れられることはなかった。

 このように多分に宗教的・教義的な童話である。見捨てられた人魚に同情する説も少なくない。伝承が元になっていると言われるが、18世紀頃に執筆された散文詩形式の物語であるとも言われる。アウネーテの行動をどのように解釈するか、どのような理由・動機を考えるかが複数のバリエーションの元となっている。

 さて、トロプリに戻ろう。アウネーテは魔女に「あなたはどこからの来たの?」と尋ね、魔女は「海の世界から」と答える。アウネーテは好奇心旺盛な人物であり、魔女を恐れずに「ねえ聞かせて、あなたの国のこと。あなたの友達のことを」と聞く。しかし破壊の魔女にいるのは手下の軍勢や部下である。魔女に友達はいない。

 アウネーテは無邪気で純真である。「私たちも、もう友達だよね」と屈託なく笑い、アネモネの花を魔女の指に付ける。これまでのエピソードなどから魔女がしきりに手を気にしているのは、この花の指輪のプレゼントが思い出の鍵となっている重要な伏線だったわけだ。

 グンバイヒルガオのときと同様に、アネモネの花言葉を考える。アネモネはその由来となっているギリシャ神話の物語から、暗い意味の花言葉を持つ。だが色別に付与された花言葉があり、赤は「あなたを愛す」である。


44話より

 魔女の指につけられたアネモネは赤であったが、魔女が隠れた洞窟に続く海岸の道ばたには赤、紫、白のアネモネが群生しているように描写されている。よって、総合的には赤だけでなく「期待しています(白)」「あなたを信じて待ちます(紫)」の意味が掛けられていると見て良いだろう。

 200年前のグランオーシャンの女王の行動には不可解な点がある。破壊の魔女は地上に猛攻撃をかけていたが、はたしてグランオーシャンにも魔女の軍勢は押し寄せていたのだろうか。トロプリ第1話で、メルジーヌ女王がローラを地上へ(プリキュア探索に)向かわせたのは、グランオーシャンのためであった。しかし200年前の女王は地上での魔女の破壊活動を見かねてトロピカルパクトを使者の人魚に与えたように見える。グランオーシャンは、必ずしも地上に対して完全不干渉を貫いているのではないようだ。

 もしくはなんらかの被害がグランオーシャンにも出ており、地上の情勢が片付いたらキュアオアシスには海中の戦いも求めるつもりだったのかもしれない。

 ところでキュアオアシスは文字通り砂漠を遠景としたオアシス(泉性オアシス、砂丘オアシス)を背負って変身を完了させる。塩分のあるオアシスもあるが、砂丘オアシスは淡水であるから、海水と淡水の衝突である。キュアオアシスは魔女に容赦ない本気の蹴りとグーパンチのストレートをお見舞いし、魔女も水流による攻撃でオアシスを苦しめる。オアシスも涙を浮かべつつマリンビートダイナミックを放つが勝敗はつかず、魔女は決着をあとまわしにして屋敷へと帰還する。ここからが悲劇の第2幕の始まりだった。バトラーにとっての悲劇もここから始まる。

 魔女やしきの前面の塔にある時計が割れているのは、この時間経過がすでに途方もない期間を経ていることの象徴である。「魂だけの存在」(みのり、ローラ)にもなって、魔女との決着つまり魔女の阻止を願ってきたキュアオアシスもまた、悲劇的存在といえる。

6)「あいつはもう、この世にいない。ならば私のやることは一つ。破壊だ!」

 魔女は「あのときの決着をいまこそつけてやる」とサマーに水流攻撃で襲い掛かるが、すでにトロプリメンバーの意思は話し合うことで意見の一致を見ている。サマーは「その相手は私たちじゃない」と魔女の説得を始めるが、オアシスに代わる敵を求めてしまっている魔女には声が届かない。

 ここでのローラ/ラメールの説得は的を射ている。「あなたの大切な人はもういない。でも、その人のことを思う心があれば」。この場面でサマーを支えるラメールは、まさにラメールとサマーがお互いに〝大切な人〟となっていることの証左だろう。トロプリメンバーによる魔女への論破が、事実上の精神攻撃となっている。しかし「私が望むのは破壊のみ」と論点がずれないよう耐える魔女も、自分を偽っているのだ。

 戦いを否定し、「あとまわしにしてきた大事なことをやろう」。覚醒したサマーの体を借り、ついにオアシスの姿が具現化(憑依)するくだりは感動的だ。サマーはここで首を傾けるだけで攻撃を避けている。魔女が狙いを外しているのか、それともピンクのオーラをまとったサマーの強い精神力で狙いを外させているのか。迷う魔女は強さの裏に、脆さがある。

7)「本当にあとまわしにしてきたことは、仲良しになること。人間の女の子と仲良しになること」。大事なことなので2回言いました

 一歩を踏み出すというのは勇気がいることだ。「それが、あなたが勇気がなくてできなかったこと」と喝破するサマーの凛々しさよ。オアシスとサマーの声が重なり「さあ、あなたのいま一番大事なことを」と、魔女に言わせ、オアシスがそれを受け入れる場面に満ちている慈しみ、いたわり、友愛⋯⋯。

 泡(空気)となった魔女はすでに海の生き物ではなく、別の次元の存在となった。サマーが最後にオアシスの名前を尋ねた場面も麗しい。ラメールの「また会いましょう、キュアオアシス」はただのつぶやきなのか、それとも最終話まで持ち越される伏線となるか。楽しみ。

 それにしても44話はどの場面もBGMが美しい。バトラーが変身する最終場面の音楽は『ワルキューレの騎行』と『禿山の一夜』を思わせて迫力満点だ。

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第43話「潜り込め! 深海の魔女やしき!」

 ついに物語の核心に迫るエピソードが放送された。

 まず、42話でバトラーがシロナガスクジラのヤラネーダでプリキュアと対峙した理由が具体的になった。バトラーはプリキュアを倒すためではなく、収集したやる気パワーを持って確実に脱出(深海へ帰還するまでの時間稼ぎ)する可能性を高めるために海で最大最強の生物であるシロナガスクジラのヤラネーダ化を行ったのであった。バトラーはプリキュアを、やる気パワー集めにおける妨害者とのみ見なし続けていることに変化はなく、倒すべき敵といった位置付けにはしていない。バトラーは、手段と目的を的確に分けている。

 ローラは、さらわれたまなつを取り返すとアバンで述べるが、まなつが取り込まれたままであったのは、バトラーの意図したところでもなかったようだ。「もしやあの時、全員噴き出されたわけではなかったのか」とバトラーがBパートで述べることからそれとわかる。

 くるるんは海岸(砂浜の東屋)で待機するようメンバーから言われるが、おそらくこれは伏線であろう。くるるんは深海へなんの気なしにやってきてしまい、プリキュアたちのピンチを救う展開が予測される。

 伝説のプリキュアはまなつに、はるか大昔に魔女を助けたと語る。42話の内容から、私は伝説のプリキュアの時代は現代から200年ほど前と見積もったが、200年を「はるか大昔」とするには大きな乖離がある。再度考察が必要となった。「助けたのは⋯⋯」でまなつは目覚める。シーンがここで途切れただけなのか、まなつはその先をすでに聞いているのかどうか、視聴者の視点では判断がつかない。しかしまなつは「あれは何だったんだろう」と言っており、まなつ自身にも整理がついていない印象だ。くじらのヤラネーダの胃で消化されずにいたこともハートロージュロッドの効果なのだろうか。

 第43話にはもう一つ、視聴者への情報を断絶させている要素がある。女王がローラへ行った説明の具体的内容である。キュアラメールの姿で女王へ謁見(アクアポットの修理)する際、ローラ(ラメール)は女王がかつてプリキュアになろうとしたのではないかと指摘し、女王はそれに応じる形で過去を語る。

 女王は重要な場面では「視線を伏せる」「かすかに頷く」「首を振る」といったボディランゲージでYes/Noを示している。視線を伏せて頷いた上で、「かつてプリキュアになろうとしたことがありました。世界の危機を救うために」と口頭で述べたことで、女王の肯首がYesのサインであるとはっきりした。

 「伝説のプリキュアによって世界は救われ、その後、何百年かは、世界は平和でした。けれど、そこにまた新たな危機が訪れた。愚者の棺を解放しようとするならず者が現れたのです。そのならずものは、どこで手に入れたのか、やる気パワーのはいった盃を持っていました。まだ女王になる前の私は、愚者の棺が解放されるのを阻止するためにプリキュアになろうとした。けれど、どうしてもその願いは叶わず⋯⋯。それでも私は、なんとかやる気パワーの入った盃だけは取り返し、とある島の洞窟に隠したのです。人魚のブレスレットと共に」

 宝を隠した人魚が女王が女王に即位する前のことであったことは、映像からもはっきりしているが、今回の発言でそれが裏付けられた。海底の世界には、不穏な勢力が他にも存在するのだろう。女王が語った「ならず者」は明確な悪意を持った存在として描かれており、グランオーシャンを何らかの形で取り込もう、侵略しようとしていたのだろうと思われる。そのならず者を撃退したという描写はないが、おそらくプリキュアの力を借りることなく、グランオーシャンの防衛には成功したのだろう。

 女王が南乃島のことを覚えているのは、人間とは関わらなかったからと女王は述べる。しかし、「自分ではそう思っているだけで、私の記憶も消されているのかもしれませんね」とぼかした意味深な発言をする。

「人魚と関わった人間の記憶も消されちゃうの?」というローラ(ラメール)の問いに対し、女王は静かに目を伏せる。これはYesととるべきだろう。その上で「あなたにもいずれ、わかる日がきっと来るでしょう。自らその記憶を消してしまいたいと思う日が」と倒置法で語る。ローラは「まなつたちのことを忘れたいなんて、絶対にありえない」と叫ぶが、女王は静かに首を振る。こうした演出が憎いほどに、美しく、エモーショナルだ。

 続いてローラは「だったら、伝説のプリキュアのことはどうなの? 彼女と心を通わせた人魚がいたから、グランオーシャンにはいまでも伝説として語り継がれてるんじゃないの?」と問う。しかし女王は「その伝説の起源は誰も知らない。知っていた者もその記憶は消され、記憶の部屋に封じ込められた」と述べる。だが「伝説のプリキュアが現れ、全てを語ってくれました」と女王はいう。「あなたにも話しておきましょう。伝説のプリキュアの秘密を」。ここでAパートは終わる。BGMのイングリッシュホルンのソロが美しい。

 以上のことから、伝説のプリキュアに関する情報を含むトロプリの物語の核心を「①ローラは女王から」「②まなつは伝説のプリキュア本人から」それぞれ聞いていることになる。視聴者に明かされるのは次回であろう。

 Bパートのシロナガスクジラのヤラネーダをマリンビートダイナミックで倒した後、ローラ(ラメール)は「話してみる価値はあるわ。女王さまから聞いたの。伝説のプリキュアと魔女の話を。魔女にもまだきっと、心はあるはずだって」と。

 本作におけるバトラーは、単なる敵側幹部の一人という以上の存在だ。魔女の過去を把握し、明確な狙いをもって行動しているのはバトラーただ一人である。「思い出す必要はありません。魔女さま」(バトラー)「ようやくこれで、永遠のあとまわしの世界が。それはもちろん⋯⋯もちろん、もちろん⋯⋯あれ。わたしは何をあとまわしにしようとしていたのだ。なにを⋯⋯とても大事なことだった気がするが、何を⋯⋯」(魔女)。チョンギーレたちさえも知らない魔女勢力の戦略目標は何か。女王の知っていることと同レベルの内容をバトラーだけが知っているというのは面白い。敵のボス自身が苦しんでいる設定も珍しい。目を伏せることで、次の発言につながるローラの決意がわかる。

 この場面のBGMも印象的だ。バスドラムのゆるやかなビートと共に静かに下降音型を描いていくファゴットの音が演出のうえで効果的だと感じる。「あとまわしの魔女、思い出しなさい! あなたは⋯⋯」とローラがいうと、「魔女さまがそれを考える必要はありません。あとはこのバトラーめにお任せを」とセリフと共に愚者の棺が現れる。

 さて、問題の愚者の棺である。トゲのある巻貝(リンボウガイ)など複数の貝のモチーフで構成され、不気味な色も相まって禍々しさが出ている。バトラーは「この愚者の棺は、世界を滅ぼすことで、地球上のすべての生命エネルギーを集めるのです。棺を解放した者には不老不死、つまり永遠の命をもたらすのですよ」という。「永遠の命があれば、私の望む永遠のあとまわしも叶う」と魔女はいう。さて、では何の為に永遠のあとまわし(不老不死)が必要なのか。エピソードの続きは44話に持ち越される。まなつの恒例の行動である「あなたの名前は?」も、魔女に対しては未だ発動されていない。魔女の真の名前をまなつは聞き出せるのだろうか。あと数話でトロプリが終わってしまうと思うと、せつない。

 機会を見て、魔女やしきの外観デザインについても別途考察したい。(1月10日)

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第42話「襲撃! 最強のヤラネーダ!」

 第40話と41話でみのりの個人エピソードに大きな区切りを付けつつ、その延長上にうまく本編をつなげている42話のアバンが秀逸。個々のエピソードが分断されずに本編と地続きな連続性を持っているのがトロプリの構成の巧みさだと感じる。

 みのり回で明かされた「実はパパイアを食べたことがない」という衝撃の事実から推測するに、文芸部の先輩の痛烈な批判の根拠が先輩の嫉妬や嫌味ではなく「みのりの取材力(文献調査とは別の実体験を収集する方の取材)不足への指摘」だったことがわかる。先輩の伝え方にも問題があったようだが、いずれにせよストーリーテラーとして一皮剥け、プロ意識を高めているみのりの舞台脚本の完成が楽しみだ。台本自体はひとまずの完成を見ていることがわかっているので(コピーと製本までされている)、みのりがエンディングに悩み続けていることは彼女の作家としての矜持とのせめぎ合いであろう。かつて宮崎駿監督は『風の谷のナウシカ』の公開が迫ったタイミングでラストシーンについて鈴木敏夫プロデューサーと高畑勲監督からの助言を入れて最終的にエンディングを決めたと言われる*。

* なぜ彼女はよみがえったのか 『風の谷のナウシカ』にあった幻の3つのラストシーンとは|文春オンライン(2020/12/25公開記事)

「ラストシーンでは永遠の友情を誓う」という構想は、トロプリそのものの伏線かもしれない。Aパート後半でのまなつの自室でのローラとの対話シーンでは、しおらしく落ち込んでいる風に見えるまなつの姿が印象的だ。まなつは予感している。いずれくるローラとの別れを。

 ローラは「わたしが女王になったら、そんな掟なんて変えちゃえばいいんだし。心配なんてない。ぜんぜんない。それに掟が絶対だというのなら、わたしは⋯⋯」と言い淀む。「わたしは」どうするのか。可能性を考察してみる。

(1)「わたしは⋯⋯グランオーシャンには帰らない」
(2)「わたしは⋯⋯その掟を壊してみせる」

 1の予想では、グランオーシャンと決別し、人間として地上で生きる決意を示す。その場合、むしろ、人間と関わってはいけないと定めている女王との敵対を意味する。ローラは追放されるか、さもなくば強制的に連れ戻されるか。いずれにせよ、グランオーシャンの女王の座ではなく、まなつの隣にいることを選択することになる。

 2の予想では、より戦闘的にグランオーシャンと対決する決意を示す。現女王と対峙してその地位を奪取し、グランオーシャンの〝人間世界への不干渉〟を破棄する新女王となる選択肢だ。しかしそもそも、なぜグランオーシャンが人間と干渉してはならないとしているのかが不明である。よってもしローラが新女王に即位して権力を掌握したとしても、その掟の真の理由を知ったらその考えを撤回するかもしれない。

 第42話では本編に深く関わる重要な手がかりが示される。魔女はバトラーとの会話で「残された時間はもうあまりない。私の寿命が尽きる前に愚者の棺を解放するのだ。さすれば永遠のあとまわしが可能になる」と述べる。私は第29話の感想で《あとまわしの魔女があとまわしにしているもの、それは「死」》と書いた。ひとまず第42話の魔女のセリフで、魔女が自身の死の回避のために愚者の棺の解放を目論んでいることははっきりした。

 第29話と第42話は多くの伏線がリンクするが、いまなお謎が多い。第42話ではバトラーのセリフから破壊された街並み(ウェルズの『宇宙大戦争』のオマージュまで登場する)と共に、それが魔女によってもたらされたものであると強調される(トロプリにはオマージュのような演出がとても多い)。破壊されているが街並みや横転した馬車、人々の服装から18〜19世紀頃のヨーロッパとわかる。伝説のプリキュアはおよそ200年前の存在だと推測される。

「いいですねえ。はるか昔、魔女さまが滅ぼそうとした世界もこんな感じでしたでしょうか。あのときは伝説のプリキュアに邪魔をされてしまい、魔女様の望みは叶いませんでしたが」「もっとも、その頃は破壊の魔女と呼ばれていました。わたくしはまだ若造でした。あの頃の魔女さまは、それはそれは素敵だったのですよ」(バトラー)

 ここであえて29話のスクリーンショットと42話のスクリーンショットを並べてみる。

第29話より

上3枚は服装や髪型から見て人間の姿をしていることから、伝説のプリキュアの変身前の姿と思われる
第42話より
(H・G・ウェルズ『宇宙戦争』偕成社版)

「この世界を救って(中略)魔女も」と29話で言った伝説のプリキュアが、42話ではついにまなつと直接対面した。伝説のプリキュアがまなつに何を語るのか。いよいよ考察も答え合わせが近づいてきてワクワクする。ランドハートクルリングとマリンハートクルリングの合わせ技が飛び出すのが先か、魔女の過去が詳しく語られるのが先か。(1月8日)

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第39話「みつけて! さんごのきらめく舞台(すてーじ)!」

 38話のあすかの変化(決意)が、トロピカる部メンバーにポジティブかつ決定的な影響を与えたことがわかるエピソードだ。このタイミングでさんご個人のストーリーの完結編としてすばらしい回だったように感じる。「もっと心からトロピカりたい」「わたしががんばって わたしのすきを信じたい」。その〝わたしのすき〟が完成・具体化されたことに心からの拍手を贈る。

 「こうして支えるのがわたしの仕事」「やっとわかった わたしの本当にすきなのは わたしのすきがみんなを助けて もっとかわいく もっと強くなる」「わたしのすきは ここにある」。そして女優ゆな氏の「心は決まりましたか?」という振りと、さんごの「はい」。しっかりと深呼吸をしてからの「辞退させていただきます」の決意ある表情にみなぎる清々しさよ。「でも気づいちゃったんだ 自分が人前に出るより だれかをかわいくしたり かわいいものをみんなに伝えるほうが うれしいし 楽しいって だからそういう道に進みたい」と「心が決まりましたから」へ至る。

 辞退を申告した後の場面(映像にはない場面)では、実際には「なぜ辞退しようと考えたのか。その理由」つまり、どのような心境の変化が応募から最終面接までの間にあったのかを、さんごは自信をもってしっかりと語ったのであろう。納得のいく辞退理由を言い切って退室したさんごに対して、ゆなと審査員は逸材をのがしてしまった残念さを感じつつも、その立派な辞退理由に内心で称賛したのではあるまいか。「すきなことに全力な人は おのずと魅力的に見えるものよ」とさんごに語った母みゆきの言葉どおり、さんごの決意は、さんごの魅力をさらに引き立てた。おそらく、ゆなは察していたのだろう。さんごはきっとモデルにはならないのではないか、と。だが迷ったまま無難な答えで面接を乗り切って、素のかわいさでモデルの地位を得てしまうのではなく、迷いを吹っ切ってほしい。それがゆなの希望であり、さんご自身が見つけた進路が何であろうと、その決意への応援も込めている願いだ。エピローグで、あすかがゆなの言葉を代弁している。「さんごは強い」と。そう、さんごは強くなった。

 一方でもし私が審査員(あるいは芸能プロデューサー)ならば、「いつか『モデルよりもかわいいメイクアップアーティスト』として絶対に売り出したい」とまで思い、むしろその機会を狙うべく、定期的にコンタクトするのではないだろうか。

 今回、さんごは面接の順番を後ろに回してもらった。これは「あとまわし」の良い使い方だ。(12月6日)

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第38話「決めろ! あすかの友情スマッシュ!」

 あすかと百合子、ふたりの感情のもつれとすれ違いを高度に解決した見事な回だった。憧れ、挑発、売り言葉に買い言葉、ひとに言えない俗なトホホエピソードの暴露、コートの中での剥き出しの情念のぶつけ合い。ラリーをしていたのはボールじゃない。ふたりの本心、それぞれの本音。展開のすばらしさに居住いを正し、心で号泣しながら視聴した。燃え尽きバーンアウトから蘇ったあすか先輩はキュア不死鳥フェニックスだった。

 あすかと百合子は、目指す未来に対して、「その時に取った選択肢が違った」。まるで『タクティクスオウガ』におけるロウルートとカオスルートに分岐する場面の選択肢のように。そう、その分岐のときには未来を思い描いていた。でも、そのときは流されるままであり、覚悟と呼べるほどのものはまだなかった。しかし、時間は不可逆だ。覆水盆返らずである。

 それまでにあった逃げ先や退路を断つこと、それが前進する覚悟だ。他の選択肢を切り捨て、ひとつを選ぶ。私は自分の過去を振り返ってみて、果たしてそうした進路希望で覚悟ができていただろうかと思った。あれやこれやに手を出し、今一番大事なことをやろう! という気概で「今」「一番」だけを見つめられていただろうか。自分はそのときの「今一番大事なこと」が視界に入りつつも、それに目を背けて周辺の「本当は大して大事ではないこと」に手を出していたことが思い返される。

 「今、一番」を直視せず、「大事なこと」に突き進まなかったことで、それは後々に悔いとなり、未練となって、自分の背中に貼り続ける憑き物となってしまっていた。だがトロプリは、きっと「大人になっても、今からでもそれを取り戻せる」「かつて置いてけぼりにしてきてしまったことを、今でも、今だからこそ、それを今一番大事なことにしていい」と教えてくれている。(11月28日)

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第37話「人魚の記憶! 海のリングを取り戻せ!」

 トロプリ37話、ついにあとまわしの魔女の目的が明らかにされた。と、いうよりも、グランオーシャンの女王は魔女の狙いを知っていた。知っていたにもかかわらず、プリキュア探索のために地上へ向かわせたローラに説明していなかった。意図的に伏せていたのである。

 まず、今回明かされた女王のフルネームはメルジーヌ・ミューゼス・ムネモシュネとのことだが、メルジーヌ(Melusine)は人魚姫伝説の原型のひとつである。下半身は蛇または魚、背には竜の翼(つまり蝙蝠のような飛膜の翼である)を持つとされる。いわば水に関わる性質を持つ精霊あるいは妖怪である。人間と結ばれる異種婚姻譚のひとつである点は、アンデルセンの『人魚姫』と共通する。

 ミューゼス(Muses)はギリシア神話の芸術を司る九柱の女神たちである。音楽(Music)や博物館(Museum)の語源であり、学問や文芸の神である。当然、それらは書かれたり、歌われたりするものであり、「記録」と密接な関係を持つ。9人のミューズ女神は「人々から苦しみを忘れさせるため」に誕生したと、古代ギリシアの詩人ヘシオドスは述べている。ここでの芸術は、娯楽とイコールである。一時的な非日常を体験することで、人々を日々の息苦しさから解放してくれる。最後のムネモシュネ(Mnemosyne)は記憶を司る女神であり、9人のミューズ女神の母である。シケリア(シチリア島)生まれの古代ギリシアの歴史家ディオドロスによると「命名(名付け)を始めた神」でもある。

 記録媒体という点では、シャボンピクチャーも当初はマーメイドアクアポットのオマケ機能として演出に使われているだけかと私はお気楽に見ていた。だが、この泡はトロプリの結末におけるキーアイテムとなるかもしれない。『人魚姫』において最後に人魚は泡となって蒸発したかと思われつつも、実は風(大気)の精霊(「空の娘」と呼ばれる)へと生まれ変わり、人魚であったころの悲哀が報われる。愛する王子と自分を悲恋に落とし込んだ姫(王子の妃)を恨むこともなく、新たな仲間たちと空の世界へ旅立っていく感動の結末である。トロプリにおいても、シャボンピクチャーが「記憶=思い出」を呼び覚ますアイテムとして演出される可能性もあり、カタルシスのある展開への期待が高まる。さらにいえば記憶の神ムネモシュネの名を冠する女王がそうした思い出をどう操作しようと企むのかも想像できて楽しい。ムネモシュネと綴りに共通点があるムネメー(古ギリシア語)は、現代英語「memory」の語源のひとつである。

 シャボンピクチャーだけでなく、マーメイドアクアポットには人格入れ替わりの機能がある。ただの恒例のギャグ回だと思っていたが、複数回にわたってネタとして使われたことは、伏線としての強調だったのではないか。これも物語の根幹に深く関わってくる可能性が考えられる。たとえば、女王がローラの記憶を消去しようとするが、トロプリメンバーの誰か(おそらくまなつか)がローラと入れ替わり、ローラの記憶と精神をまなつの肉体に退避させたうえで女王を欺く。掟を回避するにはこうするしかないであろう。ローラは、アクアポットによる入れ替わり機能を知らなかったと15話で語っている。もし女王も知らない機能であるならば、女王を出し抜くことが可能だ。

 さて、メルジーヌ女王は、あとまわしの魔女の目的が「愚者の棺の解放」であると人間の来訪者(まなつたち)に躊躇わずに語る。「愚者の棺がやる気パワーで満たされたとき、不老不死の力が得られる」。その力を手に入れ、魔女は「永遠のあとまわしの実現」を目的にしている。この魔女の野望は女王にも察知されている。しかし、「未だかつて愚者の棺の力を解放したものはいません」「何が起こるのかは、誰もしらない」とも女王は言う。このタネ明かしも唐突であるが「あとで記憶を消すので、構わず話して人間を利用する」作戦なのかもしれない。さらにいえば、女王にとってはローラさえ使い捨ての駒に過ぎない。これは第1話でローラが「人間の子なんて私が女王になるための捨て駒」と放言したローラと対比できる。

 前提として、グランオーシャンの王位と社会制度には不明点が多い。ローラが王位の継承権を持つ王族という位置付けではないようだ(人魚は貝から生まれるというローラの説明に信憑性は高いものの、それを裏付ける情報は37話時点ではないと思われる)。民主的な選挙制度で選ばれるならば、女王といいつも実際の立ち位置は「大統領」のようなものだろう。『映画トロピカル~ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!』でも、シャンティア新女王シャロンとの会話で、シャロンは父王から王位を継承する旨を語っていたが、ローラはグランオーシャンはそうではないと説明していたように思う。

 人間と関わった人魚は記憶を抹消されるというグランオーシャンの掟は極めて厳しい。当然、「人間と関わった」という事実を女王は何らかの方法で察知する必要があることから、グランオーシャンは国家として極めて高度な監視社会、あるいは管理国家であると考えられる。何らかの官僚機構がその実行を担っているのかは現状は詳らかでないが、その根幹あるいは独裁的支配者地位にあるのが女王であることは間違いない。

 そもそも掟の存在自体をローラは知らなかった。人間のいる場所へ行ってはいけない程度の指導しか受けていなかったのである。このことから、国や種族の掟でありながら、それが周知されておらず、人間と関係を持った人魚は秘密警察的な手段で捉えられ、記憶を消す装置へと繋がれるのであろう。人魚は二枚貝から誕生するとローラは説明したが、吸い出された記憶は主に巻き貝(二枚貝の場合もある)に保管され、秘密の洞窟の壁に封印される。記憶を完全に消去するのではなく、吸い出したのちに貝に保存(保管)しなければいけない理由は定かではない。人間と人魚の関わった一つひとつは記録媒体(貝)に移された、いわば秘密の物語群である。

 女王はローラの希望に応じ、気安く脚を与えた。だが、その気安さの裏には、ローラの行動も記憶も、魔女討伐が完了したのちに抹消するという半ば確定された未来がある。一方で、女王自身の人間と関わった記憶も、すべてが解決したら消去されると本人は語っている。ならば、「人間と関わった人魚の記憶は消される」という掟そのものはどのように運用されているのだろう。女王の発言には疑義が多く、すべて女王の掌の上で動かされているのかもしれない。いわんや視聴者においてをや。

 グランオーシャンの実態が明るく優雅で美しい竜宮城ではなく、女王が人魚たちの記憶や行動をも管理、統治するディストピアであることは衝撃的な事実であった。あとまわしの魔女は彼女の夢に登場する伝説のプリキュアを思い出せずに苦しんでいる。その記憶の断片、かつての戦った記憶は、記憶吸い出し装置によって重要な記憶が抜き取られたあとに残った残滓なのだろうか。あるいは、時間経過とともに、少しずつ記憶が戻るのだろうか。しかしローラとまなつの出会いの記憶抹消の事例を見るに、10年程度では記憶が戻ることはないようだ。魔女と先代(伝説の)プリキュアとの戦いがどのくらい時代を遡るものなのかは不明だが、数百年や千年単位で過去の話なのであろう。となると、魔女も、女王も、極めて長い寿命を持っているものと思われる。いや、ひょっとすると、女王はすでに愚者の棺を過去に解放していて不老不死を得ているのかもしれない。不死の女王が国民の記憶操作を繰り返しながら統治しているのがグランオーシャンの真相なのかもしれない。

 とはいえ、人魚個人の好奇心による人間との接触を否定し、さらに人間との接触者の記憶を操作する技術を持ち、個人の尊厳をも管理するグランオーシャン、おそるべし。映画トロプリの結末(シャンティアのことを忘れない、歌で語り継ぐとローラは豪語してシャロンを安心させた)さえも本編で否定してしまうのか。

 ――「私は情報の並列化の果てに、個を取り戻す為の一つの可能性を見つけたわ」
 ――「ちなみにその答えは?」
 ――「好奇心。多分ね」

 これは『攻殻機動隊 S.A.C』第26話の名台詞だ。人間と人魚、お互いの世界の閉塞を打破するのは、きっと本質的にそれぞれの好奇心と行動によるものしかないだろう。幼き日のローラも、好奇心に衝き動かされて波上の陽光の世界、人間のいる陸上の世界へと乗り出したのだから。

 次に、あとまわしの魔女の目的について考える。永遠のあとまわしとは、「大事なことを今はおろか、永久に行わないこと」と言い換えできるであろう。不老不死の獲得はその目的実行のための重要なステップのひとつのようだ。だが、いまだに不明点が多い。

 あとまわしの魔女にも何らかの長い本名があるのだろう。魔女の家来たちは「魔女さま」とだけ言い、名前は語らない。バトラーは事実を知っていると思われて怪しいが、魔女自身も自分の名前を失っているのではないか。まなつが「初対面の相手の名前を聞いて確認する」という行為は、魔女との対峙において重要な意味を持つだろう。名前と記憶を取り戻すために、魔女は不老不死を望み、その他すべてのことを永遠のあとまわしへと葬り去ろうとしていると考えられる。

 ひとつの推測が成り立つ。かつての魔女は、グランオーシャンの有力な人魚の一人であった。だが、人間と関わったうえで、メルジーヌ女王とその記憶や名前の扱いにおいて対立した。何らかの出来事によって彼女は憎悪に駆り立てられて地上への侵略、またはグランオーシャンへの失望による逃亡を企図したが、メルジーヌ女王の支援を受けた伝説のプリキュアの追跡を受け、戦い、敗れた。捕らえられて記憶が消去されたことで無力化されたが、魔女はただの人魚として元の生活に戻ることはなかった。命までは奪われなかったが、名前とやる気を奪われ、屋敷に幽閉されたと見てもよいだろう。

 となると、一体トロプリの物語における黒幕は何者なのだろうか。女王はバトラーとつながりがあり、バトラーに魔女の監視という役目を与えているのだろうか。となると、メルジーヌ女王が伝説の戦士プリキュアを探索するためにローラを派遣した理由が複雑化する。チョンギーレらも、不老不死になったら役目と仕事を放棄すると語っており、彼らはやりたくてやっている仕事というわけでもなかったことが推察できる。彼らもただの雇われの身であったのだ。バトラーひとりだけが何らかの邪悪な意志をもって魔女に与し、魔女を利用しているという可能性も否定できない。カニ・エビ・ナマコの前者ふたつは言わずと知れた甲殻類。ナマコも硬くなる防御手段を持っている点で共通だ。タツノオトシゴも鱗が変化した固い甲板を持つ。

 魔女が名前を奪われていると仮定するならば、バトラーもまた、英単語「執事(butler)」という一般名詞が名前となっており、真の名前であるかどうかが不明である。その点では魔女と共通している。まなつから「名前は?」と問われたとき、「私はバトラー(I am a butler,)、ただの執事です(An ordinary butler.)。名前などありません(I have no name.)」と答えるのだろうか。

 バトラーのモデル、タツノオトシゴといえば、英名を訳した「海馬」が記憶を司る脳領域そのものズバリだ。海馬はその形がタツノオトシゴに似ていることから命名されているが、あとまわしの魔女の記憶の重要なところをバトラーが何らかの手段で管理している「海馬」なのだとすると、女王=記憶の管理者、バトラー=魔女の記憶の一部、という関連性が考えられる。

 主題歌の歌詞2番にはこうある。〈陽が沈んでも “今”にZokkonn 欲張り→Step upのキー〉〈負けたくない わたし、私をTrust...NOW〉〈1年中ココロはサマー どんな”瞬間(いま)”もENJOY〉。これほどまでに「今、このとき、この場所、今やりたいこと」に焦点を当てている歌はそう多くはないだろう。日常回の積み重ねの日々の大切さを半年ちかく掛けて描きたうえで、物語終盤に「それらの記憶は消去される」という〝掟〟を突然に明かしてきた構成にはドギモを抜かれた。

 だが記憶を消されても、グンバイヒルガオでの〈レイの花冠(ティアラ) 飾り合えばスマイル〉は実現した。「グンバイヒルガオがもっとたくさん咲いている浜へ行こうよ。そこで花の冠、作ってあげる。絶対! 約束だよ」は時を経て実現した。「その時感じた、一番大事なことをやるんだ」という父の教えは、裏を返せば迷いや躊躇こそが後悔と未練の原因であり、後悔を回避する唯一の方法は「今やる」ことであるという。これは禅の教え「而今(にこん)」にも通じる。過去と未来が幾千万の瞬間で構成されていようとも、そのすべての「今この瞬間」がそれぞれ異なる一瞬なのである。〈せっかちだってプリティ〉〈シャイでいちゃSON〉はその心意気を示している。

 ――「いはくの今時こんじ人人にんにん而今にこんなり。われをして過去未来現在を意識せしめるのは、いく千万なりとも今時こんじなり、而今にこんなり」(道元禅師『正法眼蔵』「大悟」巻』)
 (意訳:みなさんが言う「今」とは、人々それぞれにとっての「今、その瞬間」のことです。私が過去と現在、それに未来を意識することが何千回、何万回あろうとも、私にとっての「今」は、たった一度の「今この瞬間」です。これは、私だけの「この一瞬」なのです。だからこそ、私たちは「今という瞬間にやるべきこと」に気持ちを向けることが大切だといえます)

 また、グンバイヒルガオの花言葉は「絆」「優しい愛情」である。まなつとローラの関係を示すいい暗示である。

 そういえば、「生き物で作られたゼッタイヤラネーダは海のリングがなければ倒せない」とバトラーは説明する。生命が海で生まれたことに関係しているのか。伝説のプリキュアの時空を超えた支援も、この先代さんが進化・変化の守護者であると仮定するならば繋がりがありそうである。

 今回まなつが花冠を渡す最後の場面で流れるイングリッシュホルンによるメロディとストリングスの美しさに涙した。(11月22日)

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第33話「Viva! 10本立てDEトロピカれ!」

 前回のトロプリは、なぜギャグ10(11)本立てを投入したのだろう。映画告知連動の意図は分かるが、それにしても作り込まれている。作品テーマ「今、一番大事なことをやろう」に回帰して考えるべきか。この先の物語展開において不可能なことを、今一番大事なトロピカっていることとして選んだのだろう。(10月18日)

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第30話「大選挙! ローラが生徒会長!?」


サトちゃんシティ
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 トロプリ、2週連続でのピンクの象の飛び蹴りヴィクトリーを見ながら、先週から気になっていた「なぜピンクの象なのか?」を考察。Pink elephantは「泥酔者の体験する典型的幻覚」の意であり、ダンボの「Pink Elephants on Parade」が有名だ。しかし多くの日本人にとって、ピンクの象といえば佐藤製薬のアイドル象サトコちゃん⋯⋯。(9月26日)

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第29話「甦る伝説! プリキュアおめかしアップ!」

 海とコスメがモチーフのトロプリに陸(大地)の要素が登場したことで、後回しの魔女の目的は「種(生物)の進化への介入なのでは?」と思い始めてきた今回。伝説のプリキュアは生命の自由な進化と環境適応を見守ってきた存在、カオスと創発の守護者で、魔女はオートポイエーシスと秩序の管理者⋯⋯とか。(9月19日)

◉追記 第29話時点で、あとまわしの魔女の勢力の戦略目標が明確ではない。グランオーシャンの人魚たちのやる気パワーを奪取して無抵抗化したり、地上の人類のやる気パワーの獲得を目指しているといった個々の「戦術目標」ははっきりしているものの、それらによる「愚者の棺」の解放がどのようなものなのか、いまだに明らかでない。

 第29話における最大のキーフレーズは〝伝説のプリキュア〟が発する「この世界を救って。そして、あとまわしの魔女になってしまった魔女も。」である。 サマーたちに託された「世界を救う」「あとまわしの魔女を救う」とはどのようなことなのか。これは、あとまわしの魔女の活動を挫いて戦略目標を無価値にしたうえで、あとまわしの魔女自身も救済せよとの啓示であろう。

 となると、伝説のプリキュアと、あとまわしの魔女の関係性を解き明かす必要がある。それには、あとまわしの魔女が、一体なにを「あとまわし」にしようとしているのかを推測しなければならない。あとまわしの魔女は、やる気パワーの収集をあとまわしにしている場面も見られ、緊急性が希薄である。だが、実際には強く固執している。

 そもそも、やる気パワーの実態が不明瞭である。人魚や人間からヤラネーダの眼力を使って吸い出すオーラ状のエネルギーとして、やる気パワーは描写されている。「やる気」という曖昧な表現がなされているが、それは人魚や人間の活力、さらにいえば生命力そのものであるようだ。やる気パワーが奪われた結果、その人間がどうなってしまうのかは不明だが、生命体としての生存さえも放棄し、最終的に死に至るのだろうか。

 結論へと一足飛びにいく。あとまわしの魔女の目的は、過去のプリキュア作品でたびたび描かれたいたような、下っ端戦闘員の大量動員による征服活動ではない。あとまわしの魔女があとまわしにしているもの、それは「死」であり、阻止するためにあとまわしさせたいものは「進化」である。さらにいえば、それらの総体としての「未来の到来」を遅らせることが、あとまわしの魔女の狙いであろう。

 これまで海と人の関わりを主体として描かれてきた本作において、第29話では、初めて明示的に「陸上」の要素が登場した。伝説のプリキュアはヤシの木をモチーフとしており、南洋の要素はありつつも、陸上の存在と明示されている。海から陸へ。これは生命の進化の過程における、陸上進出が暗示されている。約4億年前、植物、節足動物、そして両生類が順次的に陸上生活への適応を開始している。

 進化は、新しい環境への適応の連続である。あとまわしの魔女が、あとまわししようと拒否しているものは、この「変化」である。変化への拒否、先送り、しかし適応しないことによって追い詰められて滅亡することも阻止する。つまり死と滅びの先送りである。これは時間の否定であり、生命どころか、宇宙の法則そのものへの抵抗である。

 それほどまでにして、未来の到来を拒絶する理由は何か。バトラーは、あとまわしの魔女の屋敷の者たちにプリキュアの存在を口止めしている。プリキュアの存在をあとまわしの魔女に知られてはならないほど、バトラーが神経質になっている理由も、魔女が拒否する未来と、伝説のプリキュアがサマーに託した救済の実行に表裏一体の点があるからだと考えられる。

 話を冒頭へ戻す。伝説のプリキュアは、グランオーシャンの女王がローラに託した「伝説の戦士プリキュア」とは名前こそ同じであれども、別の次元の概念である。サマーたちトロプリのプリキュアは、現時点では「未来の到来を防ごうとする勢力(魔女たち)へ抵抗」するための自衛的戦闘員である。しかし伝説のプリキュアは「未来の到来」自体、あるいは生命を未来へと進める力そのものであり、その変化の守護者でもある。

 つまり、伝説のプリキュアは生命進化と時間という「法則」や「均衡」であり、あとまわしの魔女はその法則を静止させようとする「慣性」でる。そして、やる気パワーは生命体が(時間とは別に)変化を希求し、実行しようとする力の源泉であるから、それを奪い、活動力や行動力を減滅させて変化を止めるため、あとまわしの魔女にとって必要な行動なのである。

 逆説的に、「いま」を大切にするまなつにとって、「世界を永遠の〝いま〟に閉じ込めよう」と画策するあとまわしの魔女の思惑は、まなつを苦しめるかもしれない。その苦悩の先に、まなつは未来の選択、大人になることの意識、時間の実感という成長に到達するのではないだろうか。

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第28話「文化祭! 力あわせて、あおぞらメイク!」

 トロピカル~ジュ!プリキュアは⋯⋯実は、みのりん先輩が書いた物語なのではないか⋯⋯つまり『マーメイド物語』を書き直した改訂第2稿がトロプリ。(劇中での)部活は事実だが変身と戦いは創作で、転校生ローラは実在だが人魚ローラは創作。一度は擱筆したみのりん先輩が再び書き始める再起の物語。(9月12日)

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『トロピカル〜ジュ!プリキュア』
(Tropical-Rouge! Precure)
制作 朝日放送テレビ
ABCアニメーション
ADKエモーションズ
東映アニメーション

東映アニメーション 公式サイト
テレビ朝日 番組サイト